「葉月ちゃんってさ、今アイツと付き合ってるでしょ?」
「……はい」
「アイツでなきゃいけない理由って何かある?」
最初に見せたにこにこした笑顔ではなく、真意を問うようなまなざし。
口元に笑みは残しているけれど、菊池先生は私の答えを待っているように思う。
「てか、アイツと付き合って今どれくらい?」
「ええと……具体的にいつから、と言っていいのか……」
「あー、んじゃキスした日でいいよ」
具体的どころか、かなり踏み込んだ質問をされ、さすがに口を閉じる。
たーくんは……きっと、答えないんじゃないかな。
でも、菊池先生は私と彼とのことを知っていた。
それはどういう理由からなんだろう。
「1ヶ月以上前、です」
「へぇ。そりゃアイツ新記録だわ」
「え?」
「ううん、こっちの話。今度無料券あげとくね」
「……なんのですか?」
「ふっふー。それも内緒」
どう伝えたらいいか悩んだものの、いつ、と指定せずにぼやかした返事にとどめる。
……そっか。もう1ヶ月以上前になるんだ。
あの日からまさに、世界の見え方さえ変わった。
「じゃあ俺も試してほしいな」
「え?」
「ただ単に、アイツが葉月ちゃんと先に付き合っちゃっただけでしょ? だからさ、お試しでいいから俺も仲間に入れてほしいの」
菊池先生は、まっすぐに私を見つめたまま『ね』と柔らかく笑う。
首をかしげながら強調するのは……私のクセと同じ。
念押しのような行為は、どこか既視感を覚えた。
「初めて会った夜、覚えてる? すげぇ衝撃的だったよ。こんなにかわいい従妹がいるなんて知らなかったもん。なんも知らなさそうで、まったく穢れてなくて。羽織とは違うっていうかさ、なんか……すごいかわいかったんだよね」
「……あの日、ですか?」
「うん。初めて会ったときから、俺はずっと葉月ちゃんのことが好きだったの」
「っ……」
ストレートな表現に、目が丸くなった。
これまで、誰かに思いを伝えてもらった経験もある。
そのたびにどきどきもしたし、どうして私なんだろうと不思議な気持ちも……そしてとてもありがたい気持ちもあった。
こんなふうに面と向かって伝えられて、驚かないはずはない。
何も言えずにまばたくと、とても柔らかいまなざしで菊池先生は『好きなんだよね』ともう一度続けた。
「どうしてって顔してるけど……ダメ? 俺じゃ軽薄すぎて信用してもらえない?」
「え……いえ、そういうわけじゃ……」
「でもさ、好きになるのに理由はないでしょ?」
「っ……」
そのとおりだと思う。
だって……私もそう。
物心ついたときから、たーくんのことが好きだった。
もちろん、離れて暮らしている間、ほかの人を好きにならなかったわけじゃない。
それでも、付き合う行為まで進むことはなく、想いを抱くまでで続かなかった。
そして……11月。
何年かぶりに再会したとき、期待もあいまってたーくんへの思いはより強く膨れてしまった。
「俺にはチャンスない?」
「チャンスというか……お話が急すぎて」
「あー、ごめんごめん。そりゃそうだよね。急にこんなこと言われても困るよね?」
ひらりと手を振った彼は、肩をすくめるとコーヒーに手を伸ばした。
穏やかな表情はそのまま。
でも、まなざしはどこかで“次”を見ているようにも感じる。
「でもさ、ずるくない? 孝之にはあのとき俺が先に『葉月ちゃんいいなー』って言ったんだよ? なのに俺に黙って付き合っちゃうとかさ、ぬけがけもいいとこじゃん」
「……そんなふうに、思ってくださってたんですか?」
「うん」
お正月に会ったとき、菊池先生はそんなそぶりを見せず、ただただ笑顔で『お邪魔しました』と『葉月ちゃんごちそうさま』と言ってくれた。
でも、それ以外のお話はまったくなくて。
たーくんも何も言っていなかったから、まさに今日が初めて。
……どうしよう。こういうとき、どうしたらいいの?
今の私にとってはここが“自宅”で。
誰もいないからこそ、ほかに音がなくてやけに時間が長く感じられた。
「で? 俺じゃダメで、アイツじゃなきゃいけない理由って何かある?」
「それは……」
その質問が、つい先ほどまで一緒に過ごした、絵里ちゃんとの話の中に出たものと重なる。
どこが好き?
特定の部分だけじゃない、まさに“彼”を形作るすべての要因が必須だと思っている。
……そうなの。
私が好きになったのは、たーくんの“ひとつ”からじゃない。
「全部、じゃだめですか?」
「えー。具体的に教えてほしいなー。じゃなきゃ、俺でもいいじゃんって思っちゃう」
唇を尖らせながら、菊池先生が声色を変えた。
まるで拗ねた男の子みたいな仕草に、これまで見てきた彼と違って小さく笑みが漏れた。
菊池先生って、たーくんとは本当に違うんだなぁ。
でも、だから一緒にいて楽しいんだと思う。
タイプが違うからこそ、お互いにないものがたくさんあって。
「たーくんの声も、顔も、仕草も……話し方も……優しいところも、きちんとしているところも……真面目なところも。彼を形作るすべての要素が、私にはとても魅力的なんです」
「……ふぅん。でもさ、俺もそれって当てはまらない? 顔だって声だって魅力あると思うよー? それに、アイツよりよっぽど真面目で誠実だしね。どうかな?」
「ふふ。そうですね。でも……誠実という言葉は、どちらかというと瀬尋先生に当てはまる気がします」
「えー。俺ダメ? まぁ孝之はわかるよ? アイツ、これまで何人も簡単に付き合っちゃあ別れてきてるからね。いけないヤツでしょ? セフレ同然の関係ばっか築いてきててさー、泣いた子は数知れずだし」
「……いけない人ですね」
「でしょ? 幻滅だよねー」
テーブルへ両腕を乗せた菊池先生は、そこへ顎を置くと上目遣いで私を見つめた。
そんなふうにされると、より一層“男の子”のように見えて、なんだか不思議な気持ちになる。
たーくんはまず、しない姿勢。
そういえばついさっき、数学で行き詰った羽織は似たような格好をしていたっけ。
「たーくんは誠実というより……嘘はつかない人でしょうけれど、少し違うかなとも思います。こんなふうに言ったら、叱られちゃいますね」
「あー、大丈夫。俺口堅いから。さっきの約束も、ちゃーんと守るよ?」
「……ふふ、助かります」
「それに、今日ここに来たことも言わない。葉月ちゃんへ想いを伝えたのも、内緒にする」
「それは……」
「アイツと同列でいいよ。同時進行でいいから付き合ってほしいって言っても、だめ? 誰にも言わないから」
どう、したらいいんだろう。
彼は口元に笑みを残してはいるけれど、まなざしは決して笑っていなくて。
冗談ではないような雰囲気で、こくりと喉が動く。
……でも、どうして私を?
もちろん、さっき菊池先生が言ったように『人を好きになるのに理由』はないだろう。
だけど、思ってもなかった人だけに正直戸惑いのほうが大きかった。
「アイツより大切にするし、絶対振り向かせる自信あるよ。きっと、俺と付き合ってくれたらわかると思うんだ。祐恭なんかよりもよっぽど誠実で、一途だってことは」
瀬尋先生は、とても誠実な人だと感じた。
もちろん、菊池先生と大差ない回数しか直接お会いしたり話してはいない。
それでも、羽織を通して見えている彼の姿は聞いていて。
羽織をとても大切にしてくれていることも、そして……お父さんを羽織に手を出している相手だと勘違いしたあのショッピングモールでのときも、瀬尋先生はとても真摯に羽織へ向き合っているんだとわかった。
そしてもちろん……たーくんも。
きっと、菊池先生も誠実な人なんだろう。
たーくんが敢えていないこの時間に訪れたのもそうなら、こうして想いを口にしてくれているのもそう。
きっと今日のことは、たーくんへ言うつもりはないんだろうな。本当に。
それは私のためではなく、たーくんを傷つけないためであるようにも感じるからこそ、菊池先生の人となりが少しだけ慮れるような気はしている。
「こんなにストレートに想いをぶつけてくださるなんて……なかなかないですよね。とても……申し訳ないです」
「どうして? 罪悪感覚える必要ないんだって。内緒なんだから。アイツにバレないようにうまくやるし、お互いwin-winでいい関係結べると思わない? お試しでいいよ。それこそ、一回だけでもいい。俺とデートしてくれたら、絶対楽しいし後悔なんてさせないから」
「……1回だけ、ですか?」
「それじゃあ、1日だけ。どうせなら平日のほうがいいよね? 確実にアイツにバレず動けるだろうし。ね。デートしよう? 俺と。それでダメなら諦めるから」
まるで人が『お願い』と言うとき見せるポーズのように、菊池先生は両手を合わせると私へ頭を下げた。
でも……ほんの少しだけ意外な言葉が聞こえて、仕草を見ながらぽつりと本音が漏れる。
「……諦める、んですか?」
「え? いや、そりゃね諦めたくないし粘りたいとは思うけどさ。でも、葉月ちゃんすっごい困った顔してるんだもん。あんまり言って泣かせちゃうのはヤだなって思って」
もしも。
もしも私が同じことを想いが叶わない相手へ伝えたとしたら、諦められるだろうか。
……ううん、きっと逆だと思うの。
だって、どうしても好きな人と“一度だけ”と約束を結んだ上とはいえ、個人的な時間をふたりだけで過ごせたら、それはとても幸せなはず。
一度体験してしまったら、次だって欲しくなるに違いない。
……諦められない、じゃない。
12月のあのとき、たーくんへ想いを伝えたものの違う形で受け取られ、“彼女がいる”と知ったのに……ふたりきりで出かけられるたびに、私は期待し続けてしまったんだから。
「たーくんは……私にとって彼は、本当に特別なんです」
「本当に?」
「……はい」
声だけじゃない、顔だけじゃない、仕草や表情や性格や行為や……好み、だけじゃない。
“彼”の存在そのものが、私にとってはきらきらしている唯一絶対だと思っている。
「たーくんが私でなければならない理由は……もしかしたらないのかもしれません。でも、私は……今の私には彼が一番で、どうしてもたーくんじゃなきゃだめなんです」
両手を重ねあわせてテーブルへ置くと、いつもより冷たい感じがした。
きっともう、紅茶は冷めてしまっている。
さっきまで庭を照らしていた夕日は、すでに山陰に隠れてしまったようですっかり明度は落ちていた。
「それじゃ、アイツと別れたら俺とのこと考えてくれる?」
「っ……」
別れ。
きっと菊池先生にとってはなんの気なしの単語でしかないだろうけれど、一瞬想像してしまい表情が強張ったのがわかった。
数年後、確かに私のそばには……いてもらえないかもしれない。
でも、今は。
今の私にとってたーくんは、10年先もともにいてほしい人で。
できることならその先の何年も、と……夢かもしれないけれど叶ってほしい願いの人。
「……わかつとき、自分がどこでどう過ごしているか想像はできません」
「んーまあね。そりゃ、明日かもしれないし明後日かもしれないし? それは誰にもわからないか」
明日だろうか。明後日だろうか。
菊池先生の言葉を聞きながら、ふと今朝のたーくんが頭をよぎる。
近づいた途端、表情は変えなかったけれど『近い』と囁いた声は少しだけ困ったように聞こえた。
……別の道を歩くのは、嫌だな。
1ヶ月前、ようやく手が届いた人。
なのにまた……ううん。
もう二度と手を伸ばしてもらえないのは、想像するだけで心がつぶれてしまいそう。
「何年か先、彼の隣に私でない人がいるかもしれません」
明日か、明後日か。
それは誰にもわからない。
それこそ、たった数分先の未来だって、私にも“見えない”こと。
「生きている以上きっとぶつかるでしょうし、嫌な面を見せたりそれまで平気だったのに心変わりしたり、たくさん変わることはあると思うんです」
好きだったものを嫌いになるように。
そしてもちろん、逆もしかり。
何がどう変わるかなんて、誰にも予測は立てられないはず。
だって私は、知らなかった。
1ヶ月前のあの夜、彼が送ってくれたあと、あんなふうに手を伸ばしてもらうことになるなんて。
「……でも少なくとも今は、彼の隣に私以外の誰かがいるのは想像したくないんです。同じように今、私の隣には彼がいてくれていて。十分どころか、本当に特別なんです」
好きな人だった。
久しぶりに再会したとき、とてもすてきで少し苦しかった。
当たり前に笑いかけてくれて、小さかったころと同じように手を繋いでくれて。
彼にとっては“クセ”みたいなものでも、私にとっては何もかもが特別だった。
「ずっと、ずっと好きだった人が私に手を伸ばしてくれたことは、奇跡だと思っています。今までもずっとたくさんの人がそばにいて、いろんな人から欲されて、お付き合いして……私が知らないことばかりなんでしょうね」
“みんな”が知っているたーくんを、私はほんの少ししか知らない。
大学ですれ違う人が、彼に声をかけて。
誰も彼もが“欲しい”と願う人で、だけど彼は今……私をそばにおいてくれている。
『俺の女になるか?』
あまりにもストレートで限定的な言葉をもらったとき、嬉しい感情だけじゃなく、身体がうち震えた。
「……たーくんには私以外の誰かを好きになる権利はあって……同じように、きっと私にもあるんだと思います」
言いながらいつしか視線が落ちていた。
でも、そのことに気づくのはかなりあと。
菊池先生の言葉ひとつひとつを想像してしまい、たーくんが私に背を向け、視線を逸らすところばかりが何度も繰り返される。
人を好きになることは自由で、誰にも縛られるものじゃない。
心は誰のものでもなく……それこそ、“私”だって何かの拍子に変わってしまうかもしれない、怖いものだから。
だけど。
「それでも今、私はたーくんのことが好きで……どうしても隣にいたいんです。彼にとって、私でなければならない理由は……たーくんにしかわかりません。もしかしたら、誰が聞いても答えてもらえないかもしれない。でも、今の私には、どうしても彼じゃなきゃだめなんです」
「……こんなに俺が葉月ちゃんを好きでも?」
「想いを伝えてくださって、感謝します。でも……ごめんなさい。私は菊池先生にはお応えできません」
前を向き、真正面から彼を見つめる。
そして重ねた両手を膝へ置くと、先ほど菊池先生がして見せた以上に、頭を下げるしかなかった。
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