今日は、いまいち天気のよくない朝だった。
朝起きたときは太陽の姿がなくて、明かりをつけないと暗すぎると感じたほど。
もうじき3月だというのに、かなり冷え込んだ。
天気予報では今週末、低気圧のせいで天気が急変するかもしれないとのこと。
春に向けて庭を少しきれいにしておきたかったんだけど、今日は室内で過ごすほうがいいかもしれない。
昨日届いた荷物の整理、やろうかな。
朝ごはんを作りながらふと考えはしたものの、いつもと同じ時間に起きたはずなのにあくびが出て、景色が少しだけぼんやりした。
「おはよう」
「はよ」
いつもより20分ほど早い時間に、たーくんはキッチンへ姿を見せた。
この間までは8時少し前に家を出ていたのに、近ごろは朝食が済むと出勤しているようにも思う。
帰りは遅くて、朝は早くて。
この時期、年度末へ向けて仕事が立て込んでいるのかもしれない。
「昨日、何時まで起きてた?」
「んー……0時は回ってたかな」
ダイニングの席へ着いたのを見てからスープのマグを運ぶと、置いた瞬間眉を寄せた。
何か言いたげというよりも、明らかに意見がありそうな顔。
普段はあまり見ない表情で、対面へ座りながら少し意外な気がした。
「あ、違うの。羽織は切り上げようって言ってくれたんだけど、関数の問題を2問続けて解けたから、似たものをもうひとつ解いてからにしない? って私が伸ばしちゃっただけで」
ため息をついたのがわかって首を振ると、マグに口づけたたーくんと目が合った。
でも、何も言わず逸らされ、ほんの少しだけ寂しいような気持ちにもなる。
「あと少しだもんね」
カレンダーを見ると、誰がつけたのか日曜日には大きな赤い丸がついていた。
本番まで、時間だけでいえば本当にあとわずか。
この時間、まだ羽織は起きていない。
きっと、私が寝たあとも遅くまでやっていたんだろうな。
とはいえ、リズムを作る意味でもそろそろ夜遅くではなくて早く寝て朝型へシフトしたほうがいい気もするけれど。
「昨日、優人何話した?」
「え?」
「既読ついたけど返事ねぇんだよ」
言いながら、たーくんはバターだけをトーストに塗った。
どこか不機嫌そうな……というよりは、おもしろくなさそうな顔にも見える。
彼とは違い、少し甘いアーモンドバターを塗り始めると、独特の香りがこのあたりへ広がった。
「んー……なんて言ったらいいのかな」
昨日、菊池先生は確かに家へ来たけれど、具体的に“何”について話したかといわれると、正直曖昧な答えになってしまう。
でも、ひとつだけ。
きっと彼が聞きたかったのは、大枠で言ったらこれしかない。
「たーくんのことを、いろいろ……かな」
「……俺?」
「ん。どうしてたーくんのことを好きになったのかとか……昔のたーくんのこととか。いろいろお話したの」
結局、菊池先生は最後まで『ごめんね、あれ全部嘘だから』と言うことはなかった。
だから、彼が私へ向けてくれた気持ちが本物なのか、それとも……試されたのかは正直わからない。
……でも、それはきっと私は伝えなくていいことでしょう?
菊池先生がたーくんへ伝えるかどうかはわからないけれど、勝手に私が口にしていいことではない気がした。
「……ふぅん」
バターナイフをお皿へ戻した彼は、視線も同じようにそこへ落としたままひと口頬張った。
最近、朝はテレビをつけていない。
これまでは……それこそ、オーストラリアから戻ってきた先週あたりはずっと、こうしてふたりきりでご飯を食べても“音”がないことはなくて。
向こうでのことや、私がいなかった間のこちらでのことなど、いろいろと話があってとても楽しかった。
もちろん、こうしてほかの誰もいない時間帯にふたりきりでご飯を食べられるのは嬉しい。
もうじき、伯父さんも伯母さんも姿を見せるころ。
洗面所のほうでは水の音がしているから、もう間もなくだろう。
「…………」
きっと私が聞けばいろいろ教えてくれるだろうけれど、『別に』と片付けられてしまいそうな気がして言葉を続けられなかった。
だって、菊池先生とのことを聞くのはなんだか変でしょう?
それに、ここに彼がいない以上はすべて憶測にしかならない。
事実は彼だけが知っていて、私ではなく直接たーくんが把握するほうが大切な気もする。
「今日も、最後までお仕事?」
「いや。多分いつもよか早いんじゃねーの」
まっすぐたーくんを見てたずねると、ちらりと視線を合わせてから首を振った。
最後のひとくちを食べきり、お皿に残っていたベーコンとブロッコリーを片付ける。
そのままお皿を重ねて立ち上がると、たーくんは少し離れたところで『ごっさん』といつものように口にした。
いつもと同じって……私はいったい、いつと比べているんだろう。
仕事が忙しいのかもしれない。
機嫌がよくないのかもしれない。
でも……それは本当に?
なにもかも、私が勝手に『かもしれない』と思っているだけかもしれないのに。
「あー、今日は雨でも降りそうね。ルナちゃん、おはよ」
「おはようございます」
たーくんと入れ違いに、伯母さんが入って来た。
それこそ“いつもと同じ”穏やかな笑みに、ほっとする……自分に、違和感を覚えた。
……そうなんだよね。
表情の少ないたーくんは、ここ最近で“いつもと同じ”に変わってしまっている。
でも、私にとって彼のそばにいられることはやっぱり嬉しくて。
“変わった”のではなく、私が“変えた”んでしょう?
手を伸ばしても拒否されないけれど、普段と違う理由を聞いてないくせに。
教えてくれるはずなのに、“もしも”があったらどうしようと勝手に不安になってるせいで。
「…………」
今日、たーくんは昨日までよりも早く帰ってくるかもしれない。
もちろん、仕事の状況によって時間は変わるだろうけれど、少なくとも彼はそうするつもりでいるような言葉をくれた。
……私にできることが何かを考えるより、何をしたいか考えたほうがいいんだよね。
食べ終えたお皿をシンクへ運ぶと、たーくんが運んでくれた食器が几帳面に揃えられていた。
昨日の夜、お風呂へ入ってから一度部屋へ戻ったとき、普段そうしているように明かりをつけずにいた。
別に、目がいいというわけじゃないんだけれど、クセでもあるのかな。
昨日は十分月明かりがあったから、電気をつけなくても部屋の窓からは白い光が入っていて。
その様子を見るのも嫌いじゃないから、暗さも悪くないなと感じている。
「っ……」
月がきれいなんだなと思いながら窓へ近づいたとき、ふいに小さな明かりへ意識が向いた。
明かり、というのは少し違う。
……だって、あれは間違いなく彼の存在を示すものだから。
私が部屋にいたことは、たーくんからは見えなかったはず。
ちょうど、窓から斜め右うしろに位置しているベランダに、部屋の明かりを背にして煙草を吸っている彼がいた。
顔は見えない。
でも、わかったの。
ときおり動く、煙草の赤い火があるから。
部屋のドアは開いていたから、入って行っても彼は嫌な顔をせずにいてくれただろう。
聞きたいこともあるし、話したいこともある。
でも、ほんの少しだけ今週はたーくんの雰囲気が違っていて、果たしてそれをしていいものか一瞬躊躇した。
「……はぁ」
食器を洗うべくスポンジに触れながら、またため息が漏れた。
本当はそばに行きたい。
触れたいし……できることなら、触れてほしい。
好きな人なの。
とっても特別で……大切な人。
声を聞けるのが嬉しくて、笑顔を見れたら幸せになって、触れられたら……心満ちる相手。
素直に部屋へ行けなくなったのが切なくて、でもまたたーくんの表情が変わってしまうのは少しだけ寂しくて。
と同時に、ふたりきりになるのを意識してる自分がいて。
今朝もそう。
話したいことはあるし、もっと違う話題にすればよかったのに、食事の時間は中途半端になってしまった。
……今日、帰ってきたら変わるかな。
願いとも似た思いを浮かべるものの、でもと打ち消す自分もいて、なんだか少し苦しかった。
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