「明日も朝から仕事なんて、典型的な日本人だね」
「ご馳走様でした。でも、おかげであとは寝るだけです」
「よく歯を磨くんだよ」
「わかってますって」
玄関まで送ってくれた女将は、ふらりとした足取りで俺たちを追い払うように手を振った。
ジェスチャーとしては若干間違ってる気がしないでもないが、美月さんがしきりに『お母さん、飲みすぎじゃない?』と声をかけており、普段と違うことがわかる。
多く感じた食事も、結局あのあと2杯ほどお代わりをし、女将に『遠慮ないってのもどうかね』と言われたほど。
けど、改めて思った。
ああ、家の飯ってやっぱ特別なんだな、と。
全然当たり前じゃない。
「それじゃ、また」
「でも……」
「敷地内とはいえ、ここから先は暗い。ここで十分だ」
さっきまでと違い、普段と同じ口調で恭介さんが足を止めた。
大きな門には『郷中』と表札が出ている。
……そう。
葉月の本当の母親と同じ、この間テレビで見た女の苗字。
「美月さん」
「え?」
「今日はずっと客扱いでしたね」
俺だけでなく、どんなやつがここにいても、きっと恭介さんは何も気にせず彼女へ手を伸ばすだろう。
それがわかるからこそ、距離を取る。
どうやらここ自体が山際の高い場所に建っているようで、右手には緩やかな斜面と街の明かりが見えた。
「それは……恭介君が丁寧語だからでしょう?」
「はは。俺のせいか」
「っ……せい、ではないけれど」
密やかなやりとり自体が、秘密めいて聞こえる。
大人、か。
そういえば、美月さんは恭介さんのふたつ上だと聞いたが、そうは見えない。
って、恭介さんも年相応にはあんま見えねぇときあるから、そんなもんなのかもしれないが。
「っ……」
「近いうちに、また」
ジャリ、と小石の音がして彼が動いた。
一歩近づき、美月さんの手を握る。
たったそれだけ。
なのに、まっすぐに見つめたまま何も言わず見せた顔は、ひどく愛しげな眼差しだった。
きっと、葉月を見るのとは違う。
ああ、なるほど。
これが、好きってことなんだな。
何も言わずにうなずいたのを見てゆっくり離れた恭介さんは、それ以上何も言わず、彼女へ背を向けると坂へと足を向けた。
「どうだ。そろそろ、ひとり暮らしも満足したんじゃないか?」
「え」
「このくらいが、ちょうどいいだろう」
駅までの道を歩きながら、恭介さんが笑う。
それこそ、今の今とはまるで違う口調に、改めてああこえー人だなとも思った。
「ありがたみを知るにはいい機会だ」
「……最初からそのつもりだったわけ?」
「さあな」
程なくして見えてきた湯河原駅は、こんな時間にもかかわらずまだ人が多かった。
温泉街特有のものなのか、それとも祝日ゆえなのかはわからない。
だが、きっと上り方面の列車もそこそこ混雑しているだろうことがわかり、仕上げてもらったばかりのワイシャツの香りに少しだけ今日を意識する。
「明後日が休みだったか?」
「ああ。明日は普通」
「ま、もう少し謳歌するならすればいいさ」
「……まぁね」
時計を見ると、すでに22時過ぎ。
駅からバスは――さすがにねぇだろな。
となると徒歩か。
酔った足で20分歩くのは……ま、しょうがねぇけど。
酔いを覚ますにはちょうどいい。
と同時に、恭介さんから聞いた事実を含め、今日あったあまりにもデカい出来事を整理するにもちょうどいいかもな、と思いはした。
「っ……!」
翌朝、とおぼしき時間。
直感的に起きはしたが、時間がわからずスマフォを掴む。
アラームが鳴った気はしない。が、無意識に止めた気もする。
スヌーズにもしたし、細かく設定もしたが……うわまじか、もう7時過ぎじゃん。
布団を蹴飛ばすように起き、さっさと着替えを済ませる。
いつもならテレビをつけ、音だけでニュースを拾うが今日はそれしてたら遅刻かもな。
腕時計をはめ、バッグと鍵を持って玄関へ。
外に出ると、雨がぱらついていた。
コートを着ているとはいえ、雨ってのが視覚的に影響してか寒く感じる。
階段を降り、車へ……向かいかけたところで、駐車場の角に設置されているゴミ捨て場が目に入った。
積まれている、大量の指定ゴミ袋。
「っ……!」
今日ゴミの日か!
実家とは違う収集日なんだなとわかったのは、住んだその日に見たゴミカレンダーのおかげ。
だが、普段も自分がゴミ捨ての役割を担うことがほとんどないせいか、ちっとも気にしなかった。
実家の地区と違って、ここの次の燃えるゴミは金曜。
腐るモンは入っちゃいないが、かさばってきつつはある。
あーー。くっそ!
仕方なく階段をひとつ飛ばしつつ部屋へ戻り、鍵を……なんでこういうときに限って、うまくささんねーんだよ。
普段は気にならない滑りの悪さにイラつきながら、ドアを開けて口の空いたままだったゴミ袋を掴む。
今来たばかりの階段を駆け下り、結んだゴミ袋をなかば放るように置いてから、傘はささず……つーか結局買ったのに使う習慣ねーのかもな。
小走りで車へ向かい運転席へ座ると、大きめのため息が出た。
ギリギリ、まだ間に合う。
先日のあのモーニングを食って、ささっと出る程度には平気だろ。
小さな積み重ねながらも朝からイライラが募っており、どこかでリセットしないとまずい気にはなっていた。
「…………」
あれ。
エンジンをかける前にざっくり道路状況確認するかと思ったが、スマフォが行方不明。
どこに入れたっけ。
普段入れるポケットを確認し、バッグを見るも皆無。
つか、朝起きて――そのあと俺、どうした。
「ッ……!」
無意識に置いたのかもしれないし、ひょっとしたら触ってないのかもしれない。
が、どちらにせよスマフォの場所は、間違いなくあそこ。
つい今しがた往復した、3階の部屋のどこか。
あーー。
スマフォを忘れて過ごした自分の誕生日のことは、今でもよく覚えている。
あのときと違って、アイツから連絡くることはまずないだろうし、ひょっとしなくても家からだってないだろうとは思う。
だが、自分としては使いたいときにないのが非常に不便で。
「……はー」
シートへもたれるも、仕方なくドアを開ける。
朝っぱらから何回運動しなきゃなんねぇんだよ。
気力体力ともに使い果たして死ぬ。
さっきより少しだけ粒の大きくなった雨に当たり、イライラはさらに増した。
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