「おはよう。……どうした?」
「え? ううん、なんでもないの。おはよう」
翌朝の7時手前。
パジャマのままリビングへ下りてきた恭介さんは、葉月を見て不思議そうな顔をした。
いつもと同じ、6時半に葉月が起きた気配で目が覚め、一緒にベッドを降りた。
目が合うも一瞬戸惑ったのはわかったが、すり寄って“なかった”ことにしておく。
それこそ夢だ。気にすんな。
そんな意味を込めたものの、葉月は目の前にしゃがんで真面目な顔を見せた。
「いい? ユキ。あんなことしちゃいけないの。きれいじゃないんだよ? それに……いけないことなんだから」
いけないことかどうか、誰が決めンだよ。
仕方なく黙って聞いてはやったが、うんともすんとも言わず見つめていたら、やがて諦めたように立ち上がった。
しかし、あとをついて階段を下りてすぐ、こうやってつかまったわけだ。
シャワーではなく、わざわざ蒸しタオルを作り、鼻先から顎もとまでがっつりぬぐってくれるために。
「あ、コーヒー淹れるね」
「ああ。ありがとう」
恭介さんがテーブルの新聞へ手を伸ばしたところで、葉月はキッチンへ戻った。
ほどなくして、コーヒーとトーストの香ばしい香りが漂う。
「お前、葉月に何もしなかっただろうな」
「っ……」
あとを追うべく立ち上がったところで、がっつり首輪をつかまれた。
一瞬息がつまり、視線が逸れる。
だが、さすがにそれ以上何も言うことはなく、恭介さんはぽんぽんと頭を撫でると手を離した。
……知ったら確実に殺される。
首を舐めただけであの反応だったのに、がっつり胸だけでなくイカせたと知ったら首は飛ぶな。
ああ、今が物言えぬ立場でよかったぜ。
身震いしてからキッチンへ入ると、ちょうど葉月がマグへコーヒーを注いだところだった。
「じゃあ、いってくるよ」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「戸締り、しっかりするんだぞ」
「ふふ。今日はユキもいるから、大丈夫」
もう少しで7時半というとき、着替えた彼は玄関に立った。
この時期にしては遅い時間らしいが、今日は事務所ではなく出先へ寄ってからとのことで、そういやこの間そんな話も聞いたなと思い出した。
職場までは車ではなく、トラム。
てことは車庫にあの車はあるだろうが、まぁ……さすがにこの身体じゃ運転できねぇな。
葉月はばっちりだろうが、口ぶりからすると出かける予定はないらしい。
まぁ、学校もとうに卒業したし、冷蔵庫にもかなりの食材が入ってたから済むんだろうよ。
てことは、今日1日まったりだな。
人の姿ならやってみたいことは当然多いが、今じゃ限られている。
さすがに真昼間から弄ってやってもいいが、ンなシーンをうっかり恭介さんに見つかりでもしたらいろんな意味でアウト。
……アレは夜に限るな。
デカい洗濯機を回してから、掃除機を手にした葉月を見てホントにマメだと感心する。
眠ったはずなのに、眠い。
主のない広いソファへ飛び乗ると、それを見て葉月は小さく笑った。
「…………」
テレビはついてないが、新聞はすぐそこ。
当然英語で、内容はざっくりしかわからないが、多少の暇つぶしには……なるか?
「ユキ」
と思ったら、寝そべった足元へ葉月が腰かけ、頭を撫でた。
「…………」
「…………」
「……あんなこと、みんなにするの?」
何を言い出すのかと思えば、ありえない質問。
……あー。なんかデジャヴな気もする。
だが、明確な“いつ”かは思い出せず、葉月を見て顔を持ち上げる。
「えっと……あのね? あんなふうに舐めるのは、いけないことなんだよ。その……普段隠れてる部分でしょう? なのに、そんなところ……もう。びっくりしたんだから」
だろうな。
しかしお前、ホント真面目なの?
懇々と説諭をされるものの、頬が赤くそっちに目が行く。
……多少いい経験になったろ?
身体の向きを変えて葉月の膝へ顎を乗せると、一瞬目は丸くしたが頭から背中をゆったり撫でた。
「いい? ユキ。あなたは賢い子でしょう? もう二度とあんなふうにしないでね」
「…………」
「お返事は?」
YESともNOとも言わず、尻尾だけを振っておく。
すると、音で葉月も気づいたらしく、苦笑したもののそれ以上は何も言わなかった。
「ユキ、少しだけお散歩に行く?」
今日の昼食はゆでたまごと茹でささみ。
それこそ筋肉増強メニューだが、十分満足した。
つか、塩とかなくても十分うまいんだな。
そう感じるのはきっと味覚の差なんだろうが、だったらもしかしたらドッグフードもうまいのかもしれないと多少思いもした。
「ふふ。あなた本当に言葉がわかるのね」
リードを探していた葉月までくわえて持っていくと、くすくす笑いながらまた頭を撫でる。
すっかり日は傾き、夕方の時間帯。
だが、玄関のドアが開くと十分真っ白い日差しが見え、まだまだ時間相応の景色にはほど遠そうだった。
「もっと暑いかと思ったけれど……涼しいね」
アスファルトではなく、歩道はレンガ敷き。
しかも住宅街はほぼ庭に芝生が生えていて、大きな木陰が多い。
いわゆる“裸足”状態ながらも、これなら十分踏める熱さ。
薄手の長袖を羽織った葉月は、つばの広い帽子をかぶるとリードを手に巻きつけた。
「ふふ。歩く早さもあわせてくれるの?」
どうやらすぐに気づいたらしく、葉月はまた嬉しそうに笑う。
俺よかよっぽどお前のほうが、機微を察して賢いぞ。
先ではなく、まさに隣をひたりとついて歩くと、葉月はしげしげ見下ろしながら頭を撫でた。
散歩ってことは、目的はないんだろうよ。
まさに、がっつり見通せるストリートを歩くも、店は皆無。
どこもかしこも形は違えど家が立ち並び、子どもの声が多少する程度の静けさだった。
そういや普段、日本じゃそんなに歩かねぇな。
どうしたって車を第一に選ぶあたりきっと運動不足だろうが、今となってはそれ以外の選択肢はあまり出ない。
平日はそれこそ、学内を歩く程度。
まぁ、階段の段数だけならそこそこ行くだろうけど、カウンター業務ばっかりだとホント日に数百歩ってこともあるからな。
そういう意味では、こっちの生活はかなり健康的なんだろう。
「あ。ユキも少しだけ遊んでいく?」
ふと足を止めた先には、芝生の広場があった。
庭ではなく公園のつくり。
子ども用の遊具だけでなく、一定の高さの柵で囲まれているエリアもあり、中ではリードを外された犬たちが多くいた。
「ユキ?」
別によくね? 行かなくて。
見てくれは犬だが、中身は俺。
そもそも……犬はそんなに好きじゃない。
小型犬ならまだしも、見ろ。あのデカい犬。
立ち上がったらアレ、2メートルは越すだろ?
さすがに馴れ合う趣味はない。
「ユキ、行きたくないの?」
「…………」
「え……?」
その場へ座ったまま思わずうなずくと、目の前へしゃがんだ葉月が目を丸くした。
……やべ。
うっかり反応したあとで、一応視線は逸らしてみる。
違う。気にすんなって。ただの気のせい。
「っ……」
「ユキ、あなた……今、お返事した?」
両手で頬をつかまれ、どうしたって視線を合わせられる。
あー……その顔苦手なんだけど。
驚いてるのが半分、期待と『そうでしょう?』が半分。
まじまじ見つめられ、まかりとおせる気はするが……まぁしなくてもいいかとも思った。
どうせ夢。
それなら、お前にとっても楽しいほうがいいか?
「っ……すごい。すごい! ユキ、あなた本当に賢いのね」
驚いて引くかと思いきや、葉月はそれはそれは嬉しそうに笑うと抱きしめた。
一瞬息がつまり、それに気づいて慌てたように離れる。
その様を多くの人間が不思議そうに見ていたが、葉月は気にしない様子で頭を撫でると改めてすぐそこのベンチへ座りなおした。
「ユキはここじゃないの?」
「…………」
「ふふ。目線がほぼ一緒ね」
とんとん、と隣を叩かれ素直に飛び乗ると、どこか嬉しそうに葉月が背中を撫でた。
ちょうど木陰になっており、ときおり吹く風はからりとしている。
フリスビーやボールを追う犬や、駆け回っている犬、ただじっと座っている犬とまさに様々。
人間も同じか。
飼い主同士が楽しそうに話しているものの、ジェスチャーは日本より大きいように見えた。
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