「…………」
 ひとりごとが多かったな、と今になればわかる。
 どれもこれも、楽しんでいたはずなのに違ったようにも思う。
 ま、どうせ全部理由づけでしかない。
 ホントのところなんて、俺でさえよくわかんねぇんだし。
 ここで暮らし始めてからは見ることのなかった、8時前のニュース番組。
 普段の習慣かいつも通りに目が覚め、結局二度寝を選ばず起きるほうを選んだ。
 今日なら、あの店のモーニングは食べられる。
 だが、休みの日に朝から支度して出かけるだけの気力は残っておらず、ソファへ座りこんだままスマフォを手にする程度の動きしかしない。
 あー……買い物と洗濯とか、ほんとめんどくせぇ。
 どうせひとりで暮らすんだし、誰に何を言われるわけでもねぇんだからテキトーでいいじゃんと思っていたものの、現実はそこまで甘くないこともよくわかった。
 向いてねぇんだろうな、結局。
 ねばならないところを、見なかったことにできると勘違いしてた俺には。
「っ……」
 朝っぱらから鳴るはずのないチャイムが鳴り、一瞬うとうとしかけた頭が急速に覚める。
 誰だよ、こんな朝から。
 スマフォに着信はなく、だからこそ小さく舌打ちが出る。
 続けざまに鳴ったチャイムで仕方なく立ち上がり、すぐそこの受話器へ。
 すると、勧誘よりもよほどタチの悪い顔が見え、当然のように眉が寄った。
「なんだよ」
「あら、随分じゃない。おやつ持ってきてあげたのに」
「朝から?」
「食べてないでしょ? 朝ごはん。それなら、はい。代わりに食べなさい」
「……無茶苦茶だな」
 ガードを外して玄関のドアを開けると、いかにもこれから出勤的ないでたちのお袋が立っていた。
 言いながら目の前へレジ袋を突き出され、相変わらずな唐突さにため息が漏れる。
「へー。中はきれいなのね。何畳のワンルーム?」
「8畳か、もうちょいあったか……って、ンなことはいいんだよ。今日、仕事じゃねーの?」
「仕事よ。生存確認しにきただけだから、帰るわ」
「はあ?」
 しゅた、と片手を挙げたお袋は、玄関から奥を覗き込むと満足したかのように両手を腰へ当てた。
 相変わらずわかんねぇ。
 行動パターンが読めなさすぎて、若干頭が痛い。
 つか、俺が今日休みでよかったな。
 アポなしに来るとか、会えない想定してねーだろ。
「……何しに来たんだよ」
「いいじゃない、新築マンションも見てみたかっただけ。それじゃ、戸締りちゃんとしなさいね」
 朝っぱらから自分の都合で訪ねてくるとか、完全にワガママじゃねーか。
 『じゃあね』と手を振ったのを見て、ドアを閉め――ようとしたとき、反対にぐいっと引かれた。
「ンだよ」
「もひとつ、大事なお土産持ってきたの忘れてたわ」
「はあ? ンな朝から甘いものばっか食わな……ッ……」
「ちゃんと送り届けてちょうだい。ひとりきりにしないって約束で、恭介君から預かってるから。いいわね」
 大きく開かれたドアを掴み直したところで、お袋の後ろから葉月が姿を見せた。
 目が合ってすぐ、よほどの反応をした俺を見て小さく笑う。
 その顔が、先日見た美月さんによく似ていて、妙な懐かしさを覚えた。
「それじゃルナちゃん、悪いけどお願いね」
「忙しいのに、送ってくださってありがとうございます」
「いーえ、お安い御用よ。じゃあね。頼んだわよ」
「いや、ちょ、まっ……! はあ!? ンで……!」
 葉月に手を振ったお袋は、こちらを振り返ることなく階段へ向かった。
 あとには、下っていく靴音だけ。
 目の前の葉月の向こうには、冬の晴れの日らしい乾いた白い日差しが見えた。

「お邪魔します」
 先に部屋へ戻ると、律儀なあいさつのあとドアを閉める音が聞こえた。
 ああ、なるほど。
 俺と違ってこいつなら、きっとひとりでも『いただきます』は口にするんだろうな。
「たーくん、具合はどう?」
「は?」
「えっと……お父さんから、たーくんが具合悪いって聞いたんだけど……」
「いつ?」
「昨日の夜だよ」
 部屋の戸口へ立ったままだった葉月が、心配そうに俺を見た。
 まさかのセリフに口が開く……が、ああなるほどなとも思った。
 どうりでお袋がプリンなんか買ってくると思った。
 しかもこんな、朝っぱらから。
 恭介さんが葉月へ何かしら俺のことを伝えたんだろう。
 まあ、半分くらいは盛って伝えたっぽいけどな。
「……何かあったの?」
「…………」
「ごめんね……私のせいで」
 ソファへ座り込んだら、すぐそこへ葉月が膝をついた。
 先日……あれからもう、約1週間経つのか。
 それが、早いのか長いのかはよくわからないが、そういやあのときも葉月はこんなふうに申し訳なさそうな顔をしていた。
「はー……」
「ご飯食べれてる? それとも、よく眠れてないとか……」
「お前のせいじゃねーから安心しろ」
 つか、そのセリフは本来お袋が言うもんじゃねーの。
 そういう親らしい心配はいっさい口にせず去っていったお袋とは違い、葉月はひどく申し訳なさそうな顔で両手を膝で組んだ。
「っ……!」
「危機感なさすぎだ」
 膝のすぐ横の床へ手をつくと、距離が簡単に消えた。
 すぐここで驚いたような顔をする葉月を見ながら……ああなるほど。
 やっぱ、手は簡単に伸びるもんなんだな。
 いつものように髪ではなく、当たり前のように頬へ手を伸ばした自分に少しばかり驚いた。
 きっと、昨日の夜の恭介さんに感化されたせい。
 ……今日俺が休みと知ってて、敢えて大事な愛娘を送り込んでくるとか、どうかしてんじゃねーのマジで。
 俺なら安心って思われてるというよりかは、昨日の夜、『風呂に行く』と言ったのと同じレベルな気もするが、何もかも全部彼のせいだってことにすりゃ問題ねぇだろ。
「誰も助けてくんねぇぞ。ここじゃ、お前の声聞いて飛び込んできてくれるヤツはいない」
「た……くん……」
「覚悟して来たんだろ? 恭介さんもいねぇのはわかってるだろうしな」
 白い喉がこくりと動いたのが見えたが、撫でるように指先で頬から顎を伝う。
 唇を結び、揺れるように俺を見つめ返すだけ。
「普段なら……ちょっと前なら助けるだろう俺が手ぇ出したら、誰にも助けてもらえねぇぞ」
 普段より低い声は、素だからかそれともこの状況ゆえか。
 瞳を細めてほんの少しだけ顔を寄せると、一瞬瞳を丸くはしたものの――なぜか小さく笑った。
「……ンだよ」
「どうして、たーくんがそんなに困った顔をしてるの?」
「っ……」
 まるで、じゃない。
 どんぴしゃり胸の内を言い当てられたような言葉に、こっちが驚く。
 ンな顔してるなんて自覚ゼロ。
 ただ、昨日の恭介さんの言葉が蘇って、もし今俺じゃない誰かがコイツへ同じように触っていたら、どんな気持ちになるかと逡巡しただけ。
「私、誰かに助けてほしいなんて思わないよ」
「……だから、そーゆーのが……」
「たーくんは、そう思ってない?」
 普段はこんなふうに思ったことをストレートには出さないようなたちなのに、こんなときに限ってどストレートにぶつけられ、何も言い返せない。
 だせぇとか、カッコ悪いとか、そういうことじゃなくて。
 ……あーあ。
 お前のほうが、よっぽど俺より大人じゃねーのか。
「…………」
「たーく……っ」
「物分かりよすぎだろ、お前」
 くしゃくしゃと頭を撫で、ソファへどかりと座り直す。
 そのとき、テレビの左上に自分の星座の運勢が載っており、『自分に素直に』の文字があまりにも過ぎてため息が出た。
「急に来て、ごめんね。でも、どうしてもたーくんと話がしたかったの。……どうしたら仲直りできるかな?」
「別に、喧嘩してねーだろ」
「けど……」
 そうじゃない。
 勝手に俺が離れただけ。
 ……離れた、なんてテイのいい台詞はねーよな。
 ただ単純に、逃げたみてぇなもんだ。
「悪かった」
「っ……」
「俺のせいでお前がひとり反省会繰り返しただろうことも想像つくけど、知らないふりした。……だから、お前のせいじゃない」
「ううん、私が素直に頷かなかったからでしょう? たーくんは、歩み寄ってくれたのに……ごめんなさい」
「んじゃ、お互い謝ったからもういいだろ。これでチャラな」
 姿勢を戻すとき、よ、と小さく声が出た。
 床へあぐらをかいて座り、すぐそこの葉月を見ると、わかってそうなもののどこかまだ腑に落ちてなさそうな顔をした。
「いっこ頼みがある」
「え?」
「メシ、作ってくんねーか。……惣菜食い飽きた」
 起きてから、まださほど経っちゃいない。
 だが、言ってから葉月の普段のメシの味が蘇ってか、小さく腹が鳴った気がした。
「何がいい? なんでも作るから、食べたいの言ってね」
「……まずは買い物が先だな。あと、洗濯」
「たーくん、自分でお洗濯したの?」
「たりめーだろ。羽織よかよっぽど使える人間に育った」
「もう。そんなふうに言ったら、羽織が怒るよ」
「どーだか。アイツもひとり暮らししたほうがいいんじゃねーの? ありがたみ思い知れ」
 ひょっとしなくても、アイツは祐恭の家でそれなりにやってる気がしないでもないが、それとこれはきっと別。
 誰かのためじゃなく、避けて通れる自分自身のために時間を使うことが、これほど簡単じゃないとは思わなかった。
「着替えるから、ちっと待ってろ」
「ん。それじゃあ、待ってから洗濯機回すね」
「あー……それもそうだな。つか、そうか。だから洗濯が減らねぇのか」
 どうりで、洗濯したのに大抵ひとつふたつ洗濯してねぇ服があると思ったよ。
 いつもは――って比べること自体がナンセンスだとわかっちゃいるが、指摘されて納得する。
 それこそ、いつもと同じ会話。
 だが、場所もそれこそ1週間前の自分の心持ちとも違っているからか、全然違うように感じておかしくもあった。

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