「君、お父さんのこと知らないよね?」 「え……?」 いったい何を言い出すんだろう。 お父さんのことを知らないはずがないのに。 だって――……。 「っ……」 瞬間的に思い浮かべた人と、彼が言っている人はイコールじゃない。 そうわかったとき、思わず歯を噛み締めて眉を寄せていた。 「離してください」 「君の本当のお父さんはね、今じゃ世界的にも有名な人なんだ。知ってる? この前、2度目のカンヌを受賞した映画監督なんだよ」 「……やめて……っ」 「はは。知らないよね、“お父さん”のことなんて。君はお母さんのことを知っていても、お父さんのことは何も知らない。そうだろう?」 「やめて……!」 「彼も知らないんだよ。自分に、こんな大きな娘がいるなんてことはね。ましてや、“あの”郷中美和との子どもだなんて、気付いてもいやしない。今でも独り身らしいし、彼の血を継ぐ者は君ひとりしかいないんだよ」 「っ……!」 俯いたまま、彼の言葉を聞かないように片手を耳に当てる。 そのとき、抱えていたバッグが地面に落ちた。 弾みでポケットからスマフォがこぼれ、アスファルトに投げ出される。 ……だけど、それが目に入ったから『このままじゃだめだ』と思えたのかもしれない。 『俺と同じだな』 今発売されているものより、ひとつまえの機種。 ピンクゴールドの本体が光を受けて、きらりと見えた。 「……父は、確かに有名でしょうね」 下を向いたまま、それでも精一杯ハッキリとした声をあげる。 そのとき、少しだけ掴まれている腕の力が緩んだ気がした。 「でも、映画監督なんかじゃない。メルボルンにある、たくさんの建物を手がけた建築士です」 キッと顔を上げ、正面から彼を見つめる。 私にとって、父はひとり。 幼いころからたったひとりで私を育て、ここまで立派にしてくれた人。 なんでも完璧にこなして、だけどたまにする失敗はとても大きくて。 お料理が苦手で、だけどお弁当とお洗濯はとても上手に仕上げてくれて。 どんなに功績をあげようと、どんなに名声を得ようと、決してそれに溺れたりすることのない、世界で唯一の絶対的存在。 「私の父は瀬那恭介です。あなたの探している人は、私じゃないみたいですね」 そこでようやく、自分らしい笑みが浮かんだ。 挑戦するわけじゃない。 そうじゃなくて、彼に、この雰囲気に、決して屈しないために。 この強さは彼らにもらった。 お父さんと、そして彼の1番大事にしている甥のたーくんに。 「……っはははは。へぇ、意外だな。見た目に反して、すげぇしっかりしてるんだ? 強気だね、あのときはわからなかったな」 「っ……離してください。人を呼びますよ」 「いいよ? 呼んでくれても。……でも、こんなトコ見たらどう思うかな。いろいろ調べさせてもらったんだけど……孝之君、だっけ。ここで司書してるんだってね」 「ッ……!」 大声で笑った彼が、ふっと表情を変えた。 それがどうした、俺はこんなことまで知ってるんだぞ。 まるで、そう言いたげなものに。 「いやーいろいろやってるみたいなのに、仕事はきっちりしてるんだね。丁寧な説明で、ホント頭が下がるよ」 「え……?」 「彼、今電話対応してるでしょ? ウチのスタッフ相手に、ちゃーんと利用手続き説明してくれてるはずだよね」 「ッ……まさか……」 たーくんが呼び戻されたのも、この人の動きのひとつだとしたら、なんていうことをするんだろう。 たーくんは知らない。 そんな人を相手に誠実さを奪うなんて、ありえないこと。 なんて人なんだろう。 拾い上げたバッグを握った手に力がこもり、金具がきつく手のひらに食い込む。 「俺、さっきも言ったけどこれでも結構有名なんだよね。もしも知ってる人間が写真撮ってメディアに流しでもしたら……君はもちろんだけど、今君が住んでいる家、まわりの人間、どうなっちゃうかなぁ? 見たい? それ。まぁ、楽しそうだけどね」 「……なんて人……!」 これまで生きてきて、たくさんの人と出会った。 優しい人がたくさんいた。 中には、侮辱したり、挑発したり、蔑んだり、憐れんだり、人を陥れようとする人もいた。 それでも、中には変わった人もいたし、変わろうと努力する人もいた。 ……でもこの人は、今まで私が出会ったどんな人とも違う。 だってこの人は、笑いながら誰かを傷つけても平気でいられる人だ。 「っ……!!」 「君が乗るのはこれじゃなくて、あっち。行こうか。そろそろ足止めも限界みたいだし」 「やめっ……」 スマフォを操作しながら腕を引かれ、慌てて足に力を込める。 振り返った彼はひどくおもしろくなさそうに舌打ちしたけれど、それは怖くない。 今、ここで踏みとどまらなければ、もっと大変なことになるんだから。 「忙しいんだよ俺。それとも何? 俺と遊んでほしい?」 「離して」 「かわいくないねー。顔はかわいいんだから、媚売って尻尾振れば? ……そういや、連れてさえくりゃ何してもいいって言われたんだよね。まだ男とか知らない顔してるけど、正直どう?」 「やめっ……」 両手で肩を掴まれ、身体を近づけられた。 耳元でぼそぼそと囁かれ、思い切り身をよじりながら両手で彼を押す。 とても嫌な人。 本当に、それ以外の言葉が見つからない。 「あの彼、結構ヤリ手なんだって? てことは、何も知らなかった君も、今じゃいろいろ覚えさせられたってことかな」 「なっ……」 「それなのに司書とかウケる。本がお友達、ってか」 くくく、と嘲るように笑われたのを聞いて、思い切り突き飛ばす。 途端、自分でも思わないほどの力がこもったのか、彼が数歩よろけた。 「あなたに彼を侮辱する権利はないの」 咄嗟に、自分でもびっくりするような汚い英語が出そうになったけれど、ハッキリとした言葉が出たことに正直ほっとする。 私が今いるのは、ここ。 私が今そばにいるのは、彼。 『ここは日本なんだぞ? 日本語で喋ればいいだろ』 つい先日、瀬尋先生と英語を使って話したときに言われた言葉が蘇った。 ここは、たーくんのテリトリー。 私は彼の流儀にならう。 「ッ……!」 す、と表情を一変させた彼が強引に近づき、片手で顎を取った。 顔が近づき、すぐ目の前で口が歪む。 「こんな大人しそうな顔して、威勢いいじゃん。……いいね。あんときより、ずっといい」 「……やめ……」 「いいんだよ? 別に。君じゃなくても。同い年の従妹だっけ? 明日試験あるみたいだけど、別に俺には関係ないし」 「ッ……!」 ぞわり、と嫌な感じが背中を走って、総毛立つ。 やめて。 やめて、どうしてそういうことを言うの。 どうしてみんなを巻き込もうとするの。 ……私のせいだ。 ああ、そう。私のせいだよね。 私がこっちへ戻りたいと願ったから。 どうしてもたーくんのそばで過ごしてみたいとわがままを言ったから。 1年前の、同じ月。 意を決してお父さんへ『七ヶ瀬を受けたい』と伝えたあの日から、何もかも狂ってしまったんだ。 「別にいいんだよ。君じゃなくても、方法はいくらでもあるんだ。従妹じゃなくたって別にいい。孝之君だっけ、あの人でもいいんだよ? 君が一番困る人を巻き込めば、君は素直になるみたいだし」 「なんて人……」 「いいねその顔。そういや彼のことが好きなんだっけ? かわいそー。振り向いてもらえないのに追い続けるとか、リアルじゃなんの特にもならないのに」 「っ……」 何も知らない人の、何も知らない言葉。 なのに、そのひとことが思った以上に突き刺さる。 好きな人。私の大切なずっと好きな人。 この間のキスは気まぐれかもしれないし、さっき触られたのも意味なんてないかもしれない。 それでも。 それでも私の気持ちは、ずっとずっと彼に向いたまま。 ……だけど、ちゃんと聞かなきゃわからないじゃない。 自分ひとりでくり返したって、なんの答えも見つからないじゃない。 言いたいことをたずねて、きちんと返事をもらわなくちゃ、なんの意味もないんだから。 「…………」 もっと早く気づけたはずなのに。 何もかも私は、いつも遅すぎる。 「ち、人が集まってきたな。さっさと来いよ。ほかのヤツらもみんな待ってんだ。手をわずらわせんな」 「っや……!!」 「早くしろ。お前の人生グチャグチャにすんのなんて、造作ねぇんだから!」 舌打ちした彼がさらに手を引いた。 痛みと嫌な気持ちとで、きつく目をつぶる。 「ぃっ……」 次の瞬間、そっちではなく後ろへ強く身体が引かれ、手首からあの人の感触が消えた。 …………違う。 引っ張られたんじゃ、ない。 「ッ……たーく……!」 目を開けると、すぐここに背中があった。 今朝と……ううん、ついさっき見たときと同じ、黒いコートの広い背中が。 「うあぁあっ……いっ……!」 「なんてことねーだろ? 大して曲がンねぇほうにひねっただけだ」 ハ、と短く笑ったのが聞こえた。 だけど、何をしたのかは見えない。 私の前を塞ぐようにした彼は、背中に手を当てても動かなかった。 「……で? 何してんだお前」 「うぅう……」 「何してんだ、つってんだろ」 いつものたーくんと、違う。 決して、普段は見せることのない態度。 ……たーくん、怒ってる。 ううん、それ以上かもしれない。 こんなふうに、静かに……本当に、淡々と話すのを聞くのは初めて。 きっと、私が一度も見たことがないような表情をしているんだろう。 「こんなことしてっ……タダで済むと思うなよ!!」 「笑わせんな。それはどっちのセリフだ。あ?」 何かを引きずるような音が、徐々に近づく。 見えないけれど、あの人がすぐそこにいることに変わりなくて、怖かった。 たーくんの背へ触れた両手が、勝手に大きく反応する。 「いつも、取り巻きの連中にでも世話焼いてもらってンから、知らねぇんだろ。独りで俺ンとこ来るなら、もっと受身の練習してから来いよ」 「なんだと……!」 「有名人なんだって? 奇遇だな。俺も有名人なんだぜ。……どこで、とは言わねぇけど」 「……ぐっ……!」 「知ってるか? 有名ってのは『知ってる人間もいる』程度じゃ遣えねぇ言葉だぞ」 囁くように笑って、たーくんが動いた。 そのお陰で先が見え、今の状況がなんとなくわかる。 「っ……!」 たーくんが、片手であの人の襟元を掴み、引き上げているのが見えた。 掴まれた彼は酷く苦しげな表情をしている。 「あんま手ぇわずらわせんな。俺のがよっぽど忙しいんだよ」 「く……」 「つか、本ほど武器になるもんねーぞ? 知識然り、物理で言う重さしかりな」 たーくんのセリフが、ほんの少しだけ不思議だった。 だって……それはさっき、彼が口にしたもの。 まるで返事のような言葉に、思わず目が丸くなる。 「よせっ……!」 「あーあ、割れたんじゃね? スマフォ弄るとか余裕こいてんからだよ」 パンッとたーくんがあの人の手を弾いた瞬間、地面へスマフォが落ちた。 と同時に突き飛ばすように手を離し、それを拾い上げる。 「返せ!!」 「いや、欲しけりゃ取りこいよ」 くるくると片手でスマフォを回しながら、たーくんが私を見た。 顎で車を示され、慌ててバッグを抱えなおす。 「さて、どーすっかな。SNSですげぇマメなヤツいるんだけど、こーゆー情報系大好物なんだよな」 売ったら高いんじゃね? からからと笑った彼が、弄ぶように宙へスマフォを放る。 目の前の彼は右手のひじを押さえながらたーくんを睨みつけているけれど、一歩踏み出すことはなかった。 「うっかりバラまくかもしんねぇけど、いいよな?」 「お前……!」 「あー、こっちこっち。コイツ不法侵入すけど、ツレがいるみたいなんでそっちもまとめてブッこんでください」 「くッ……!」 たーくんがひらひら手を振ったかと思いきや、あちらの方向から警備員さんが数人駆けてきた。 それを見て、慌てたように男の人が走り出す。 当然、後を追うように警備員さんたちが行ったけれど、ほどなくして大きなスキール音と怒声が響いてきた。 「……あ……」 「待たせときゃよかった」 小さく舌打ちしたあと、たーくんが私の手を引いた。 あたたかさと柔らかな感触で、瞬間的に膝が折れる。 「っ……葉月!」 「ごめ、なさ……違うの、急に、力が……」 へたりと膝が付きそうになったところを、たーくんが抱きかかえるように支えてくれた。 おかげで、バッグが付いただけに留まる。 今になって、手が震えた。 カタカタと小さく振動を繰り返す両手が、自分のものなのに違うようにも感じられて、小さく首を振る。 ……怖、かった。 とても……とても……っ。 「っ……」 きゅ、と両手を握り締めるも、震えは止まらなかった。 ……どうしてこんなことになったんだろう。 なんでなんだろう。 怖い。 こんなことが起きたのが。 そして、起きてしまったこれからが、とても。 「え、たーくっ……!」 「帰るぞ」 「待って、あの、私っ……」 持ち上げるように抱きかかえられ、思わず身を縮める。 待って待って、どうしてこんな……というか、あの、だって! 確かに膝がわらって動けなかったのはあるけれど、でもね、今の騒ぎでたくさんの人がいるの。 スーツを着ている人たちにまじって、学生とおぼしき人たちも大勢いて。 たーくんが私を抱き上げた瞬間、男女問わず声があがったから、余計そちらを見れない。 「平気か?」 「……ん。ありがとう」 助手席のドアを開けた彼が、私を座らせてから覗き込むようにした。 ふわりと香る彼の匂いに、身体から力が抜ける。 ドアを閉めた途端、遠くから彼を呼ぶ声がしたかと思いきや、数人の学生が走りよってきたのが見えたけれど、そちらは見れず、ただただ自分を抱くように両腕を回した。 何も、言えなかった。 言葉が見つからなかったというのもあるけれど、でも、ショックだったというのもある。 まさか、直接こんな形で接触されるなんて。 私のところへ来るんだろうか。……あの人が? まさかという気持ちと、かもしれない気持ちとで、頭が混乱する。 もしもそうなったとしたら、そのときは間違いなく私の周りにいる人たちに迷惑がかかる。 羽織や、伯父さん、伯母さん。 そして、たーくんにも、お父さんにも。 ……ううん。 きっと、もっとずっとたくさんの人たちに、大きな迷惑がかかるんだ。 「ったく。どいつもこいつも。肖像権ってモンがあるっつの」 言いながら強くドアを閉めた彼は、エンジンをかけるとすぐにギアへ手を置いた。 「……ごめんなさい。私が迂闊だったの」 「どこが」 「だって、もっと早く気付いて、あそこから逃げてたら……ううん、たーくんに言われたとおり、すぐに車へ乗っていたら、こんなことにならなかったと思う」 ゆっくり車が動き始めるのを感じながらも、視線は足元に落ちたまま。 どうして気付かなかったんだろう。 ……何を悠長に、聞いていたんだろう。 彼の態度が豹変するまでの間、まったく無防備だったことを今になって後悔する。 「しっかり応戦してたほうだと思うぞ」 「え?」 小さなため息混じりに聞こえた言葉は、いつものたーくんと同じ声で。 「もっと言ってやりゃよかったんじゃね」 「っ……たーくん……見てたの……?」 思わずまばたきをしながら彼を見ると、半分くらいからな、と口元だけで笑って私へスマフォを渡した。 「っ……これ」 「動画なら物的証拠として十分だろ。きっとナンバーくらいは控えられただろうし、あとはプロの出番だな」 「プロって……」 「身内にいんだろ。絶対的に守ってくれるだろう、プロの警察官が」 「……あ……」 曹介伯父さんのことだ。 つい先日、お正月に本宅で会ったときのことを思い出し、身体から力が抜けた。 久しぶりだなぁと大きな手のひらで頭を撫でた彼は、私が小さいころからずっと変わらない。 陰日なたなく、いつもとても大きな口でよく笑う、たーくんの父である雄介伯父さんとはタイプが違う人。 そう。 まるで、大きな太陽みたいな人だ。 「曹介さんに相談すりゃ、一発だろ。お前が心配することなんもねーぞ」 「……ん。そうだね」 当たり前の発想が出てこない私と違い、たーくんは小さく笑うとひとつギアを上げた。 「やっぱお前、俺の思った通りだな。恭介さんそっくり」 「え……そうかな?」 「つーか、とどのつまりは俺に似てるってことだけど」 「たーくんに?」 「ま、手が出ねぇだけ俺よかマシだ」 ギアに置いていた手を頭に乗せられ、身体から力が抜ける。 小さくとはいえ、たーくんが笑ってくれた。 そして、私を落ち着かせようといつもと同じ態度をとってくれた。 嬉しいという思いだけでは、足りない想いが身体に染み渡る。 「たーくん……ありがとう」 「何もしてねーぞ」 「そんなことないよ!」 前を向いている彼にもちゃんとわかるように身体ごとそちらを向き、しっかりと横顔を見つめる。 しばらくすると、彼がふっと笑った。 「でもま、『Hasta la vista,Baby』くらい言っといてもよかったんじゃねーか?」 「……っ!」 くく、とおかしそうに笑った彼につられ、思わず小さく噴きだす。 頭に浮かぶのは、有名すぎる映画のワンシーン。 口調を真似てセリフを言われたせいか、やけに鮮明に思い浮かぶ。 「そうだね」 くすくすと笑いながらうなずいたとき、たーくんもまた同じように笑った。 たーくんは優しい。 少なくとも私は、間違いなくそうだと言える。 だって、こんなにも私を気落ちさせまいと気遣ってくれてるんだから。 本当は、怒鳴りたいことも、突き詰めたいことも、たくさんあると思う。 目の前で起きていた光景。やり取り。会話。 そのどれも、たーくんには気になったことばかりじゃないだろうか。 「…………」 笑みを浮かべたまま、彼の横顔を見つめてもう1度『ありがとう』を呟く。 『お前のせいじゃない』 そう口で言う代わりに、態度で示してくれているたーくんには、何度言っても足りない言葉だ。