「アイツ、中学のときからずっとそうなのよ。違う点っつったら、告られたあとヤるかヤらないかの違いじゃないかしら」
 直接的な表現ながらも、少しは聞いたことがあるからこそ小さく喉が鳴った。
 彼を欲しがる人は多かった。
 ううん、過去形にならないほど、きっと今も私が知らないところでは人がいるはず。
 私は見えないだけ……もしくは、見たくないのかな。
 無意識に自分でフィルターをかけて、なかったことにしているだけなんだろうか。
「相手が付き合ってほしいって言えばそのとおりにしたし、セックスしたいって言えばもちろん。ほんと、何もかも受動的なのよね。アイツの恋愛ってすごく」
 受動的と表現されたことが、意外ではなくどこか腑に落ちるような気がした。
 欲しいという自分の欲望ではなく、相手の言葉を受けることで……もしかして自分を守ろうとしていたのかな。
 それとも、防衛が働いていた?
 昨日、菊池先生からも聞いたことがいくつか頭をよぎり、だからこそ……不思議な気持ちもする。
 だって、たーくんはいつも自分で責任をとろうと動く人。
 どんなことでもいつも先読みをして、様々な選択肢を練り、その中から彼なりの最善を選ぶ。
 だからこそ、アキさんや菊池先生が言う“彼”の話を聞きながら、事実だろうによくわからない気持ちにもなる。
 意外、というのとは少し違う。
 でも、それらの情報も“事実”だろう。
 だからきっとこれはすべて、イメージという名のもと、私が彼に向けている勝手な印象でしかないんだ。
「きっとね、アイツはどこかで私の気持ちに気づいてたのよ。だから高校だけは女が入れない男子校をあえて選んだんだから。……そのとき諦めればよかったのにね。でもできなかった」
「それは……」
「大学に行けばきっと違う、大人になれば関係が変わるって期待して信じてた。……馬鹿よね私も。ほんと、なんで諦めようって思わなかったのかしら。いくら告白しても動いても変わらなかったのに、環境が変化しただけで関係まで変わるはずないのにね」
 アキさんが肩をすくめ、あーあ、と大きな声とともに息をついた。
 もうすっかり庭は暗くなり、時計は17時を回っている。
 お互いのカップからは湯気もなく、ただだた静かな時間が流れていた。
「……ねぇ、どうして?」
 目が合った瞬間、アキさんが苦笑した。
 本当に、困ったような顔。
 だけど少しだけ、呆れているようにも見える。
 アキさんは優しい。
 こんな私を見て、嫌がらずに彼女は笑ってくれた。

「なんであなたが泣くの?」

 目を見たままでいられず、視線を落として涙をぬぐう。
 想いが、あって。
 これまでの時間が、あって。
 たくさんのものがあったからこそ、彼女は今でも彼を好きでいつづけている。
「だって、アキさんが……」
「ね。かわいそうでしょ? 私」

「アキさんが泣いてないから」

「……え?」
「私がもし幼馴染でアキさんの立場だったら、毎回悔しくて、きっと同じようにどこまでも追いかけていたと思います。それでも報われなくて、都度悔しくて……つらくて。でもやっぱり諦められなくて、離れられなかったと思うんです」
 一番近くにいられるのに、決して手を伸ばしてくれない人。
 いくら想いを伝えても、真意が伝わらない人。
 何度も何度も自分の気持ちを伝えるのに、そのままには取ってもらえず。
 関係を変えるためにいろいろなものを変化させて臨んでも、同じ答えしかもらえないとしたら、心がしぼんでしまってもおかしくない。
 1年や2年じゃない。
 彼女はずっと、ずっとずっともう何年も彼を好きでいたのに。
「本当に……なんて人なんでしょうね」
 いけない人だと思う。
 たくさんの人に想われて、なのに……さらりとくっきり線を引く。
 機微を察することができるのに、こと自分になると薄くなって。
 彼の中での“人”は、かなりはっきりとカテゴライズされているんだ。
「ごめんなさい……私、人との境界が曖昧なんです。ドラマも本も、好きだけど苦手で。入り込みすぎて、疲れちゃうんです」
 涙を拭い、改めてアキさんを見ると、彼女はさっきまでとは違って穏やかな笑みを浮かべた。
 いつもたーくんがそこでするのと同じように、テーブルへ頬杖をついて、私がそこへ置いていた手を重ねるように握りながら。
「私も、アイツの前で泣いてみたらよかったのかもね」
「え……?」
「そしたら、ちゃんと真意が伝わったかもしれない。……でも、してこなかった。結局恐かったのよ。だってアイツ、私がどんなこと言っても絶対恋愛関係に発展しない感じだったし。だからたとえまわりの子みたいに『抱いて』って言ったところで、確実に拒否されるのがわかってたから」
 ぽんぽん、と慰めるかのように手の甲に触れられ、また涙が滲みそうになる。
 明るい声が、つらい。
 まだ全然整理なんてつけられてないはずの気持ちを、彼女はこうして口にすることで飲み込もうとしているように見えた。
「なんだかんだ言って、好きでいる時間が楽しかったのかなとも思う」
「…………」
「だからきっと私は、逃げてきただけなのよ。今までずっとね」
 手のひらが離れ、彼女は伸びをするように天井へ向かって両手を伸ばすと、ストレッチのようにしてから大きく息を吐いた。
 おしまい。
 そう言いたげな表情で、口を開いて笑う。
「正直意外だったわ」
「……何が……ですか?」
「葉月ちゃんと初めて会ったときね、羽織と一緒で優しくて誰のことも受け入れて、きっと悪い大人に騙されても恨まないんだろうなーって思ったの」
 羽織と似てると言われることはある。
 でも……彼女は私とは全然違うの。
 アキさんが今言ったように、誰かを恨まず“勉強だった”とか“意味があった”と考えられるのは、きっと羽織じゃないかな。
 あの子はとても優しい。
 温かくて、自分のことのように誰かのしあわせを一緒に喜んでくれる。
 でも……私は違う。
 もしも明日、明後日、数年後、たーくんが私ではない違う誰かを選ぶことになったら、誰も恨まずにいられる自信はない。
 いい子、じゃないから。
 私はこれまでもずっと、自分のことしか考えてこなかった。
「でも葉月ちゃん、ただ優しいだけじゃないのね。まるで、背負ってる何かがあるみたい」
「っ……」
「あなたが優しいのは、人に優しくされたのもあるんだろうけど、いっぱい裏切られて傷ついてきたようにも見える。だからきっと、アイツよりもあなたのほうがよっぽど大人なんじゃないかなーって今思ったわ」
 両手を重ねた彼女は、ちらりと腕時計に目を落とすと肩をすくめた。
 リミットは間近。
 脱いだジャケットを手にすると、アキさんは少しだけ首をかしげる。
「葉月ちゃん、聞かれなかったでしょ? で、俺にどうして欲しいんだ? って」
「それは……はい」
「ねぇ。それじゃあ孝之が、どうしてあなたのことを好きになったか聞いてみたことある?」
 どうして私を好きになったか。
 そんなことを聞いてみたことはなくて……それどころか、考えてみたこともなかった。
 たーくんはどうして、私を好きになってくれたんだろう。
「好きになった理由。アイツ、なんて答えると思う?」
 アキさんは少しだけ悪戯っぽく笑うと、瞳を細めた。
 探してみたら、理由は見つかるんだろうか。
 “これ”という、明確な何かが。
 ……でも。
 少なくとも今、私にはやっぱり考えつかない。
「さあ」
「っ……」
「それ必要か、って……そう言いそうですね」
 たーくんなら、どう言ってくれるだろう。
 少しの間考えてみたけれど、でも……これが彼らしいかなって思った。
 これまで何年も離れていた彼とは、本当に最近再会できて。
 急激に情報を得ることができるようにはなったけれど、きっと、交わした言葉はアキさんよりもずっと少ないはず。
 そんな中ではじき出した、単なる私のイメージ。
 でも……うん、そうかな。
 今のセリフは、私の中でもきちんと彼の“声”で再生された。
「そうね……アイツなら、そう言うわ」
「……アキさん?」
「あー……私じゃいくら考えても出てこなかったのよ、そのセリフ。従妹だからとか、ずっと守ってきたからだとか、そういう一般的な理由ばっかり思いついてた」
 上着を着なおした彼女が、ゆっくり立ち上がった。
 ただその途中、マグが残っていたのに気づくと手を伸ばし、すっかり冷めてしまったであろうそれを飲んでくれる。
 唇を離したとき、彼女はほんの少しだけ視線を逸らしたままで笑った。
「でもそうね。アイツならそう言うわ。……はー。あなたの中にはもう、ちゃんとアイツがいるのね」
「っ……」
 ちょっと妬いちゃう。
 マグを置きながら聞こえた言葉は、きっと彼女の本音だろう。
 目が合った途端、これまで一度もしなかったのに唇をとがらせて見られ、また小さく『あーあ』とつぶやいた。
「はー、ご馳走様でした」
「あ……羽織に会っていきませんか?」
「……んーでも今、集中してるでしょ? もうちょっとだし、途切れないほうがいいかな。どうせなら、ほら。全部終わったあと改めて、声かけてあげたい」
 玄関へ向かったアキさんは、ちらりと階段を見てから首を振った。
 “先生”の顔だ。
 きっと今日もこれから、追い込みをかけているたくさんの生徒たちへわけ隔てなく平等に勇気を与えてくるんだろう。
「そのときはまた、一緒にお茶してくれる?」
「こちらこそよろこんで。また、お話させてください」
 腰かけながらブーツを履いた彼女は、立ち上がると私を振り返ってにっこり笑った。
 ……あ。
 そういえばさっき、ポストまで行ったのに夕刊確認してこなかった。
 どうせなら彼女を送りながら下まで行きたいな。
 サンダルを履いてドアを開け……る、とすっかり日が落ちて暗くなった階段から、もっと濃い黒色が動いてみえた。
「あら。何よー。あんた、帰ったんじゃなかったのー?」
 くすくす笑いながらアキさんが抱き上げたのは、黒猫。
 もしかして、ずっと待っててくれたのかな。
 だとしたらきっと、かなり冷えてしまったんじゃないだろうか。
「ねえ、葉月ちゃん。孝之のこと、一晩貸してって言ったらどうする?」
 猫を抱き上げた彼女が、私よりも高いところから笑いかけた。
 しっかりとした笑顔。
 だけど……目だけは笑ってないように見えるのは、私の気持ちが反映しているからかな。
 咄嗟に言葉が出なかったものの、やっぱり……さっきと同じように考えてみる。
 たーくんなら、なんて答えるだろう。
 でも彼の声で再生するまでもなく、ふるふると首が横に振れた。
「私が決めることじゃないです」
「……え?」
「たーくんがそれでいいって言うなら、いいと思いますよ」
 私の想像の範囲でしか答えられないけれど、でもきっとそれ以上の言葉を彼は返すはず。
 これまでの何年もそばにい続けただけでなく、彼が気づかなかったとはいえ、何度もなんども想いを口にした相手なんだから。
「いいの? アイツに投げて。無理矢理酔い潰して、押し倒すかもよ?」
「アキさんがそれで満足できるなら、きっとたーくんは応えるんじゃないですか」
 彼女が外階段を先に下りたことで、私のほうが目線が高くなった。
 玄関外の灯りはつけたけれど、やっぱり下へ行くに連れてかなり暗い。
 一番下の門扉にも明かりはあるけれど、もうすっかり夕方ではなく夜の空気だ。
「わっ」
「呆れた。あのね、そこは普通やめてって懇願するところでしょ? すがりついて泣きなさいよ。ごめんなさい、何でもするからそれだけは許してって」
 黒猫を抱き上げたまま、アキさんが肉球を私の鼻先へ押し当てた。
 温かくて、少しだけ柔らかくて。
 普段まず味わわない感触に、目が閉じる。
「はー、やだやだ。葉月ちゃん、意外とおバカさんなのね」
「……すみません」
「そこで謝るとかもーナメくさってるとしか思えない。どこの世界に、自分の彼氏突き出す女がいるのよ。……まったく。孝之が、私でしかイけなくなったあとで泣いたって遅いわよ」
「それは……泣くの、私ですか?」
「あらやだ。顔に似合わずそーゆートークもできるとか、おもしろいじゃない。逆に興味沸いたわ」
 最後の階段をアキさんが降りたとき、ちょうど向こうの角を1台の車が右折してきた。
 彼女の背中ごしにライトが見え、眩しさで一瞬目が閉じる。
 でも、シフトチェンジの音はやっぱりいつもと同じで。
 ハザードを焚いた車は、口を開けたガレージへ滑り込むように姿を消す。
 ……家の中で聞いているよりも、ずっとエンジン音がするのね。
 静かな住宅街だからこそ、この車特有の音が消えると、あたりは先ほどよりもずっと静かになった気がした。

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