「…………」
 まだほかに誰も帰っていない、今の私にとっての“我が家”。
 玄関に入ってすぐ、また足から崩れそうになった。
 たーくんはすごく心配してくれたけれど、でも、もう大丈夫。
 だってもう、今の私は守られているんだから。
 年末、お仕事とこれからのことのために帰国すると言ったお父さんへ、無理にお願いをして一緒にこさせてもらった。
 大学の手続きをするという名目と、もうひとつは……どうしてもお父さんにお願いしたいことがあって。
 でも、最後まで渋った彼が納得してくれたときから、お父さんは何度も何度も私へ言ったことがあった。

『あの家の中以外で、ひとりで過ごさないこと』

 それを強く言われていたのに、どうして私は守れなかったんだろう。
 こちらへ来てすぐ、ひとりで出かけたショッピングモールが、そもそもの最初。
 あれこそが間違いであり、絶対的におかしてはいけないことだった。
 お父さんは、小さいころから私を大切に守ってくれていたけれど、それゆえの過保護めいた言葉なんだと思っていた。
 でも……でも、違ったの。
 お父さんはもしかしたら知っていたのかもしれない。
 日本という場所で私がひとりになったら、あの人が動きを見せるかもしれない、と。
「…………」
 和室の縁側、いつもと同じ場所で洗濯物を畳みながら、ふと視線が落ちる。
 やっぱり帰ってきちゃいけなかったのかな。
 ……そもそも、選んじゃいけなかった?
 今後どうなるかはわからないけれど、たーくんは家に帰ってくるとすぐ2箇所へ連絡を入れた。
 ひとつは、お父さん。
 そしてもうひとつは、たーくんがあのとき口にした警察官である曹介伯父さんへ。
 お父さんとは電話を代わってもらって話をしたけれど、伯父さんとの話になると、たーくんはそのまま部屋へ上がっていった。
 どうやらパソコンか何かで調べものをしながら話していたらしく、時おりマウスを動かす音も聞こえていたけれど、途中からドアが閉ざされたようで何も聞こえなくなった。
 もう大丈夫。そう、大丈夫だよね?
 でも……本当に?
 私が決めたことで、決めたせいで、誰かが傷つくことになってない?
 たとえば……そう。お父さんや、たーくんが。
「っ……」
「お前な。ンなとこにいたら風邪引く」
 パチン、と音がして暖色の光に照らされる。
 さっき、ここで洗濯物を畳み始めたときは、まだ十分に明るかった。
 でも今は、すっかり庭が見えなくなっている。
「あ……」
「だいぶ冷えてんぞ。ちょっと来い」
 腕を引いて立ち上がらされたかと思いきや、そのまま手を引かれた。
 ああ、あったかいなぁ。
 私と違ってたーくんの大きな手のひらは、とても温かかった。
「……暖かいね」
「たりめーだろ。今何月だと思ってんだ」
 リビングへ入ると、エアコンはついてないのに十分暖かかった。
 いつもの定位置であるこたつの角へ座り、両手をテーブルの上で組む。
 だけど、どちらの手もすっかり冷えてしまっていて、温かさは見つからなかった。
「え……」
「甘さはてきとーだから保障しねぇぞ」
 目の前に置かれたマグには、ココアが入っていた。
 レンジの音がしていたのは知ってるけれど、まさかホットココアをいれてきてくれるなんて、誰が想像しただろう。
「そんな意外か? 俺がココア作るとか」
「だって……ふふ。ありがとう」
 角を挟んだ隣へ座ったたーくんが、嫌そうな顔をした。
 ごめんね、だって意外だったの。
 でも……まさかのことに、とても嬉しくて、そっと両手を伸ばす。
 温かさが、じんわりと冷えた指先をほぐすように伝わり、熱を帯びる。
「ん……おいしい」
 そっとひとくち飲むと、自分が作るのとは違って、もっとずっとおいしく感じた。
「怖かったろ。俺」
「え?」
「目の前で、あんだけのことやったからな」
 テーブルへ頬杖をついた彼が、どこか申し訳なさそうにつぶやいた。
 確かに、“あのとき”は怖かった。
 でも――。
「たーくんのこと、そんなふうに思ったことは一度もないよ」
「……何?」
 きっぱりと首を横に振ると、当然のように笑みが浮かぶ。
 私が怖かったのは、あの人に対してで。
 どれほど大きな声を上げられようと、たとえ目の前で強いチカラを行使されようと、たーくんがその選択をするのには必ず正当な理由があると思っているからこそ、恐怖を感じることはまずない。
 そう。ありえない、ことだ。
 だってあのときたーくんは、私を守ってくれるために動いてくれたんだから。

「だって、私の彼だもん」

「っ……」
「いつだってカッコよくて、頼りになって……なのに怖いなんて思うはずないでしょう?」
 ひとつひとつ丁寧に口にしながら、にっこり笑う。
 だけど、たーくんはまるで予想外だったかのように、目を丸くするとうっすら唇を開いた。
 私をどんなふうに守ってくれるかお父さんへ伝えたら、彼だってたーくんの行為を認めてくれると思っている。
「さすがだよ、お前は」
「……え?」
「俺が選んだ女だけある」
「っ……」
 ぽんぽんと頭に触れてすぐ見せたのは、とても柔らかな眼差しで。
 もう……本当に、どきどきするでしょう?
 思ってもなかった言葉をもらえたこともそうならば、こんなふうに優しく触れてくれたこともそう。
 ああ、本当に私にとって何よりの人なんだから。

 想うことは、叶うこと。

 小さいころ、彼が何度も教えてくれた言葉。
 誰もいない場所で泣いていたとき、たーくんはまるでわかっているかのように必ず見つけてくれて……頭を撫でながら『大丈夫』と言ってくれた。
 もう覚えていないかもしれない。
 けれど、私の中ではきっと生涯残り続ける姿。
 ……優しいんだよね。
 きっと私が、誰よりも1番よくわかっていることだ。
「曹介さんが処理してくれるってよ」
「え?」
「さっきの。あとで、俺の録画データと一緒にアイツのスマフォ取り来るとさ」
 時間だけで言うと、まだそんなに経っていない。
 あれは現実だった。
 もしかしなくても後日、たーくんはいろんな人に事情を聞かれるだろう。
 こんな形で迷惑をかけることになるなんて、申し訳ない気持ちしかない。
「曹介さん、また生き生きすんだろーな」
「そうかな?」
「すげえ楽しそうだったぜ? お前の役に立てるとも言ってたけど、どっちかっつーと成敗できるほうでたぎってる気がしたし。っとに、持つべきものは使える身内だぜ」
 テーブルへ頬杖をつきながら、たーくんは『あの人らしい』と笑う。
 でも……いいのかな、本当に。
 だって私……ううん、最初から私が望んでしまったせいで、こんなことになったのに。
「だから、お前はなんも心配しないでウチにいろ」
「……でも……」
「今度からはひとりでどっか行くなよ。必ず誰かと……羽織以外な。アイツじゃ頼りになんねぇし」
「もう。羽織だって大丈夫でしょう?」
「今日みてぇに絡まれたら、揃って拉致られてんだろうが」
「……それは……」
 かも、しれない。
 確かに否定はできない。
 というか……羽織を巻き込むわけにはいかないし、それはやっぱり嫌だ。
「俺を頼れ」
「っ……」
 今の今と声が違って、たーくんがまっすぐに私を見つめた。
 頼っていい、のかな。
 でも、だって……私のせいなのに?
「……あ……」
「なんでふたつ返事しねーんだよ」
 馬鹿が。
 小突くように中指で押された額を撫でるようにすると、大きくため息をついてからたーくんが両手を後ろへついた。
 今ならまだ間に合うのかな、って思っちゃったの。
 たーくんに私の気持ちは伝えたけれど、彼から正確な返事はもらっていない。
 キスはしたけれど、だからといってそこから先の何かが続いているわけでもない。

 I'm seeing someone.

 特定の恋人がいないとき、友達はそう言って笑った。
 誰とでも会える時期。
 告白の言葉や習慣のない向こうでの暮らしだったけれど、新密度が増せば周りも気づくし、わかる。
 ううん、むしろ行為でこそ示すのが“らしい”なと感じた。
 でも、私はやっぱり日本人で。
 行為もそうだけど、言葉もほしいと思ってしまう。
 だから……だけど、でも、今は……たーくんからの返事がない今ならばまだ、って思ってしまった。
 親密な時間が増えていない、今なら。
「私……」
 振り向いてもらえたかどうかわからないけれど、でも、今ならまだ離れられる。
 大学だって、手続きはしたけれど……辞退だって、できる。
 今ならまだ。
 今なら…………本当に?
「どうしよう……私、どうしたらいい?」
「……葉月……?」
「たーくん……どうしたらいいのかな、私……っ」
「っ……お前……」
 すがりたかったのかもしれない。
 昼間、教学課で知らない女性が彼へしたのと同じように腕へ触れると、ぽたぽたと音を立てて涙が頬を伝った。
 どうしよう。どうしたらいいの。
 ねばならない方向の考えと、であればなおの考えとで、ぐちゃぐちゃになる。
 順序は付けられない。
 一番大切なのは、周りの人たちの命と安全。
 これが保障されないのに、私が求めるわけにいかない。
 だけど、気持ちの整理はつかないの。
 だって、ずっとこうしてみたかった。
 こんなふうになったらいいなと願ったことが、くしくもつい先日叶ってしまった。
 欲しいものが増えた。
 もっと、とさらなる欲を出す。
 触れてもらえるようになった。ううん、触れることだって許してもらえるようになった。
 手を伸ばせばすぐここに彼がいて、拒むことも嫌な顔をすることもなく、受け入れてくれているのに。
 なのに……離れられる? ねばならない?
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。
「私、わたし……っ……みんなが困るのは嫌なの。誰かが傷つくのも嫌。でも……でも、こんなに一度に特別なことばかりが手に入ったのに、手離せそうにないの」
 なんてわがままなんだろう。
 私が身を引けばそれで解決するのに。
 なのに、どうしたらいいか答えを求めようとするなんて、彼に責任を押しつけるのと同じ。
 『こうすれば』と言われたらそうしたいと思っているのは、ずるいことなのに。
 口元を手で押さえ、簡単に涙を拭う。
 だけど、自分ではどうにもならなくて、手の甲が新たな涙で濡れた。
「お前は何がしたい?」
「……え……?」
「どうすればいいかじゃなくて。葉月は何がしたくてこっちへきた?」
 諭すのとも違う、静かな声。
 いつものたーくんとはまるで違って……そう。
 11月の試験のとき、お父さんの話を聞いてもらったときのように、彼が続けた。

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