「……苦しい」
 今日も今日とて、女将はビールのロング缶を3本開けた。
 つーか、ほんとよく飲むよな。
 飲めないわけじゃないが、どっちかというと当然飯を食いたいタチでもあり、俺は2本半がやっと。
 炭酸で腹が膨れることもあり、それこそ水以上に飲む様を見て、自分とはほんと違うんだなと実感する。
 恭介さんは夕方から出かけたそうで、本宅を出た21時にもまだ連絡はなかった。
 内心安堵しつつも、どこかで『このままじゃマズいよな』とも思っているせいか、会わないことがなんとも複雑な気分ではある。
 それと、もうひとつ。
 女将に聞かされたことで、彼にはデカい借りもひとつできたからこそ、葉月とは別のこととして話す機会は作りたいと思った。
「……あっつ」
 結局、たらふく食べたもののひと休みもせず風呂へ直行してしまい、身体には悪いだろうが時間短縮にはコレだよなとある意味納得もする。
 ……が、せめてひとくち何か飲みたい。
 とはいえさすがに今日は冷酒でも牛乳系でもなく、もう少しさっぱりしたやつを。
 そう思いながら大浴場すぐにある休憩処へ行くと、昨日と同じくそこそこの人数が腰を下ろしていた。
「……あれ?」
 その中に、ひとり。
 それはそれはよく見知ったヤツが、スマフォを手に座っていた。
 俺には気づいてないようで、空席が幾つかある中あえて隣へ腰を下ろすと、少し驚いたように見上げてすぐ苦笑する。
「もう。びっくりするでしょう?」
「だったら、隣へ座られねぇようにもっと端っこ座ってろ」
 堂々と両隣を空けておいてそのセリフは、なかなかなもんだぞ。
 ここでひとりなら、恐らくは待ち合わせだろうと思われるだろうが、ナンパがゼロとも思えない。
 ……ま、流浪葉でする人間は相当限られてくるだろうけどな。
「で? なんでここにいんだよ」
 本宅で俺を見送ったときと違い、葉月は洋服へ着替えているだけでなく、いつもとは違い髪をすべて下ろしていた。
 そのせいか雰囲気が違い、葉月だとは思ったが一瞬悩みもした。
 まぁ、ほかと違って少し照明の明度が低いってのもあるけどな。
 あとは、いるはずないと思い込んでいたからってのも大きいだろうが。
「私も、今日はこっちのお風呂をもらったの。とってもたくさんの種類があるんだね。いつもより少し、長湯しちゃった」
 長い髪を耳へかけた仕草が、いちいち目につく。
 ふぅん、と自分なりに返事をしたつもりだったが、気づくと葉月は顔を覗きこんで不思議そうに俺を呼んだ。
 ……いや、別に。
 別にじゃねーけど、聞くな。
「あ」
「……あー、うまいな。これ」
 葉月の前に置かれていたグラスを手にすると、まさにジンジャエールの味がした。
 普段飲むようなものよりも、少し辛口で生姜の味が強い。
 が、これはこれでうまいし。アリだな。
「俺もこれにしよ」
 テーブルへ置かれているメニュー表から、同じものを頼むべくすぐそこのスタッフに声を掛ける。
 ほどなくして運ばれてきたグラスには、やはり同じくレモンが刺さっていた。
「はー……」
 うっかり半分ほど飲み干したところで、ああ単純に喉渇いてんじゃんと自覚。
 どうせなら、部屋へ戻る前に自販機でペットボトルでも買っとくか。
 夕食前とは違い、完全に目は覚めてる。
 身体のほうも疲れはさほど感じられず、やっぱ温泉の効果ってホントにあるんだろうなとも思った。
「ねぇ、たーくん」
「あ?」
 絞ったレモンを外し、手を拭く。
 いつもと少しだけ違う呼ばれ方な気がして葉月を見ると、ほんの一瞬唇を噛んだように見えた。
「少しだけ、お部屋に行ってもいい?」
 周りはそこそこ音もあるし、当然会話は多い。
 だが、囁かれた言葉は思いのほか大きく聞こえ、目を合わせたまま言葉が出なかった。
「……別にいいけど」
「ありがとう」
 ごくり、と飲み込んだのはジンジャエールでもあり言葉でもあり。
 どこかほっとしたような顔の葉月を見て、聞くべきか聞くまいか逡巡はする。
 あえて部屋に来たがるってことは、当然……そういうことだよな?
 え、違うのか?
 期待はしてるってこと……だよな?
 いや、もしかしたらなんかこう、違う意味でかもしんねーけど。
 とりあえず、まだ恭介さんは帰宅してない。
 かつ、部屋に来るってことは他人の目はゼロなわけで。
「…………」
 いろいろ考えはするが、当然ひとりで出せる答えはない。
 まぁとりあえず、コイツには教えておかないとマズいんだなとは思った。
 夜のこの時間にあえて、ふたりきりになれる部屋へ行きたがることが、相手にどう取られるのかってことは。

「ほんとはね、あのあとすぐチャイムを押したんだけれど……いないみたいだったから、お風呂かなって思って。それで、待ってたの」
 エレベーターを降りて向かう、今の俺の部屋。
 俺たち以外にひと気のない廊下は、あまり声が響かない。
「電話すればよかったじゃん。もしかしたら、ラウンジ行ってたかもしんねぇだろ」
「んー……待ってみて会えなかったら、もう一度お部屋へ行こうと思ってたから」
 ひとり一台スマフォの時代とは違い、まるで一昔前のようなことを言い出した葉月に、小さくため息をつく。
 まぁ、ひょっとしなくてもひとりの時間を満喫してたっぽいから、いいはいいけどよ。
 恭介さんが知ったら、ちょっと怒られそうじゃん。
 ……しかも、なんでか俺のせいにされそうだし。
「え?」
「どーぞ」
「……ふふ。ありがとう」
 ドアを開けてうながすと、意外そうな顔をしてから笑った。
 いや、別に他意はない。
 ……そんな、特別なモンはな。
「広いお部屋だね」
「そうだな。よっぽど、俺の労働を買ってくれてンだろ」
 入り口からすぐのところは、畳張りの和室。
 その奥に障子で仕切れる板張りの部屋があり、一番奥の窓は海側とあって朝は水平線からの朝日も見える。
 ひとりで泊まるには十分すぎる部屋。
 それこそ、4人で布団を敷いてもまだスペースは十分余る。
 板張りの部屋にはテーブルと椅子のセットがあり、床暖房のおかげで快適だった。
「わぁ……こんなにきれいな夜景が見えるんだね」
 窓へ向かった葉月が、カーテンを開いて嬉しそうな声をあげた。
 あー……。
「そういや昨日は見なかった」
「そうなの?」
「今朝は見たけどな。昨日は、風呂のあとカーテン閉まってたし。そういや、景色見ずにテレビ見て寝た」
 葉月の頭ごしに景色を見ると、ああ確かに。
 見下ろす形で街の明かりが見える。
 いくつも温泉宿の看板が目に入り、まさに温泉街めいていた。
 うまいメシに温泉に、この部屋。
 それこそ、旅行で来たなら十分すぎる宿だろう。
「…………」
 ちょうどいい高さに葉月の頭があり、顎を乗せるといつもとは違うシャンプーの匂いがした。
 もしかしなくてもあの“シャンプーバー”から、好きなやつを選んだろうな。
 家にはないやつ。
 だが、香りは悪くない。
「……一昨日……もう、一昨日になるんだね」
「ん?」
「私ね、電話で名前呼ばれたとき、なんだかとっても嬉しかったの」
 前を向いたまま、葉月がつぶやいた。
 ガラスに部屋の明かりが反射して、わずかながら映っているのは嬉しそうな顔。
「たーくんに名前を呼ばれることが、いつも当たり前になってたけど……ずっと、聞けてなかったんだな、って……なんだか、しみじみ感じちゃった」
 葉月へ電話をかけた、あの日。
 ガラじゃないが、俺とて同じことを思った。
 電話ごしの声は普段と少し違って。
 距離もあってか遠く感じた。
「電話って、なんだか特別だね。耳元で話してるみたいで、少しだけどきどきしたの」
 首だけで振り返った葉月が、すぐここで笑う。
 ふわりと甘い香りがして、確かめるようについ髪へ手が伸びた。
「だけど……やっぱり、直接話せるのが嬉しい」
 そうだなとも、そうなのかとも言わず、ただ髪を撫でる。
 電話で話すのも、悪くはない。
 少し前までは離れているのが当然だったのに、急激に距離が縮まり、こうして手を伸ばすのが当たり前の関係になった。
 だからこそ、の距離は思った以上にデカくて。
 たった4日離れただけなのに、電話で声を聞いたとき、それまで思っていたことと全然違う言葉が漏れて自分でも驚いた。

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