「ユキ、もう少し飲む?」
 暑さよりも、どっちかっつったら腹減った。
 自分用ではなく、ちゃんと俺用として水筒を持ってきた葉月は、ちょうどよく冷えた水を飲みきったのを見て首をかしげた。
 ……あー、なんか……お前、面倒見いいな。
 察するチカラがあることで、機微を見逃さないっつーか。
 あの公園からかなり歩いてきたところで、うまい具合に木陰を見つけてすぐ水筒を開けた。
 葉月にとってはこの距離は大したことないんだろうが、普段とは違う体のせいか座りたくなるのを見越していたのかもしれない。
「じゃあ、ちょっとだけ買い物して帰ろうか。朝、牛乳がなくなっちゃったの。お父さんにお願いしたんだけど……忘れてたんだって」
 スマフォを見ながら、葉月が笑った。
 しゃがんでいるので画面を覗くと、『家に着いた』とのひとこと。
 その前には当たり前のように『今どこにいる?』と恭介さんらしい言葉があって、葉月は答える代わりに俺の写真を送っていた。
 公園のあった通りとは違い、ここは個人店が立ち並んでもいる。
 肉屋にコーヒーショップ、そしてパン屋。
 その先に“CHEESE”とデカデカ書かれた看板があり、どうやらあそこを目指したんだとはわかった。
「……あ……」
 さっきまでと同じく、ぴたりと隣を歩き始めてすぐ、葉月が先に足を止めた。
 視線は向いたまま。
 両手でリードを握りなおすも、表情がどこか硬い。
「Hi,Luna」
「……Hi」
 顔を上げると、あのとき見た顔があった。
 今日は2人。
 どちらも知り合いらしいが、ひとりは葉月を見てどこか困ったような顔をしたが、あのとき会ったヤツは嬉しそうに笑うと胸に手を当てた。
「I'm glad to see you」
「あ……ええと……sorry,I just――」
「Luna.Don't avoid me.I see but,I……I just wanna talk you(避けないでほしいんだ。ただ、僕は君と話がしたいだけで)」
「Jack,Let's leave at that(もうそのへんにしておけって)」
 明らかに葉月は困っているし、戸惑っている。
 もしかしなくても、ツレは理解してるんだろうよ。
 葉月へ小さく『Sorry』と口にしたあと、話題を変えようと声色を変えた。
「っあ……!」
 だから、お前はお人よしなんだって。
 時間軸で言ったらこれよりもあとだが、俺の中では過ぎた過去。
 笑顔で接しているわけじゃなかったが、あのとき葉月はそれでも気遣うような言葉を口にした。
 優しいとか、好意的とか。
 そういうのを、言葉じゃなく見た目で取るやつも一定数いる。
 独自の正義を振りかざし、相手に傷つけられたと被害者ぶるようなやつもな。
「ユキ、待って! あ……Soryy,I gotta go」
 リードをくわえて引っ張り、あちらへ。
 いつまでも付き合っていたところで、確実にラチはあかない。
 嫌な想いもするだろうし、相手だって納得しねぇだろ。
 助け舟出してくれてンだから、その隙に逃げろって。
 きっとここに恭介さんがいたら、アイツもまったく違う態度を取ったろうな。
「……ありがとう」
 目的の店のドアで止まると、葉月は律儀にも目の前へしゃがんだ。
 頭を撫で、どこかほっとしたように笑う。
 ……ったく。だからお前、ひとりで外出すんなって言われんだぞ。
 今日のことは恭介さんへ言わないだろうが、知ったら今後は散歩すら禁止されねーか。
「すぐ戻るから、ちょっとだけ待っててね」
 そこのポールへリードを結ばれ、仕方なくしゃがんでおく。
 ま、くくられずとも逃げねぇけどな。
 さっきの場所よりも人通りは多く、すぐそこの通りはトラムが走っていた。
 小さな子どもから大人まで、さまざまな表情を見せながら目の前を通り過ぎていく。
 中には手を振る子どももおり、ああ結構犬好きな連中は多いんだなと感じた。
 ……さすがに、散歩中の犬が目の前で立ち止まると困るけどな。
 悪いが、犬の言葉はわかんねぇぞ。
 飼い主がうながすも微動だにせず、仕方なく先に視線を外すとほどなくして何事もなかったかのように歩いて行った。
「お待たせ」
 見慣れたエコバッグを手に戻ってきた葉月は、俺の前へしゃがむと骨の形をしたパッケージを開けた。
 中にはぷるぷるした白いものが入っていて、一瞬白玉にも見える。
「ふふ。ワンちゃん用のチーズなんだって。食べてみる?」
 ひとつつまんだそれを、葉月が手のひらへ乗せた。
 ……腹減ったって思ったの、気づいたわけ?
 だとしたらお前はさながらエスパーだな。
 まあ、断る理由はねぇけど。
「どう?」
 あえて舐め取るように食べると、いわゆるモツァレラに似た味がした。
 乳臭さは少なく、だがあれよりももう少しこってりしている。
「ふふ。おいしいんだね」
 何も返事しちゃいないのに、葉月はくすくす笑うともうひとつ手に乗せた。
 ……あー。尻尾か。
 意識してなかったが、どうやらふさふさ動いていたらしい。
 厄介だな。
 多少バツの悪さはあるが、うまいのは事実。
 ふたつめを平らげると、葉月はどこか満足そうに笑ってハンカチで手を拭いた。
「……ん。もしもし? 今、ちょうど牛乳を買い終わったの。これから帰るね」
 誰かなんてたずねずともわかる内容。
 立ち上がった葉月はスマフォを耳へ当てたまま、リードを手にからめる。
 心配するのもまぁわかるからな。
 勘みたいなモンもあるだろうが、恭介さんの場合はなんらかの根拠で動いてそうな気はするし。
「ふふ。途中まで迎えに来るって」
 まじで。
 さすがに今物言えたら、うっかりそういう程度には反応した。
 が、今は言う代わりに耳が動いたらしく、葉月はそっと触れると苦笑する。
「それじゃ、帰りは向こうの通りにしようか。お父さんが来るとしたら、あっちだから」
 さすがは娘。ルートまで把握済みとはね。
 いいんだか悪いんだか知らないが、確かに来た道よりも人通りはあるし、何より流れがあるから立ち止まらずに済みそうだ。
 たとえば……さっきみたいなヤツがいてもな。
「…………」
 ショーウィンドウのガラスには、リードを握る葉月とまさに“ユキ”が映っている。
 醒めればいいが、もう少し続くのも悪くない。
 疑似体験にも似た空間へ放り込まれた気分は、案外おもしろいもんなのかもな。

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