「何してんだお前。……珍しいな」
「デートのお誘いよ」
「……はァ?」
 コートを着込み、いつもと同じ革の鞄を持ったたーくんが姿を見せた。
 でも、アキさんの隣へ並ぶものの、訝しげに眉を寄せる。
「あら、こんだけ付き合い長いのに知らなかったの? 私、女も男もイケる口なのよ」
「……ふぅん」
 肩をすくめた彼女は、彼へ身体ごと向き直ると抱いていた猫をそっと下ろした。
 かと思いきや、片手を伸ばしてたーくんの肩に触れる。
 かかとが高いこともあるけれど、アキさんはもともと私よりもずっと背が高い。
 それこそ、彼の肩へ腕を乗せることも、今ならできそうなほど距離は近かった。
「ねぇ、いっぺんシてみる? 私と」
「は?」
「すっごい気持ちいいわよ。ほかの女抱けなくなるかも」
「……馬鹿じゃねぇの。つか、人のこと性欲の塊みてぇに思ってンだろ。人権侵害だぞ」
「あら。だってアンタ常にそっちの人でしょ?」
「あのな。快楽のために生きてるわけじゃねぇんだよ。優人と一緒にすんな」
「あはは! よく言うわよ。これまで散々ヤることでしか生きがい感じてなかったクセに」
 腕を組んだたーくんは、舌打ちするとそれはそれは嫌そうに眉を寄せた。
 最近、ずっと見ているような表情……だけど、相手がアキさんだからか、“昨日”よりも柔らかく見える。
 ……これもきっと、私の気持ちの影響なんだろうけれど。
 でもふたりはやっぱり、言いたいことを言いながら、あと腐れなくお互い流せる相手なんだと思えた。
「え?」
「それじゃ葉月ちゃん貸して」
「……はァ?」
 くるりとこちらへ向き直ったアキさんが、ふいに私を抱き寄せた。
 ちょうど顔のそばへ胸が当たり、ほのかに香水の香りが漂う。
 お化粧の香りもあるかな。
 くすくす笑った彼女は、指先で私の頬を撫でると近い距離で笑った。
「ねえ、どう?」
「えっと……」
「一晩ですっごい気持ちいいこと教えこんであげる。孝之なんかより、よっぽど気持ちいいわよ? なんせ、女の身体は女が一番よくわかってるんだから」
 つつ、と耳元から首筋を爪の先で撫でられ、痛みとは違う感触に喉が動いた。
 囁き方が、さっきまでとはまったく違う。
 息をたっぷり含んだ声は、同性だとわかっていてもどきどきするような色香があった。
「っ……」
「ふざけんな。つか、コイツにそういうことを吹き込むんじゃねぇよ」
 馬鹿か。
 ため息混じりにつぶやくと、たーくんは私の肩へ腕を回してアキさんを離した。
 昨日よりも、もっと近い距離。
 でも……なんだか懐かしい気持ちになるほど、久しぶりで。
 彼の横顔を見上げながら、なんともいえない気持ちが広がった。
「はー、ないわ。アンタちっさい男ね」
「……お前な」
「がっかりしたわ。そーゆーのは、葉月ちゃんの意見尊重すべきなんじゃない?」
 おかしそうに笑いながら、アキさんがたーくんを見つめた。
 その途端、訝しげというよりはおもしろくなさそうな顔で、たーくんが私を見下ろす。
 まるで、彼が好きじゃない何かを提示したときの、理由を求めるように。
「お前、アキとやりてぇの?」
「え……っと……」
「…………」
「…………」
「ッ……即否定しろよ」
 大きく舌打ちすると、たーくんが私から手を離した。
 温もりが消えたこともそうだけど、感触がなくなったことが寂しくて、小さく声が漏れる。
 でも、どう言えばいいかわからなかったの。
 するしないという具体的なところではなく、つい……目の前の彼が私へ手を伸ばしてくれたときを、想像してしまって。
「っ……」
「孝之に飽きたらいつでも呼んで? 相手するから」
「アキ!!」
「あらやだ、こっわーい。じゃあね葉月ちゃん」
「あ……っ。また、お茶を飲みにきてくださいね」
「ん、ふたりきりじゃないところでね。じゃないと私、本気で葉月ちゃんのこと抱いちゃうかも」
 アキさんが私の頬へ口づけた瞬間、たーくんが声を上げた。
 いつもよりかなり低い声で、アキさんは間違いなく“わかった”はず。
 ぺろりと舌を見せたあと、私を見て苦く笑う。
「あーやだやだ。男の嫉妬って醜いわよ」
 きびすを返した彼女が手を振ると、バッグのチャームか何かがシャラリと音を立てた。
 同時に夜道へヒールの音が響き、小さくなるまで少しだけ時間がかかる。
 ……アキさん、よかったのかな。
 きっと本当は、たーくんへ違うことを言いたかったんじゃないかなと……それこそ勝手に思いを抱いたせいで考えはそちらへ。
「……え?」
 アキさんの姿が暗がりへ消えてしまったところで振り返ると、たーくんは階段を上がらずに私を見つめていた。
 表情は変わらない。
 それこそつい先ほどからずっと見せているような、真意を図るかのようなまなざしのまま。
「いい気しねぇ」
「……どうして?」
「じゃあお前、俺が目の前でほかのヤツにキスされてんの見たらどう思う」
 いつもと違う、ぼそりとした言い方。
 たーくんがこんなふうに言うことはこれまでなかったような気がするからこそ、少しだけ目が丸くなる。
「それは……あんまり嬉しくないけれど」
「だろ」
「でも、アキさんだよ?」
「アキだろうと誰だろうと、嫌なもんは嫌なんだよ。そりゃ、お前にとっちゃキスは単なるあいさつで、知らないヤツとでもできンのかもしんねぇけどな」
 彼はずっと、静かに口にしていた。
 さっきまでの口調とは違い、とてもフラットで。
 でも、だからこそストレートに胸へささってくるようにも思う。
 淡々とした、穏やかな喋り方。
 抑揚も少なく、流れるように言葉が紡がれる。
「でも、俺にとってはそうじゃない。たとえ相手が恭介さんだって、見たらいい気しねぇぞ」
「っ……」
 お父さんが私へキスをすることはまずないし、それこそ小さいころだってされたことはない。
 ハグをする習慣はあるけれど、握手をすることのほうが多い。
 でも……確かに、そうだよね。
 さっきたーくんに提示されたように、彼へほかの人が口づけたのを見たら、私もきっと気持ちは大きく揺さぶられるはずだ。

 『男の嫉妬はみっともないわよ』

 アキさんがさっき笑ったセリフが響くけれど、そういうことじゃないと思う。
 嫉妬ではなく、単純な“好き”“嫌い”。
 彼はあれを、よしとはとらえなかった。
「なんか……俺じゃねぇやつでもいいって言われてるみたいで気分悪い」
「っ……」
 こちらへ背を向けたまま、たーくんは先に階段を上がり始めた。
 言い方が、ぼそりとしたつぶやきかたが、まさに“初めて”で。
 慌ててあとを追う……ものの、ポストを確認してなかったことに気づく。
 待ってほしい。けれど、彼は振り返らない。
 ……いつもは……ううん。もうこればかりだ。私。
 そう。
 彼はいつだって、私をちゃんと待って受け入れてくれているのに。
「たーくんっ!」
 玄関のドアを開けた彼を呼ぶものの、返事はない。
 足を止めず階段を踏むのを見て、慌ててあとを追う。
 あぁ、どうしよう。
 どうしたら、聞いてくれる?
 振り返らずに自室の電気をつけた彼は、バッグを放るとコートに手を伸ばした。
「ごめんなさい、そういうつもりじゃなかったの」
「…………」
「でも、あのね? アキさん、たーくんのこと……ずっと好きで……」
「だから?」
「っ……」
「で? 俺がどうしたら満足なんだ、お前」
 これまで、一度もこんなふうに笑われたことはなかった。
 ……聞いたことは、ある。
 あれは1月の半ば、図書館から出たあとに“あの人”を知る男性に対していたときと同じ。
 呆れたというよりも、まさに嘲笑に近いもの。
 たーくんは、表情を変えずまっすぐに私を見つめると、目を逸らさずにコートをベッドへ放った。
「アイツんとこ行けばいいのか?」
「それは……」
「今から追いかけて押し倒しゃいいのか? そしたらお前、満足すんの?」
「っ……」
 一歩近づいた彼は、私を見下ろすと何も言わないのがわかってか舌打ちした。
 何も言わず横を通り、ドアへ向かう。
 ……違う、の。
 そうじゃない。
 そういうことを言ってほしかったわけじゃないのに。
「たーくん!」
 彼の腕を取るも、振り返らなかった。
 両手を当て、そっと力を込める。
 違うの。ごめんなさい、そうじゃない。
 いろいろな言葉が混ざって漏れそうになるけれど、視線だけを向けた彼はこれまで見たことがないほど冷たい眼差しをしていた。
「やだ……それは、嫌だよ」
 どう伝えたらいいかわからなくて、悩んで。
 適切じゃないような気はしたけれど、そんな子どもみたいなセリフが漏れる。
 けれどたーくんは、舌打ちをするでもなく笑うでもなく、は、と短く息を漏らした。
「人のこと煽っといてソレとか、ズルくねぇ?」
「っ……」
「お前の言い方じゃ、アキに応えなかった俺だけが悪く聞こえる」
 振り払われたわけじゃないのに、腕から手が離れた。
 声の高さは同じ。
 さっきまでとは違って、話し方も一緒。
 だけどたーくんは、私を振り返ることなく階段へ足を向けた。
「たーくんっ……!」
「避けて通れよ。ほっといてくれていい」
「そんな……っねぇ、私……っ」
「単にイラついてるだけだからな。当たられてンだぞ。自覚しろ」
 小さく鼻で笑った彼は、返事を待つことなく姿を消した。
 もう、見てはもらえない。
 ……間違ったことを言った、んだろう。
 でも……でもね。
 それでも私は、だって……。
 だってアキさんは、私よりもずっと長い間、あなたを好きだったの。
「…………」
 どうしたらいいだろう。
 今はもう、どう伝えても受け入れてもらえない気はする。
 彼を傷つけたのは間違いなくて。
 彼の気持ちを踏みにじったのもそうで。
 ……自分の気持ちを優先させたばかりに、嫌な思いをさせたんだ。

 だって、たーくんは私を選んでくれたのに。

 なのに“ずっと好きだった幼馴染”だからと、私以外の女性をすすめたような形に結果としてなったんだから。

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