夕方よりまだ早い時間だけど、空は色を変えていた。
 少しずつかげりが広がり始め、淡い色が空を覆う。
 ……きれい。
 どこまでも広がる空は、向こうでもこちらでも同じ。
 きっと、たーくんは『違う』って言うだろうけれど、私にとってどことも繋がっている空は、同じものだ。
「…………」
 朝と同じ場所に停められている、艶のある黒い車。
 ナンバーは車の名前と同じ数字で、お父さんも『マメだな』と笑っていた。
 彼の所有物というだけで、笑みが浮かぶ。
 存在を示すもの、だからかな。
 15時に上がると言っていた彼は正しく、私がカウンター前に立つのと同じタイミングでたーくんも執務室から姿を見せた。
 だけどすぐそこ、車の手前まで一緒にきたところで、野上さんが慌てたように走ってきたんだよね。
 どうしても繋いでほしいという電話がかかってきたから、と。
 鍵を渡されて『先に乗ってろ』と言われたものの、つい、外から眺めるのが嬉しくてすぐにできなかった。
 黒い車体に、木々や空が映り込んでとってもきれい。
 丹念に磨き上げられている証拠だ。
 ……たーくん、マメだよね。
 先日の夕方にも、車庫前で洗車していたのを知っている。
 この前洗ったばかりじゃない? って聞いたら、言ったっけ。
 ここに、泥が跳ねてるだろ、って。
 かがんで見てみれば確かに“ぽつ”とした跡があったけれど、まさかそれを理由にされるなんて思わなくて。
 そこだけ拭けばいいのに、なんて言ったらきっと怒られるんだろうなぁ。
 たーくん、それを口実に車を洗いたかったみたいだから。
「……ふふ」
 あのときの顔を思い出すと、つい笑いが漏れた。
 もちろん、鍵を渡されたんだから乗っていてもいい。
 だけど、こうして彼を待つ時間が、まるで待ち合わせしてるみたいに感じて、どこか特別に思えて。
 一緒に住んでいるから、普段はどこかへ行くにしても最初から一緒にいられる。
 それはとても嬉しいし、贅沢な悩みだと怒られてしまうかもしれないけれど、やっぱり待ち合わせというものには憧れもあって。
 小さいころから、映画やドラマなんかには必ず織り込まれているワンシーン。
 私もいつか好きな人とそうなれたらいいなって思っていたから、もしかしたら人一倍憧れがあるのかもしれない。
「……?」
 思わずにやけてしまいそうになる顔に手を当てると、不意にひとりの男性がすぐここまで歩いて来た。
 穏やかそうな笑みを浮かべ、私の目の前で止まる。
 ……私?
 まったく知らない人だけに、思わずまばたくと同時に後ろを振り返るものの、そこには誰もいなかった。
「あの……何か?」
「よかった、ずっと探してたんだ」
「え……?」
「覚えてないの? ほら。ついこの間、ずっと一緒にいたのに」
 にっこり笑った彼が、距離を詰める。
 知らない人。
 肩まで伸びた髪が風に揺れて、たーくんとは違う香水の香りが漂う。
 ああ、知らなかった。
 それだけで、こんなに胸がざわつくなんて。
 私にとってほしい香りは、音は、たーくんを示すものだけ。
「追われてるんだ」
「え?」
「かくまってほしい」
「あの……どういう……?」
「ほら、あそこ! あの、レジの近くにいる女の子たちもグルなんだ。ヤツらに捕まる!」
「え、えっ……!?」
 瞬間的に表情を変えた彼が、ばっと車の陰にしゃがみこんだ。
 そのとき、いきなり手首を掴まれて引っ張られ、思わず私まで同じようにかがんでしまった。
「あの、何かの間違いじゃ……」
「……くく……」
「……? どうしたんですか?」
「あはは」
 わからないことが、怖い。
 そして、今目の前で起きていることも、怖い。
 俯いていたと思いきや立ち上がって笑い始めた彼を見上げながら、そっと距離をとって立ち上がる。
 気づいたら、バッグを両腕で抱くようにしていた。
 ああ、怖いんだ。そうだよね。
 知らないことに、人は思った以上に不安を抱くんだから。
「1ヶ月も経ってないのに、ひどいなぁ」
「私……どこかでお会いしましたか?」
 やけに芝居がかった身振りで髪をかき上げた彼は、胸を張ってまた笑みを浮かべた。
「僕のこと、ほんとに知らないの? これでも結構テレビに出てるんだけど」
「え……?」
「それにほら、あのとき一緒に買い物もしたじゃない。やだな、忘れちゃうなんて。あのときは、あんなに素直だったのに。……誰かに何か吹き込まれた?」
 わからないし、覚えていない。
 ううん、覚えてない……の? 知らないのではなくて?
 彼が言う言葉がわからず、後ずさるように一歩下がると、彼は笑みを少しだけ変えた。
 ああ、違う。そうだよね。
 あなたの笑顔は、笑顔じゃない。
 最初から笑うつもりなんてなかった、そんな顔だもの。
「追われてるんだっ。ヤツらに捕まる!」
「……っあ……! あなた、あのときの」
「そう。思い出してくれた?」
 一瞬見せた怯えるような表情と、声。
 まるで頭を抱えるかのようにした仕草で、ようやく気付いた。
 あのとき、一緒にいた人なんだと。
 12月、それこそこっちへ戻って来て間もないときだったから、あちこち散歩がてら地理を覚えようと思って、ひとりで歩いて出かけた日のことだ。
 何度かたーくんに連れて行ってもらったショッピングモールに着いたとき、カフェの前でメニューを眺めていたら、いきなりそう声をかけられた。
 『助けてくれないか』と。
 そういえば、あのあと改めてお父さんに叱られたんだよね。
 ううん、お父さんだけじゃなくてたーくんにも、『ひとりで出歩くな』ときつく注意された。
 そして、伯母さんには逆に謝られてしまった。
 『知らなかったとはいえ、危ない目に遭わせた』と。
 自分ではまったく気にしていなかったけれど、でも……あれが始まりだったとしたら、なんて無用心だったんだろう。
 伯母さんのせいじゃない、すべて軽はずみな行動をとった私のせい。
 でも……どうして今ここに、あのときの彼がいるんだろう。
 ここの学生? それとも、たまたま用があって?
 ……そんな感じじゃない。私を――そう、彼は最初にこう言ったんだから。

 『ずっと探してた』と。

「ッ……」
 どうしよう。
 たーくんの言うとおり早く車へ乗っていればよかった。
 ううん、一緒に図書館へ戻ってたーくんを待っていればよかったんだ。
 こんなところでひとりでいたって、対処なんてできないんだから。
 彼がそばにいてくれたら、どれだけ違っただろう。
 『すぐ終わる』と言われたんだから、図書館で待っていればよかったのに。
「見れば見るほど、ホントよく似てるね。君」
「……え……?」

「郷中美和にそっくりだよ」

「ッ……!!」
 身体から音を立てて血の気が引くのがわかった。
 反射的に一歩あとずさり、鞄を抱いた手に力を込める。
「っ! たっ……」
「どこ行くの? あのときは、あんなに俺のそばにいてくれたのに」
「やめてください……!」
 腕を取られ、ぎりぎりと力が込められる。
 怖い。
 こうされることが、じゃない。
 あの人と私の関係を知っていることが、だ。
「気にならない? どうして俺が、君のお母さんのこと知ってるのか」
「なりません。あの人のことなんて……っ知りたいなんて――」
「本当に? 自分の親のこと知りたくない人間なんているのかな。……ましてや君みたいに、これまでずっと悩んで来たとしたら」
「っ……」
 彼はいったい、何を知っているんだろう。
 少なくとも、私とあの人のことは知っている。
 ……きっと、あのときも知っていたんだ。
 だから、近づいてきたのかもしれない。
 今日もまた、ひとりで私のところへ来たように。
「今しかないんだよね。チャンスが」
「……チャンス?」
「これまで10年以上も海外にいた君を日本で知っている人間は、そう多くない。出身がどこであるとか、親が何をしてるなんてことまで知ってる人間は、それこそ身内だけでしょ?」
 片手を上に向け、まるで何かの発表でもするかのように大げさな身振りで、首を横に振る。
 明らかに悪意が満ちていて、それはそれは楽しそうだ。
「だから今なら平気なんだよ。瀬那葉月って子と同じ顔の子が、別の名前で世間に公表されても」
「ッ……!」
 フルネームで呼ばれ、いったい彼がどこまで私という個人を取り巻く情報を把握しているのか、怖くなった。
 私だけじゃない。あの人だけじゃない。
 “身内”と称された以上、きっと周りの人たちのことも知られているんだ。
 なんてことだろう。どうしてこうなったの?
 言いようのないほどの嫌悪から、背中がぞくりと震えた。

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