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「………………」
 家の風呂とも、それこそ俺が泊まったことのある旅館の内湯とも違う、いかにも計算づくされた感ただよう風呂は、宿と同じく源泉掛け流しだと聞いた。
 てか、広くね?
 久しぶりに一緒に入るかと言われて躊躇したのは、中を知らなかったから。
 まさか、こんなにデカい風呂場だとは思わなかった。
 宿とは違い、私宅ゆえに入る人数は限られているはず。
 それでも、恭介さんは『温泉宿の主人なら、風呂場を贅沢にしても誰にも文句言われないだろう』と譲らなかったらしい。
 「恭介さんに、聞きたいことがふたつあんだけど」
 「前置するなんて珍しいな。いいぞ」
 檜の香り漂う湯船は家とまるで違い、あと数人は入れるであろう広さで、手も足も当たり前に伸ばせる。
 正面はガラス張りで箱庭が見える形になっており、南天の木の赤が目にとまった。
 「美月さんってさ」
 「いい女だろう」
 「……間髪入れずにそれ?」
 「手を出すなよ」
 「いや、しねぇけどさすがに」
 まさかの発言に小さく噴き出すと、同じように笑った恭介さんが縁へ腕を乗せた。
 「やっとだ。……やっと迎えに来られた」
 ひどく想いのこもったセリフにそちらを見ると、打って変わって自嘲気味に笑う。
 「まあもっとも、断られても仕方ないとは思ってる。それでも、待ち侘び焦がれたことに変わりないからな、正直、今日会えたことが嬉しいよ」
 「何年も会ってなかったわけ?」
 「ああ。女将はずっと会ってくれてたが……今日、俺が来ることは知らなかったんだろうな。今まではずっと、探しても会えなかった。……いや、拒否されていたってほうが正しいか」
 「なんで?」
 「ノーコメント」
 「……うわ、すげぇ気になる」
 「気が向いたら教えてやるさ」
 こんなふうに含みを持たされたことは、あまり多くない。
 恐らくは話しにくいことであろうと、彼は教えてくれることが多かった。
 それこそ、いいことも悪いことも分け隔てなく。
 なのに口ごもったということは、よほどの何かか……あるいは誰にも言うつもりがないことなのかもしれない。
 「6年ぶりだっけ?」
 「ああ。何も変わってないといえば嘘になるな。艶やかになった。初めて会ったときとは、まるで違う。……いい女だ」
 口ぶりがあまりにもいつもと違いすぎて、そちらを見るに見れなかった。
 きっと、俺も葉月も……それこそ親父たちも見たことない顔してるんだろうよ。
 噛みしめるかのようにつぶやかれたセリフが、すべてを語っている。
 「で? もうひとつはなんだ?」
 柔らかい湯がゆらめき、肩に当たる。
 彼がこっちを見たのはわかったが、今度は別の理由でそちらを見れなかった。
 
 「……人を好きになるって、どういうことなのかなと思って」
 
 我ながら、ほかに言い方がなかったのかとは思った。
 だが、それ以上の何かが出ず、ぽつりと漏れるように尋ねる。
 「どこでわかる? 何が違うっつーか……なんか、具体的な何かってあるわけ?」
 何も言われないのが居心地悪くてそちらを見ると、間接照明の灯りに照らされた彼がおかしそうに笑った。
 「お前からそんなセリフが出ると思わなかったな」
 「いや……なんか、どう聞けばいいのかわかんねぇんだけどさ」
 「お前、女に困ってないんじゃなかったのか?」
 「困ってはねーけど……そうじゃないっつーか、俺自身よくわかんねぇんだよ」
 来る者拒まず去る者追わず。
 男女ともにそうだったが、だからこそ人は求めずとも手に入るものなんじゃないかと勝手に思っていた。
 手に入れられなかったものはそこまで多くない。
 挫折しなかったわけじゃないが、それとこれとは別。
 行きたいと思った場所は行けたし、得たいと思ったものはほとんど手に入った。
 くさい話かもしれないが、努力である程度報われてきた面も大きければ、運を掴めたのもそう。
 だから、素直にわからない、と言ってしまえた面もある。
 「純情な中学生のころにも聞かれなかった質問だな」
 「……純情、ね」
 「昔はかわいかったぞ」
 「当時もあれこれ吹き込まれてた気しかしないけど」
 「だからかわいいんだ。反応が素直だから、おもしろい」
 「悪質じゃね? それって」
 「多少反省はしてる」
 いや、ぜってー反省してねぇ口ぶりだろ。
 カラカラ笑ったあたりからして、楽しんでる雰囲気しかない。
 ……ま、俺もついこの間同じこと思ったから、しょうがねぇとは思うけど。
 いたいけな青少年をいじるのは、確かに楽しいもんだからな。
 「想像してみろ。その相手が、自分じゃない男と歩いてたらどう思う?」
 「え?」
 「手を繋いでたらどうだ? 知らない男が躊躇なく触ってたら、どう思う?」
 髪をかきあげた彼が、ジェスチャーを交える。
 触る、か。
 年末に葉月と買い出しへ出たとき、躊躇なく手が伸びた。
 反応が見たかったのか、単に……いや、なんで手を出したのかよくわからない。
 それでもアイツは、今まで俺がそうしてきた女とは違って、困ったように視線を落とした。
 ……思い出せないんだよな。
 俺を好きだと知る前に手を伸ばしていたころの、アイツの反応が。
 だから……いや、今まで手を出してきたのは俺だけ。
 じゃあ、ほかのヤツがそうしたらどう感じた?
 例えば――祐恭とか。
 もしアイツが葉月を触るのを見たら、俺はどう思うのか。
 「なんとも思わないなら、自分にとってはなんでもない相手なんだろう。だが、少しでも腹が立ったら、なんで俺じゃないんだと思ったら、それは相手を好きなことにならないか?」
 「…………」
 「手を伸ばす理由はいろいろあるだろうが、結局は自分だけのものにしたいかどうか、じゃないか? とどのつまり、今、相手がほかの男に抱かれてると思っても嫉妬しないかどうかの差だな」
 触るとか触らないとかではない、もっと先。
 恭介さんが言うとおり、今自分がこうしている時間に相手が知らないヤツと……と“仮定”したとき、どう思うかがデカイだろう。
 「俺は、美月がヨソの男といると考えただけで堪えられない」
 「……へえ」
 「見かけたら間違いなく割り込む。俺なら、そいつより満足させられる。愛する自信がある。俺だけだと言わせる自信が、な」
 愛する、か。
 祐恭は羽織へ当たり前のように口にしてそうな言葉だが、自分には程遠く感じられる。
 恋と愛の違いはなんだ。
 『下心と真心の違い』と誰かが言ってた気がするが、そういうレベルじゃない。
 答えと同時に根拠を欲しがる俺には、到底辿り着けないもの。
 「まあ、いろいろあるさ。ひとつじゃない」
 「そうかもしんねぇけど」
 「いい機会だ。悩んだらいい。自分なりの答えを出せたら、納得できるさ。それまで悩め」
 普段親にもされることがない、頭に手を置かれる行為。
 そういや彼は、小さいころからよく俺にこうしてきた。
 納得させるときも、こうして疑問を投げかけるときも。
 だから、俺も当たり前のように葉月へ手を伸ばしたんだろうな。
 誰かに触られることが、俺にとって嫌な思い出じゃない証拠、か。
 
 「うわ、すっげぇ」
 「これは……女将、今日はそこまで手持ちないんですが」
 風呂の前に通された和室へ戻ると、一枚板のテーブルにはそれこそご馳走さながらの料理が並んでいた。
 すげぇ旅館っぽい。
 いや、旅館どころか……すげ。うまそう。
 天ぷらに刺身、茶碗蒸し。
 あー、まじ久しぶりどころか目にもしてない料理に、テンションが上がる。
 「誰が金を取るって言った。まあ財布ごと置いて行ってもらっても構わないけどね。ただし、こっちとしてはキャッシュがありがたいよ」
 口とは裏腹なかなりのもてなし度合いに、恭介さんに対する女将の評価がわかる気がした。
 風呂から出てこれまた広い脱衣所兼の洗面所へ出ると、そこにはスラックスとワイシャツの代わりに浴衣が置かれていた。
 服をなんとかしてくれるってのは冗談じゃなかったらしく、女将は俺たちを見るとまた『兄弟みたいだね』とおかしそうに笑った。
 「もてなし客じゃないからね、余りもんばかりだよ」
 「いや、これは……助かります」
 「しょうがないだろう? はるばる来たってのに腹空かして帰したら、うちの評判にも響きそうだからね」
 「あー、それはありますね。これだけの星が揃う宿は小さな噂じゃ響かないでしょうけど、ありがたいほどもてなされたらいい影響しかない」
 「だから脅すんじゃないよ」
 「してませんて」
 宿とは違い、割り箸ではない塗り箸と茶碗といった、普通の器が並んでいる。
 そこそこお高いとは思うが普段使いのようで、じーちゃんちで過ごした年始の新年会を思い出す。
 「っ……」
 音もなく襖が開いて、美月さんが入ってきた。
 俺と恭介さんが同じタイミングでそちらを見たせいか、一瞬目を丸くしたものの、柔らかく笑って女将の隣へ座る。
 だが、ロビーで見たときと違い、平素に近い着物に着替えていた。
 「ふたりの服は、クリーニングへ回させてもらったの。だから……ゆっくり食事をしてもらえたら、じきにできあがるから」
 「追い返されないだけでなく、そこまで気遣われるとは。女将に感謝しなくてはいけませんね」
 「うちのチップは数枚からだよ」
 「だから手持ちが多くないと言ってるじゃないですか」
 「今の時代コンビニでも下ろせるだろう? ちょっと歩けばあるから、行っておいで」
 「……本気に聞こえるからやめてください」
 苦笑した恭介さんを見て、美月さんも小さく笑った。
 その顔が葉月に似ていて、なんともいえない気持ちになる。
 アイツは久しく笑ってない。
 それどころか、年が変わってからは……俺に謝ってばかりだった。
 「…………」
 「ん? どうした?」
 「いや……別に」
 果たして、その事実を彼に伝えたら俺の首はどうなるだろう。
 普段とは違い、前髪を下ろしている恭介さんは今限りなく上機嫌。
 伝えるなら今しかなさそうだが、豹変は容易に考えられるから……あー、やっぱやめよ。
 「ほら。冷めないうちに食べな。若いんだから幾らでも米は食べられるだろう?」
 「いや、さすがに米ばっかりおかわりできるもんじゃ……」
 「これだけおかずがあるんだから、遠慮なく食べたらいい。明日も仕事なんだろうし、今日はとっとと帰って早く寝な」
 「……すげぇ、うちのばーちゃんみてぇ」
 「年寄りの言うことは聞くもんだよ」
 「っ……同じこと言われた」
 「はは。確かに、お袋と同じだな」
 箸を握ったままの俺に、女将が眉を寄せた。
 そうは言いつつも、彼女の手元には茶碗がない。
 代わりに、よく冷えてそうな500mlの缶ビールとグラスが置かれている。
 「あげないよ? だいたい、車じゃないのかい?」
 「さすがに車はこっちにありませんよ。今度、見に行くつもりではいますが」
 「え、そうなの? 新車買うわけ?」
 「ああ。考えてはいる。……そのときは声かけてやるさ」
 ひょっとしなくても、顔に出てたんだろうな。
 俺を見て、恭介さんはおかしそうに笑った。
 「今日はどちらも電車なので、大丈夫です」
 「やれやれ。酒の催促までするとは、とんだ常連客だね」
 「客に格上げしてもらえましたか」
 「仕方ないだろう? 君のお陰で、今の流浪葉があるようなもんだからね」
 「それは光栄です」
 言うが早いか、姿を消した美月さんは戻ってくるとくすくす笑いながらロング缶を2本置いた。
 そのうち1本を開け、グラスを……恭介さんへ差し出す。
 「これはこれは。若女将、自ら注いでくれるとは」
 「チャージ料ももらおうかね」
 「いいじゃないですか、何年も待ったんですから」
 「それとこれとは別だよ」
 言いながら女将は俺へグラスを渡し、『普通は先に私の酌をしな』と鼻で笑った。
 それもそうだよな。
 泡立つビールを受けてから彼女へ手を伸ばし、缶を開ける。
 
 「ありがとう」
 
 冬でも小気味いい冷ややかな音に混じって、恭介さんのひどく穏やかな声が聞こえた。
 「それじゃ、遠慮なく」
 「いただきます」
 「っ……」
 簡単に乾杯をしたあとで、箸を握ったまま小さく喉が鳴る。
 「なんだい?」
 「……そういや、久しく言ってなかった言葉だな、と思って」
 「なんだい、今の若い子は挨拶も口にしないのかい?」
 最後に『いただきます』と当たり前の言葉を口にしたのはいつだったか。
 やっさんのところで飯を食ったときは、口にしてたのか。
 それとも……と思い出そうとしているあたりからして、ほぼ末期だな。
 少なくとも、“誰か”と一緒に飯を食っているときは、当たり前のように口にしていたはずなのに、たった数日で消えていたことに我ながら驚く。
 「言葉は大事だよ。口に出さなきゃわからないし、出すから必要だと思うんだ。言葉には、力がある。言霊って言うだろう?」
 「……確かに」
 「言葉は、受け取った相手のものだからね、慎重に使うんだよ。ましてや挨拶は基本だ。若いんだから大事にしな」
 しみじみつぶやいたあとで、女将はグラス半分ほどを一気に呷り、『あー冷えたもんがよく沁みる』といい音を立ててテーブルへ置いた。
 「うわ、うま……すっげぇうまい」
 「さすが流浪葉、と口コミに書いておきます」
 小鉢に入っていた筑前煮へ箸を伸ばすと、よく味の染みたレンコンが単純にうまいと思った。
 しっかりした出汁の味と、ほのかな甘み。
 あー、野菜とか久しぶりに食った。
 「あっちでの料理ならともかく、家庭料理そのものをそこまで褒められるとはね。……ま、美月は喜ぶよ」
 「ほう……用意してくれたのは若女将でしたか」
 「なんだい? 私が隠したとでも思ったのかい」
 「そんな意地悪しないでしょう。でも……そうか、どうりでうまいわけだ」
 姿が見えなかったのは、拒否ではなく真逆の理由があったとわかってか、恭介さんは美月さんに笑った。
 それを見てか、両手で汁椀を持っていた彼女も小さく笑う。
 恭介さん、相当喜んでんじゃねぇの。
 拒否されてきたと言っていた相手。
 何があったのかまでは知らないが、この待遇を歓迎と言わずなんと言うのか。
 「あー……うまい」
 「食べるもの全部うまかったら、幸せだろうよ」
 「いや、ほんとそれっすよ。すげぇうまい……幸せって近くにあるんだな」
 「大げさだねぇ。普段どんなもん食べてるんだい」
 「食うには食ってるんすけど、自炊しないっつーか」
 「食べ物は身体を作るんだから、大事にしな。言葉と同じだ。基本だろうに」
 「わかってるんすけど……省けるのはそこかな、と思って」
 「まったく。これだから今の若いモンは」
 ひょっとして、女将そんなに酒強くないんじゃ。
 あきらかに頬が赤く、そんでもって目が据わってるように見えるのは気のせいじゃないはず。
 これ、絡まれるクチじゃね?
 さりげなく美月さんが女将のそばへ水の入ったグラスを置いたのを見て、確信した。
 「うわ、このだし巻きすげぇうまい」
 「ちゃんと出汁の味がわかるなら、味覚は衰えちゃないんだね。親に感謝しな」
 「そういうもんすか?」
 「感覚ってのは、なんであれ鍛えなきゃ衰えるもんさ。それが機能してるから、うまいものをうまいと感じるんだろうよ」
 ふわふわのだし巻き卵と、添えられている大根おろし。
 定番といえば定番のメニューだろうが、俺にはどれもが特別でしかない。
 具だくさんの味噌汁は、長ネギの風味に負けないしっかりした出汁の味がした。
 昨日の夜に食べた、チンするだけの米や定番の惣菜とはまったく違う。
 あー、ひょっとしなくてもメシに対してさほど意欲わかなくなった理由って、これじゃねーか。
 当たり前なのに、当たり前じゃないんだよな。食事って。
 惣菜も普通に食うしうまいとは思った。
 だが、どこか後味が違う気がして、でも理由はわからなくてどこかに不全感があった。
 だから……つい思い出すのは、実家でのメシばかり。
 いつだってアイツは、用意してくれていた。
 勝手に出てくるわけじゃない、手のかかったもの。
 想い、か。
 確かにそうだろう。
 相手に対するソレがなけりゃ、こうはならない。
 美月さんが恭介さんへ揃えたこの食事と同じで、アイツはいつだって俺に自分の時間を割いて向き合ってくれていた。
 「葉月の味噌汁、うまいだろ」
 しみじみ思い返していたのを見抜いてか、恭介さんが笑った。
 普段と違って酒がほとんど減らない俺とは違い、手酌で缶を傾ける。
 って、それ2本目じゃん。
 いつの間にとは思うが、俺の顔を見てか美月さんが小さく笑ったのが見え、何も言えなかった。
 「いや、葉月の作るメシはなんでもうまいよ」
 「当たり前だ。俺の娘だぞ。できないことは何もない」
 「……これだから男親は嫌なんだよ。娘を過大評価しすぎじゃないかい」
 「いいじゃないですか、大事なひとり娘なんですから。事実、あの子はできないこと何もありませんよ」
 「いつまでも、そういうことを言ってるんじゃないよ。君を置いてそのうち嫁に行くんだから」
 「ッ……女将! 言っていいことと悪いことがあります!」
 「なんだい。本当のことだろうに」
 やばい、恭介さんも酔ってねーか。
 俺よりはるかに酒には強い人のはずだが、ひょっとして空きっ腹で飲んだ?
 だが、予想に反して彼の前の膳はかなり減っており、ああ単純な通常運転かと安堵する。
 「向こうではいつも、土鍋で米を炊くんだ。うまいぞ」
 「うわ、それ食ってねぇな」
 「向こうへ来たら食わせてやる」
 「すげぇ高いメシじゃん」
 自慢げに笑った恭介さんを見て、美月さんだけでなく女将も声を上げて笑った。
 
 
       
 
 
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