「わぁ、すっごいかわいい!」
「そうかな?」
「うん!! なんか、葉月らしいっていうか……すごくこう、物語に出てきそうじゃない? このベッド!」
結局、荷物が届いたのはすでに日が暮れた19時手前。
業者の人は2人で来てくれて、2階まで運んでくれただけでなくちゃんと組み立て直してもくれた。
真っ白い机と、ベッド。そして本棚。
もう何年もずっとそばにいてくれているけれど、褪せることも欠けることもなく、向こうでの姿とまったく同じでとても嬉しい。
そして何より……この部屋が自分の部屋として使えることが、とても。
「明日から、少しずつ片付けなくちゃ」
「ゆっくりやってね。私もその間、自分で勉強がんばる」
「ん。一緒にがんばろうね」
こちらへ送ってもらったのは、本棚を含めた家具3点と、かなりの数の段ボール。
クローゼットは部屋にあるから、服やバッグはそちらを使わせてもらうけれど、問題は本だよね。
これでも厳選してきたし、きっと入学以降はもっと増えるだろうからと絞ったものの、大きな段ボールで2箱になってしまった。
あとは、机に入れていた細々した雑貨や文具だったり……ぬいぐるみたち。
気持ちの問題だろうけれど、今日並べきれないとしてもせめて箱は開けておいてあげたいなと思う。
「あ、そうだ。……あのね? 葉月、あとで数学また教えてもらえる?」
「私でよければ。でも……たーくんのほうが、上手じゃない?」
「うぅ、この間の見たでしょ? あんなふうに『馬鹿』呼ばわりされたら、ダメージが……」
菊池先生が帰宅されたのは、お茶を2杯ほど飲んでからだった。
そのすぐあとに羽織が帰ってきたものの、すれ違わなかったらしく何も言わなかったから、私も羽織へは伝えていない。
菊池先生は、私に用があったと言っていたけれど、どちらかというとたーくんのために動いたような気がする。
彼が手を伸ばした私に興味を持ったというよりは、見定めるかのように。
菊池先生が言うようにたーくんは考え方がとても論理的だから、数学の説明はわかりやすい。
私とは違う解法で答えを出すところは、見ていて素直におもしろいなとも感じるから、もう一度見てみたかったんだけど……確かにこの間、そんなふうに言ってたね。
たーくんと違って、羽織は“わからない”ことでどこか後ろめたい気持ちを持っている。
この時期にそう言えることは大切だし、まだ時間があるから解き直しをして本番に備えるためには必要だと思うけれど、たーくんはたーくんで心配なんだろうな。
もうあと数日後には、嫌でも本番があるのに……って。
「それじゃあ、お風呂だけ済ませちゃうね。そのあと部屋へ行かせて」
「ありがとう!」
もうすでに羽織はお風呂を済ませて、部屋にこもっていた。
一度、飲み物を取りにキッチンへ降りてきたときに英単語帳を持っていたから、ずっと英語をやっていたんだろう。
伯父さんはとってもわかりやすく教えているのを見かけるし、もともと羽織は英語が得意だからさらにスコアを伸ばしておきたいんだろうな。
できる、って嬉しいし気持ちの上昇にもつながるもんね。
わからないことを受け入れるのは、思った以上に心も頭も疲弊する。
「……あ」
1階へ向かおうとしたとき、ちょうどたーくんが階段を上がってきた。
私に気づき、手にしていたペットボトルのキャップをひねりながら……珍しく部屋まで歩いてくる。
「荷物、壊れてなかったか?」
「ん、大丈夫。ちゃんと……組み立てまでしてもらえて、明日から使えるね」
ベッドも机も、お父さんがきれいにバラしてくれた。
形状の違うドライバーだったんだけど、それもあわせて送ってくれたことで組み立てはスムーズ。
あのまま、それこそ“木の板”そのものだったら、正直お父さんかたーくんへお願いしようと思っていた。
……私、そんなに器用じゃないんだよね。
一度、ネジを留めようとして思いきり斜めに刺してしまい、お父さんに意外そうな顔で見られたっけ。
「ベッドも持ってきたのか」
「あ……うん」
ドアへもたれるようにして、たーくんがペットボトルへ口づけた。
でも、そちらを見ることができなくて……両手の指を合わせたまま、うなずくにとどめる。
あのとき、たーくんには伝えた。
『持っていきたい気持ちはあるけれど、悩んでいる』と。
小さいころから使っていて思い出があるからというのももちろんだけど、でもやっぱり、あの日がなかったらきっと選ばなかったと思う。
「……思い出が増えたから」
いいか悪いかで言ったら、確実に前者。
でも、たくさんの人へ伝えられるものではなく、まさに秘めたものだからこそ……私と、たーくんだけは知ってることなんだよね。
「ふぅん」
「っ……」
意味ありげにつぶやいた彼が、ふわりと頭を撫でた。
久しぶりに……それこそ、いつぶりだろう。
私が手を伸ばすのは何も言われなかったけれど、こんなふうにたーくんが手を伸ばしてくれたのは本当に久しぶり。
だけど、振り返ったときにはもう彼はこちらへ背を向け、廊下へと足を向けていた。
「あ……たーくん、あの、ね? ひとつだけ聞きたいことがあるの」
せっかく繋がれたことが嬉しくて。
でももちろん、聞きたかったことがあるのも本当。
ただ、一緒に食べた夕食のときはほとんど目が合わず、終えたあとたーくんはすぐ部屋へあがってしまったから、接触ができなかった。
「なんだ?」
決して怒っているわけじゃなさそうだし、特別何か抱いているようにも見えない。
……でも、少しだけ疲れてるようには見える。
今日も閉館までお仕事してきたみたいだし、忙しいのかもしれない。
「今日、菊池先生がいらしたの」
「……優人が?」
たーくんと菊池先生は仲もいいし、よく連絡を取っているみたいだからもしかしたらメッセージが届いたかなと思ったけれど、どうやら彼は伝えなかったらしい。
帰り際『孝之によろしく』と言ってたけれど、そういう意味だったのかな。
「それでね、たーくんがこれまでたくさんの女性と過ごしてきた理由のひとつに……お父さんの影響があるって聞いたんだけど、それは本当?」
私にはわからないこと。
でも、菊池先生はたーくんがそう言ったかのように話していたから、彼なら何か知ってる可能性があると思った。
「お前はどう思う?」
「え?」
「優人は恭介さんに会ったことなくて、俺からの言葉でしか知らない。でもお前は違うだろ? 葉月がずっと見聞きしてきた恭介さんは、どんな人だった?」
たーくんは、表情を特に変えることなく小さなため息をついた。
でも、向けられたストレートな言葉で、改めてお父さんのことを考えてみる。
小さいころから、常に彼は正しい印象があった。
実直で、ストレートで。
意見の異なる相手とは、何度も対話を通して互いの落としどころを認める。
だからそれは喧嘩ではなく、お互いの正当な主張だった。
私が覚えている限り、お父さんがたくさんの女性と過ごしたことはまずないと思う。
もちろん、私だってずっとお父さんを見ていたわけでもないし、それこそ自分が寝てしまったあとや仕事中のことは見聞きできないけれど、でも、彼に対する信用はとても高い。
休みの日には、基本ずっと私と過ごしてくれた。
出かけるときには“誰と”“どこへ”行くか必ず教えてくれて、それすらも可能な限り私を伴おうとしてくれた。
携帯電話の繋がらない場所へ行くときは代わりの連絡手段を教えてくれたし、少なくとも彼に近しい人たちのほうがお父さんのことをよく知ってくれているはず。
シェインさんとは、まさに公私ともに過ごしていたのは知っているし、彼に言われてお父さんが困ったように笑っていたのももちろん。
だから……もし、それが事実だとしたらと仮定すると、導き出せる答えはひとつ。
「……もしかして、若いときの話?」
「なんでそう思う?」
「だって、私が覚えている中ではそんな姿はまずなかったし、聞いたこともないの」
いつだってお父さんは、私にとっても……そしてきっとたーくんにとっても、絶対的な“手本”のような人だったと思うし、思いたい。
「それが答えだろ」
「え……?」
「いろんなところから情報を集めて、集約したうえで判断すりゃいい。情報が多けりゃいいってモンじゃねーけど、少なくとも多角的に見れるようにはなるだろ? 俺に見せてる面と、娘であるお前に見せてる面が違うのは当然で、今じゃ女将や美月さんに見せてる姿も当然イコールじゃない。ダブってる面はあるだろうけど、使い分けて当然だよな? それが人じゃん」
まっすぐに目を見たままひとつずつ伝えられ、まばたくも『そうだね』とひとり納得する。
たーくんの言うことは当然で。
だって、私も……お父さんに見せている面と、たーくんにしか見せていない面がある。
そして、彼もまた同じように。
……私だけが知ってる姿も、きっとあるんだよね。
たとえば今のこの顔だって、ほかの人には事実見せていないんだから。
「でも……そんなお父さんのこと全然知らないから、ちょっと想像できないかな」
「たりめーだろ。お前に教え込んでどーすんだよ。男遊びさせる必要あるか? メリットねぇじゃん」
肩をすくめて言われ、改めて納得もする。
確かに、私には必要ないことだから教えてくれなかったというか……お父さんの過去の話はされなかったんだろう。
……でも、それじゃあたーくんには必要なこと、なのかな。
男女の違いはもちろんあるだろうけれど、少しだけ納得できないというか、素直にうなずけない部分はほんの少し残ったままな気はする。
でも、今はほしかった答えはもらえたから十分。
約束したんだから、私もお風呂に入って羽織のところへ行かないと。
「ありがとう」
「別に」
にっこり笑ってから彼の隣へ並び、たーくんが部屋を出たあと電気を消す。
さっきは気づかなかったけれど、少しだけあたりにレモンのような香りが漂っていた。
そういえばさっき、羽織が今日の入浴剤ははちみつレモンだって言ってたっけ。
いつもとは違う、ほんのり甘くて爽やかな香りに頬が緩んだ。
「葉月」
「え?」
たーくんが、自分の部屋の明かりをつけたところで私を呼び止めた。
階段を降りようとしたものの、身体ごと向き直る。
すると、逡巡してから口を開いた。
「……あ、ごめん」
ものの、ちょうどたーくんの部屋の反対側のドアが開き、私と彼とを見て羽織が少しだけバツが悪そうな顔をした。
「ううん、違うの。今、お風呂入ってくるからちょっと待ってて」
「あ、全然。ゆっくり入ってきてね」
もしかしたら、飲み物を取りに行きたかったのかもしれない。
いつも羽織が使っているマグを手にこちらへ来ると、苦笑を見せる。
「……お前まだやんの?」
「む。いいでしょ? 別に。お兄ちゃんに教えてもらうんじゃないんだから」
小さな舌打ちが聞こえた気がする。
でも、たーくんは私ではなく羽織を見ていて、やっぱりさっきと同じようにため息をつくとそのまま部屋へ戻ってしまった。
……何を言いかけたのかは、わからずじまい。
ドアは閉められていないけれど、きっと今追いかけても、教えてはもらえないような気はする。
「葉月?」
「あ、ごめんね。今降りるから」
そちらを見ていたせいか、羽織は顔を覗くと少し心配そうに見た。
違うの、大丈夫。
羽織のせいじゃないし、どちらかというと……“かもしれない”と思いながら実行しない、私のせいでもあるんだから。
明日も、たーくんはお仕事。
でも今週ずっとそうだったから、私が起こしに行かなくてもきっといつもより早く起きるんだろうな。
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