「菊池先生は……どうしても私でなければならない理由はありますか?」
「んーそうだなぁ。俺の理想のタイプそのもので、すごいかわいいところ」
「っ……そんなふうに言ってもらうのは、あまり機会がないので……。ありがとうございます」
「それに、優しくて、おしゃれで、賢くて、すごいかわいい。あ、これ2回目か。ごめん、つい本音」
 指折りながらいくつも挙げてくれる彼は、『まだあるけど聞く?』と私を見ると少しだけ笑った。
「でも……今挙げてくださったのは、菊池先生そのものじゃないですか? 優しくて、おしゃれで賢くて……ステキですね」
「そーかな? え、じゃあさ、孝之よりも好きになってくれそう?」
「私にとっては、たーくんも……優しくて、おしゃれで、賢い人ですから。とってもすてきで……私を選んでくれたことは、本当に特別ですね」
 少しだけ雰囲気が変わった気がして、そっと両手をマグへ伸ばす。
 もうすっかり冷めてしまっていて、だけど口に含むとベリーの香りは十分に広がった。
「えー、アイツ優しくておしゃれで賢いかなー?」
「私には十分そう思えますよ」
 口が悪いかもしれない。
 早起きは苦手かもしれない。
 感情豊かで、カッとなることもあると思う。
 でも、それは欠点ではなく、“彼らしさ”。
 きっとたーくんに聞いてみたら、私のよくないところはざらざらと出てくるだろう。
「葉月ちゃん、だめかー。それじゃ、孝之と別れることになったら教えてくれる? それまで俺、待ってるから」
「ええと……待っていただくほどの人間じゃ、ないですよ?」
「それは冒涜だなー。俺の気持ちがないことになっちゃう」
「っ……ごめんなさい」
 頬杖をついた彼は、コーヒーを飲むとカップを手にしたまま肩をすくめた。
 確かに、今のセリフはよくなかったと思う。
 私に好意を持ってくれただけでなく、ストレートにいろんなことを口にしてもらったんだから。
「ちなみに聞くけどさ、俺に似合う人ってどんな人だと思う?」
 もしかしたら、コーヒーはもう残っていないのかもしれない。
 コースターへカップが置かれたとき、とても軽い音がした。
「単純な疑問っていうのかな。ちょっとした好奇心」
「好奇心……ですか?」
「うん。俺ね、これでもモテるのよ。断られないっていうのかな。孝之とは違うけどね、でも『ごめんなさい』って言われることは少ないかな」
「そうでしょうね。だって、菊池先生……とても柔らかいですもん」
「そう?」
「はい。雰囲気も、話し方も……笑顔も。安心感を抱きます」
 たーくんとは違う魅力だと思う。
 こんなふうにふたりきりで一度も過ごしたことがなかったけれど、確認せずにドアを開けたとき、菊池先生だったことで私は少しだけほっとした。
 なぜか、と理由を訊ねられても説明はできない。
 ただ、なんとなく。
 まさに肌感覚の部分で、安心したんだと思う。
「ユーモアもたっぷりで、だけど……ほんの少しだけミステリアスな感じがあって。惹かれる人は多いと思います」
「そう? ありがとう」
「私も、菊池先生のことは好きですから」
「……へぇ?」
「同じように、瀬尋先生のことも」
「えー祐恭と同じ程度ー? 俺こんなに好きなのに?」
「すみません」
「やー、謝られると傷つくなー。えぐれちゃう」
 菊池先生は肩をすくめると、どこからかスマフォを取り出した。
 少しだけ視線が外れ、指先で操作する。
 けれど、ほんとうに数秒。
 音を立ててそこに置くと、最初したときのように両手を後ろへついてため息を見せた。
「なんでアイツじゃなきゃだめなの?」
「えっと……足りませんか?」
「なんかすごい不思議なんだよね。なんでだろうって。だって、アイツ散々遊んできたんだよ? バチ当たりなことしかしてないのに」
「……そうですね」
「でも、ちょっとわかった気がする」
「え?」
「アイツが自分から手を出すなんて初めてだからさ、なんでだろうってずっと疑問だったんだけど。ひょっとしたらアイツ、ずっと自分のこと認めてほしかったのかなーって思った」
 表情も声も変わってはいない。
 だけど、私を見つめたまま、菊池先生はほんの少しだけ目元を緩ませて笑ったように見えた。
「セックスやキスがうまいっていう行為的なモンとか、顔や声やセンスなんていう部分じゃなくて。 いいも悪いも全部ひっくるめてちゃんと受けとめてくれる人が欲しかったのかもね」
 受けとめてくれる人。
 そんなふうに言われたことはなく、自分自身でも感じたことはなかった。
 だって……いつもたーくんは、私のことを受けとめてくれている。
 泣きそうになったときも、どうしていいかわからなかったときも……そして、実際に涙が止まらなかったときも。
 たーくんはいつだってそばにいて、ひとつひとつ私の話も気持ちも受けとめてくれていた。
「葉月ちゃんのことあんなに褒めたのにさー、嬉しくなさそうどころか途中からすげぇ困るんだもん。まいったよ」
「え……と」
「なのに、孝之のことはうまーくアイツを褒めるような言い回しするっていうか。あれ、話術だなと思った」
 まるで拗ねるかのような表情はしたものの、菊池先生は『あーあがっかり』と天井をあおぐ。
 でも、彼が言ってくれているような“話術”とおぼしき表現を私はしたつもりはなくて。
 そんなに器用じゃないし、正直余裕もなかった。
 ただただ、菊池先生から投げられる言葉すべてが、思いのほか心へ届きすぎて。
「今まではさ、そんな子いなくて。大抵、自分のこと褒めちぎられると嬉しそうだし、アイツと付き合ってるアタシがすごいって勘違いしちゃう子が多かったんだよね。ほら、アイツ見た目もいいしいかにもモテオーラあるじゃん? ハイスペックだからね。いろんな意味で」
「ふふ。菊池先生のほうが、よっぽどたーくんを褒めてるじゃないですか」
「そーかな? でもねー、それだよそれ。葉月ちゃん、アイツの話になるとまー嬉しそうな顔するね」
「あ……」
「あんな馬鹿でろくでなしなのに、よっぽどアイツが好きなんだなーって思うよ」
「ろくでなし……ですか?」
「でしょ? いかんと思うねーアレは。昔から……あー俺さ、孝之とはそれこそこんなちっこいころから一緒なわけ。アイツって歳の近い叔父さんがいるって知ってる? その人から聞きかじった情報をまぁひけらかしてきてさー、だいぶイケナイこと散々やらかしてきたわけよ」
「え……」
 歳の近い叔父。
 それは……お父さんのこと、かな。
 もちろん、伯母さんのほうにもそんな人がいるかもしれない。
 でも……でも確か、彼女は3人姉妹のはず。
 それに、たーくんが人へ伝える情報はそもそも、彼にとってプラスなことでなければしない気がする。
 だから……えっと……。
「それって……もしかして、たーくんがこれまで遊んできたことと……関係あります?」
「そうだねぇ。だいぶあると思うよ? だって、その人の“経験値”そのものだもん。やー、見たことはないけど拝んでみたいわ。カリスマとして」
 お父さんの“昔”を私は知らない。
 確かにたーくんはずっと彼を慕ってくれていて、関係が少し変わった今でさえときどき『恭介さんが』と私に教えてくれることはある。
 でも……まさか、女性に関してのことまで……?
 これまでまったくどころか一切耳に入れたことのない情報だけに、正直意外というか……困惑してしまう。
 清廉潔白、だと思っていたからこそ。
 だって……お父さん、それこそ女性と飲みに行くこともなかったのに。
 もちろん、すべてを知っているわけではないし、昔は違ったかもしれない。
 でも、付き合いの長いシェインさんはそんなお父さんを心配もしていて『早く新しいダーリンを見つけないとおかしくなるぞ』とよく口にしていたのに。
 …………。
 ……そんなとき、お父さんはどんな顔していたかな。
 困ったように笑っていたような……気はする、んだけれど。
「葉月ちゃん?」
「っ……」
「大丈夫?」
「あ……ええ、大丈夫です」
 ああ、違うよね。
 シェインさんに言われて困ったのは、お父さんがずっと美月さんを想っていたから。
 今だから彼は私にも教えてくれるけれど、当時は……ううん、それこそ何年も秘めてなければならなかった人、だったんだろう。
「アイツが常に人の評価意識して動いてることも、すげぇ計算高いってことも、これまで付き合った子たちは知らないんじゃないかな」
 にっこり、とは少し違う。
 どちらかというと、どこか楽しそうに笑いながら、菊池先生は首をかしげた。
 それはまるで、暗に『葉月ちゃんは知ってる?』と問われているかのようで、彼を見たまま小さくうなずいてしまってから……よかったのか悪かったのか、悩んでか苦笑が浮かんだ。
「アイツ、考え方がロジカルだからね。遊びまくってやることやってても、ちゃんと一線引いてるっていうか、常に保険かけてるっていうか。だから絶対ナマでしなかったし、自分から手を出すこともなかったよ」
「えっと……」
「ん? 何?」
「……どういうことですか?」
 きっと、私が聞きたかったことと彼が引っかかったポイントにずれが生じた。
 でも、菊池先生は『あー』と小さく笑うと肩をすくめる。
「アイツの名誉を守るわけじゃないけど、自分から女に声かけて遊び倒してたわけじゃないよ。自分から手を出すんじゃなくて、あっちがヤりたいとき連絡してくるんだから」
「え……」
「何かトラブったとき根拠として提示できるでしょ? ナマでしない上に、自分から電話しないんだからさ。十分相手が責任しょってるって自覚のうえで成り立つ関係だよね」
 たーくんといろいろな女性との関係は、すべて噂でしか知らないこと。
 実際に彼がほかの女性を伴っているところも、出かけていく姿も、私は知らない。
 でも……菊池先生が言うことが事実なら、羽織も……そして伯父さんや伯母さんも当然知らないんだろう。
 だとしたら、そういう面を知っているのは彼の親しい人というか、いわゆる“信頼”してる人だけなのかもしれない。
「だから、俺にもころっと乗ってくれるんだよねー。自称かわいい子がたくさん寄ってくるからさ、顔も身体もイイ子ばっかだったんだわ」
 何かを思い出すかのように、菊池先生は大きくため息をついた。
 でも。
 まっすぐに私を見ると、小さく噴き出す。
「葉月ちゃんは不合格」
「え……」
「俺様がこんだけ口説いたのに、ノってこないとか失礼な子だねーほんと。アイツにお似合いだよ」
 そう言うと菊池先生は、『ごめーん、お茶もう一杯くれる?』と両手を合わせた。

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