今日はほぼ1日、部屋の片付けに時間を費やした。
 お昼を羽織と一緒に摂ったけれど、そのあとは彼女も“わからなかったらまた教えて”と自室へこもっている。
 でも、時間が経つのは思った以上に早くて、ついさっき一緒にお昼を食べたはずなのに時計はもう16時を回っていた。
 向こうから持ってきた本はすべて本棚へ。
 ハンガーにかけられる服はクローゼットへしまい、夏服は引き出しタイプの収納がないから今はまだ箱のままにしておく。
 今度のお休み、たーくんにお願いしたら連れて行ってくれるかな。
「…………」
 夕食の支度をしながら、こうして手が止まるのは何度目だろう。
 今日は野菜多めの春巻きに、から揚げのみぞれあえ。レシピを教えてもらった菜の花とベーコンのソテー。
 お隣のおばあちゃまから里芋をたくさんいただいたから、豚汁にしようと思っている。
 下ごしらえは終えて、あとは春巻きを包むくらいかな。
 結局、曇天だったけれど雨は降らなかった。
 でもかなり冷えていて、カーディガンだけで廊下にいると少し肌寒いように思う。
 エアコンは苦手だけど、リビングはこたつがあるからとっても過ごしやすい。
 おやつのあと、羽織はリビングで少しだけうとうとしてしまい、だから慌てて部屋に戻ったのもあるのかな。
 夕刊を取りに一度外へ出るべく、ソファへ置いたままだったストールを羽織る。
 すぐ戻ってくるつもりだけど、そういえば階段下の花壇の手入れを昨日しなかった。
 もし平気そうなら、少しだけ見たいな。
「っ……」
 玄関のドアを開けると思った以上に風が冷たくて、ストールのあわせを強く握りしめる。
 向こうと違って日本はまだ冬。
 3月は目前だけど、きっと寒い日も多いだろうな。
 風邪は引かないようにしないと。
 そういえば、たーくんも忙しそうだし……風邪引かないようにせめて食事面でサポートできないかな。
 毎日夕食を作っているわけではないけれど、やっぱり、自分が作ったものを食べてもらえることはとても嬉しくて。
 伯母さんは遅くても18時前には帰宅するけれど、つい手を出してしまうことは多かった。
「え? ……あ」
 ポストを開けたところで、小さな声が聞こえた。
 振り返るとそこには……真っ黒い猫。
 金の瞳が合い、呼ぶように鳴かれる。
「ふふ。寒いでしょう?」
 しゃがんで手を伸ばすと、すり寄るように身体を寄せてきた。
 柔らかくて温かくて、とても心地いい。
 たまに見かけることはあるけれど、こんなふうに触らせてもらうのは久しぶり。
 ……そう。
 年末、たーくんがここで車を洗っていたとき以来。
「抱っこしてもいい?」
 断ってからそっと手のひらを伸ばすと、嫌がらずに収まってくれた。
 おしりを支えるように抱き上げ、喉から耳へかけて撫でると、ごろごろと気持ちよさそうに目を閉じる。
「あら、奇遇だわ」
「え?」
「てか、ひょっとしてしょっちゅうお世話になってる? うちのがごめんね」
 カラカラとした笑い声でそちらを見ると、アキさんがいた。
 かかとの高いブーツを履き、ぴったりとしたレザーの短いスカートをまとっている様はいかにも大人の女性で。
 にっこり笑ってあいさつをされたものの、一瞬言葉が出なかった。
「こいつー。若い子好きなんだから」
「あ……えっと、アキさん……今帰りですか?」
「ううん、反対。これからお仕事」
 そういえば彼女は、塾の先生だと言っていた。
 ……そっか。
 この時間からお仕事なんだ。
 ということはあまり時間はない……だろうけれど、でも。
 今日出会えたことは、意味があるとしか思えない。
「アキさん、少しだけお話できませんか?」
「あら、なーに? いいわよ喜んで」
 にっこり笑った彼女が、抱いたままの猫の喉元を撫でた。
 この子もアキさんに気づいたらしく、両手で彼女の腕をとらえると甘噛みする。
「もしよければ、お茶でも……」
「んーそうね。ここじゃ寒いし、お邪魔してもいい?」
「もちろんです。何がいいですか? 紅茶とコーヒーと……ゆず茶もありますよ」
「へぇ。それじゃ、ゆず茶にしよっかな」
 アキさんへ黒猫をバトンタッチしながら、外階段を上がる。
 だけど、玄関を開けた途端、猫は何かを察知したのかアキさんの腕から降りると、反対に階段を下りて行ってしまった。
「葉月ちゃんひとり?」
「いえ、今は部屋に羽織がいます」
「あー、あとちょっとだもんね。ラストスパートか」
「……ですね。毎日、遅くまでがんばってますよ」
 私とは違い、彼女は『お邪魔します』と言ってからブーツをそろえた。
 リビングへ入る前、一瞬だけ足を止めた気がしたけれど、目が合うと『なんでもない』と言う代わりに首を振る。
「はー……あったかい。こたつは人をだめにするわ」
「ふふ。出られなくなりますよね」
 普段、たーくんが座るところへ腰を下ろした彼女は、テーブルへ両手を乗せると伏せるようにして笑った。
 一度キッチンへ向かい、アキさんが選んだゆず茶をふたりぶん用意する。
 あ、もしかしたら羽織もそろそろ新しいお茶が必要かな。
 そうは思うけれど……でも、もう少しだけ。
 できれば今は、彼女とふたりきりで話をさせてもらいたいから、改めて声をかけよう。
「懐かしいわ。小学生までは、平気でお邪魔してたのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。当時、アイツは鍵っ子だったからね。ホントはおばさんに『ダメだ』って言われてたはずなのに、散々友達呼んで菓子食べ散らかして、ゲームして……よく怒られたって言ってた」
 マグのひとつを差し出すと、両手で受け取ってから懐かしげに笑う。
 私の知らない思い出。
 でもアキさんだけでなく、きっとたーくんにとっても十分記憶に残っているだろう当時の景色があるんだろう。
 もしかして、さっき上がったときに足を止めたのはそれかな。
 小学生までということは、アキさんはもう何年もここに入っていないんだ。
「でも、すっかりよその家ね。私が知ってるアイツの家は、こんなに花が目につく家じゃなかった」
 ゆず茶をひとくち含んだ彼女は、私を見てすぐそこの掃き出し窓へ視線を向けた。
 今日は残念ながら日が出なかったけれど、きっとこの部屋が一番暖かい場所。
 まだ十分に赤く染まっているポインセチアの鉢が、そこにはある。
「それで? 私を誘ってくれたのはどうしてかしら」
「アキさんに、ずっと伝えなければと思っていたことがあるんです」
「あら。なぁに?」
 両手で包んでいたマグを離し、彼女を見たまま背を伸ばす。
 でも、まるで彼女はこれから私が話すことをわかっているかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。

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