「…………」
 葉月が家にいないのは、それこそ12月までは当たり前だった。
 アイツがウチで過ごすようになって、まだ1ヶ月経っていないにもかかわらず、正直これほど存在が当たり前で大きくなっていたとは思わなかった。
 平日の朝、羽織とふたりで食うのが普通だった朝飯の時間は、必ず葉月が一緒だった。
 お袋が用意することもあったが、どちらかというと葉月がしてくれることのほうが多く、最近ではスープが必ず添えられていた。
 ポタージュであり、コンソメベースであり。
 朝は基本洋食メニューだったこともあるが、毎日のように違ったスープがウチで飲めるってのは、単純にすげぇなと感心もした。
 羽織もそうだが、都度伝えると葉月はいつも嬉しそうに笑った。
 単純に味を褒められて嬉しかったってのもあるだろうが、きっと……それだけじゃなかったんだろうと思いたい。
 アイツはずっと、俺へ気持ちを向けてくれていた。
 ささいなことで喜び、嬉しそうに笑う。
 それは……そういうことだから、だったんだろうな。
「あら。行ってらっしゃい」
「ああ」
 葉月がいなくなって、今日で4日目の朝。
 いつもと同じ時間で玄関へ向かうと、歯磨きをしながらお袋が珍しく姿を見せた。
 明日は先日の土曜出勤の代休で休みを取る予定だったが……どうしたもんか。
 もちろん休みでいいんだよ。そりゃあな。
 ただ、本来は葉月を連れて出かける予定だったから、ってだけ。
 珍しくアイツが行きたいと言った、冬のこの時期にもかかわらず咲いているバラ園のあるカフェへ行くために。
「ルナちゃん、元気?」
「多分な」
「連絡取ってないの?」
「電話してねぇから、よくわかんねーけど」
 これまでと違い、葉月へメッセージを送っても既読がつくのは数時間後。
 夜はすぐに反応が返ってくるが、日中はほとんど連絡が取れない。
 なんらかの理由はあるだろうが……“これまで”と違うからこそ、少し心配ではある。
 でもな。
 電話していいのか? つか、恭介さんにあんだけ言われたのに?
 そんな、らしくもない躊躇をするようになったせいで、自分の行動にも変化があった。
「ま、がんばんなさい」
「……何を」
「アンタがいちばんよくわかってるんじゃないの?」
 ざっくりした言葉をもらって眉を寄せると、お袋は肩をすくめて洗面所へ戻って行った。
 すげぇ抽象的。
 だが……まあ、それしか言えねぇってのもあんだろーけど。
 つか、別に励ましてもらわなくていいっつの。
「…………」
 俺がいちばんよく、わかってンだし。
 ため息をつき、玄関のドアを開ける。
 晴れてはいるが、うす曇りなせいかいつもより世界が白く見えた。

「瀬那さん、最近従妹ちゃん来ないんですか?」
「…………」
「あれ? 瀬那さん?」
「今忙しい」
「えー! これからお昼食べに行くんでしょ? タイミングはかってたんですから!」
「そんなところ、空気読んでくれなくていいから」
 ちょうどキリよく打ち込みが終わったところで席を立つと、カウンターごしに野上さんが声をかけてきた。
 つか、この仕事野上さんのじゃん。
 なんで、まるっと俺の分担にすりかわってんのか、聞いてみたいけど面倒だからやめとく。
「これっ! 従妹ちゃんが読みたいって言ってた本、届いたんですよっ!」
「……アイツが?」
「えっへん。わたくし、ちゃーんと入荷しておきました」
 ふふふ、とそれこそ悪だくみをはかるキャラ的な笑みで彼女が取り出したのは、一冊の本。
 つーか……。
「……絵本じゃん」
「いい色ですよねー。私、この作者さん国語の教科書で初めて知りましたよ」
 表紙には、カラフルな色使いで描かれているカメレオン。
 作者を見て、小さく声が漏れる。
「珍しい……つーか、え? これを、アイツが読みたいつったの?」
「この作者さんが好きなんですって。探したらこの絵本だけなかったって言ってたから、私買っちゃいました」
「……すげぇ職権乱用じゃね?」
「なんてこと言うんですかもー! 正当な権限です」
 それはどーだか。
 ……まぁ、俺もこの間読みたかった本買ってもらったから、何も言わないけど。
 にしても、まさか葉月が絵本を探してたなんて知らなかった。
 つか、俺にはひとことも言わなかったからな。
 ……言えよ。まず俺に。
 そう思うのは何か。俺の心が狭いのか。
「…………」
 単純に、卑屈になってるだけなんだろうよ。どうせな。
 あれからたった4日しか経ってないのに、どうやらアイツがいないことをおもしろくないと感じてはいるから。
「ともかくっ! 入荷したこと、教えてあげてくださいね。そんでもって、図書館へおいでませと伝えてください!」
「あー……まぁ、言っとく」
「頼みましたからね!?」
「はいはい」
 肩をすくめてかわし、入り口へ向かう。
 今日は学生も少なく、午前中は穏やかだった。
 外に出ると昨日よりも気温が高く、ヘタしたらカーディガンいらねぇかもな。
「…………」
 ただ、なんとなく。
 なんとなしに、足が止まっただけ。
 昼休みとあって、ちょうど授業が終わったらしい学生があちこちの館内から出てくるのを見ながら、その喧騒に自分が一瞬馴染まなかっただけ。
 教学課への渡り廊下へ向かい、スマフォを取り出す。
 繋がらないだろうな、とは思う。
 だが、着信履歴として残るのであれば反応が変わるんじゃないかと多少期待もしたせいで、履歴から葉月を探すと架電していた。

『もしもし』

「っ……」
 中庭から学食への入り口を眺めていたら、ふいに葉月の声がした。
 いや、電話かけたんだから当たり前なのに、久しぶりに聞いた声で一瞬言葉が詰まる。
『たーくん? どうしたの?』
「いや……悪い。今いいか?」
『ん。大丈夫だよ。なぁに?』
 直接聞いていた声とは少し違う気がする。
 だが、柔らかいしゃべり方も、笑う寸前の息遣いも、何もかもがアイツそのもので。
 あー……なんか、すげぇ久しぶり。
 日曜の夜に別れたときはなかった“当たり前”の話し方に、ほんの少しだけ懐かしさを覚える。
「…………」
『たーくん?』
 言おうとした言葉が消える。
 ざわざわとした喧騒が一瞬途切れ、名前を呼ばれる。
 電話越しの声とか、すげぇ久しぶり。
 つーかそもそも、アイツとこんなふうに電話で話すのは、いったいいつ以来か。
「明日、暇か?」
『え?』
 電話する理由なんて、なんでもよかったしきっといろいろあった。
 野上さんに言われたのは単なるこじつけで、俺にとって都合よかっただけ。
 なのに結局、本は話題にならず、直近で俺がやりたいことのほうが優先された。
「こないだ言ってたろ? 御殿場のカフェ。明日天気いいし、もし出れるなら迎え行く」
 ここから御殿場までは、高速を使えばそれこそ大差ない距離。
 だが、今アイツがいるのは湯河原で。
 先日と同じように海沿いを走り、その先は山越えルート。
 普段とはまるで違う道を通ることにはなるが、それはそれで楽しいだろうとは思う。
 ……少なくとも俺はな。
 ただ、アイツが出れるかどうか……つーかそもそも、今どんな生活スタイルなのかさっぱりわかんねぇけど。

『暇なら明日、朝イチで湯河原へ来い』

「ッ……!」
『8時だ。1分たりとも遅れるなよ』
 葉月と同じく、電話越しに聞く久しぶりの低い声に、身体が大きく反応した。
 つーか、いつすりかわってたんだよ。
 全然気づかなかった……が、どうやらすぐそばに葉月がいるらしく、『お父さん返して!』と普段のアイツからは聞かないようなセリフが聞こえた。
「……わかった」
 ため息をつくと、同時にまぶたが閉じる。
 渡り廊下を吹きぬける風が、冷たい。
 ああ、そうだ。
 今はまだ、1月だったな。
『もしもし? たーくん?』
「っ……」
 さっきとはまるで違い、どこか慌てたように葉月が俺を呼んだ。
 きっと、両手でスマフォを握ってるんだろうな。
 アイツがやりそうな仕草が目に浮かび、ほんの少しだけ頬が緩む。
「葉月。お前、元気か?」
 ガラにもないセリフなのは承知。
 ただ、ちゃんとメシ食ってンのかとか、寝てるのかとか、まるであのとき俺へ女将が言ったようなセリフばかりが頭に浮かぶ。
『ん。大丈夫だよ。……たーくんは?』
 あんまり。
 うっかり口が滑りそうになり、かわりにため息ひとつ。
 ただまぁ……頭は冴えた。
「俺は……つーか、ウチは変わりねぇから安心しろ」
 忘れてたわけじゃないが、そうだったよ。なんも変わってねぇんだったな。
 恭介さんの声を受けて、曲がりそうになった背が改めて伸びる。
『……たーくん』
「なんだ」
『明日、本当にこっちへ来るの?』
「行くって返事したのに、しなかったらホントにヤバいだろ」
 朝イチ、っつーか8時に湯河原着ってことは、こっちを6時台に出ないと厳しい状況。
 平日とはいえ華の金曜日。
 俺のように土日含む連休にして、伊豆方面へ遠出する車があってもおかしくはない。
『じゃあ、待ってるね』
「っ……」
 普段と同じ言い方なのに、まるで大切な言葉でも口にするかのように言われ、少しだけどきりとした。
 あー。
 だから、こういうことなんだろ? 結局。
 人を好きになる、ってことは。
「ああ。明日な」
 どこかの誰かみたいに『俺もだ』と口にはできなかったが、おかげで電話を切るときにはいつもと同じように表情は緩んでいた。

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