「いやー、ちょうどパソコン使える子探してたんだよねー。助かったよ」
「ならよかったです」
11時を少し回ったところで案内されたのは、いわゆる社員食堂。
仕出し用の厨房とは別にあるここは、食堂というよりはもう少しこじんまりとした場所だった。
カウンター越しに数人が調理している様が見え、だしのいい香りが漂っている。
俺にとっての3連休初日は、6時半に家を出た。
が、正解だったぜ。
まさか、湯河原までの道があんなに混むとは思わなかった。
どうやら平日もそこそこ混むルートらしく、8時手前で女将の本宅へ駆け込んだら『よく間に合ったね』と逆に意外な顔をされたほど。
……にしても、朝から働かされるなんて思わなかった。
どうりで、昨日の夜女将が『スーツでおいで』とわざわざ電話してきたわけだ。
館内は暖房が十分に効いており、結局ワイシャツ1枚で過ごしてはいるが、ほとんど駆け回っていたこともあって腕まくりしないと暑いほどだった。
「ていうか、恭介君の甥っ子さんなんだって? どうりで、似てるなと思った」
「恭介さんのこと、知ってるんですか?」
「うん。彼が学生のころからね」
「へぇ」
午前中、女将に紹介された彼は経理担当の簗瀬さん。
歳は恭介さんより少し上らしく、流浪葉でもう二十年近く働いているいわゆるレジェンドらしい。
「ずっと姿見てなかったけど、先週から連泊してくれていてね。今じゃ立派な上得意様だよ」
「そうなんすか?」
「うん。今日も平塚まで仕事だって言ってたかな。書類もあるから清掃も入らないでほしいってことだったし、こっちとしてはまぁ助かるよね」
いくつも並んでいるテーブルには、俺たちのように早めの昼を取っている人たちが多い。
同じ柄の着物を着込んでいたり、俺たちのようにワイシャツとスラックスだったり……作務衣だったりと、ユニフォームは様々。
流浪葉自体そこまで部屋数は多くないが、やっぱこう客に見えないところでは本当に多くの人が働いてるんだなと実感する。
「……ね、知らなかったわー。若女将に、あんな大きな娘さんがいたなんて」
「っ……」
対面に座る簗瀬さんと同じく海鮮丼のまかないを半分ほど食べたところで、ちょうど背中から聞こえた言葉に意識が持ってかれた。
「今まで外国に住んでたんですってねー。ほら、午前中お客様へお茶出ししてたじゃない? まぁよく似てるかわいい子だったわ」
「どうりで、女将が最近元気になったと思ったのよ。お孫さんが帰ってきたなんて、嬉しいでしょうね」
いわゆる井戸端話だろうが、がっつり身近なヤツの話。
おかげさまで、女将とも若女将とも知り合いになった今、よもや他人の話とは思えない。
……なるほどね。
そういう扱いになってんのか、アイツ。
今日、8時前に本宅へ着いたものの、俺を迎えてくれたのは女将だけで。
すでに美月さんも葉月も宿にいると聞いてはいたが、アイツはアイツで手伝いと称したバイトをしているらしい。
つっても、恐らくアイツがいるのは表。
俺はほぼほぼバックヤードだったし、それどころか午後は発注の手伝いと言われているので、まず会わないだろうよ。
「でも、殊勝な心がけだね。仕事もあるのに、社会貢献をかねたボランティアなんて」
「……それ、女将が言ったんすか?」
付け合せの味噌汁は、伊勢海老の殻がごろりと入っていてそれはそれはまあうまい。
まかないでこんな料理出るとか、さすがだぜ。
普通に定食屋で食ったら、そこそこの値段するやつ。
「いや、恭介君が触れ回ってたよ」
「げ……」
「甥っ子が他職種の勉強をさせてほしがってるから、好きに使ってくれって」
その文言は一体、どのあたりまで伝わってるんだろうか。
てか、そもそも今日の目的知らされてなかった俺の気持ちはどうしてくれんだろ。
まさか、がっつり朝から普通に働かされるとは思わなかったぜ。
おっしゃるとおり、ボランティアでしかない。
ここで雇用契約結んだら、一発アウトだからな。
「はー……」
「まぁ、若い内にいろんな経験積んでおくといいよ。幅が広がるから」
「がんばります」
ずず、と音を立てて最後のひとくちを飲みきり、完食。
つーか、15時ごろお茶休憩とかねぇのかな。
普段のクセもあって、コーヒー飲みたい口になりそう。
それがダメなら、せめて水。
普段とは違う仕事すぎて、正直身体以上に頭が疲れた。
「てことで、午後は発注と物品確認のやり方教えるから、よろしくね」
「……簗瀬さん、そんなに外部の人間へあれこれ教えていいんすか?」
「え? 定期的に来るんでしょ? うちへ」
「え?」
「え?」
にこやかに告げられた言葉で、さすがに顔を見合わせることになった。
が、どうやら……どころか案の定彼へ伝わっている事実と、俺の把握している事実ですれ違いが生じているらしい。
定期的にって、なんだ。
恐らくは恭介さんが説明したんだろうから確認してみたいが、できない面もある。
あー。
顔を合わせたいような、合わせたくないような、なんとも情けない状態。
今日、彼は外へ出ているらしいし、まぁ会うことはないだろうが……このままでいいはずないのも、もちろんわかってる。
でもな。
どうすりゃいいのかわからないのも、事実。
「期待してるよ」
「っ……がんばります」
にっこり笑って肩を叩かれ、そういわざるを得ない状況ではあった。
「あーー……疲れた」
とっぷりと日の暮れた17時過ぎ。
倉庫のクソ重たいダンボール整理の目途が立ったことで、ようやく解放された。
つか、ほぼ1日立ちっぱなしってすげぇな。
俺とは違い、ほぼほぼ早足で立ち回ってた簗瀬さんの体力は、ハンパねぇと実感した。
「…………」
久しぶりに出た外は、思った以上に風が冷たかった。
日中がどうだったかは、よく知らない。
途中、あの中庭を見かけはしたが、天気はよかったものの気温までは確かめなかった。
さすがにワイシャツ1枚で出てきたのはマズかったな。
とはいえ、荷物は――本宅ではなく、宿。
今回、対価の代わりにと女将は俺へ一室用意してくれた。
てっきり本宅へ泊まらせてもらえるのかと思ったが、そっちは葉月が寝起きしているらしく、当然恭介さんからNGが出たんだろうよ。
つか、恭介さんこそ本宅にいるんだと思ったら、きっちり流浪葉へ金落としてるとはね。
そのあたり、さすがすぎてだからこそ……俺の行為のどれもが線引きできてなくて頭に来たんだろう。
「…………」
本宅のチャイムを押したところで、デカいドアへ寄りかかりそうになった。
あー、ふくらはぎパンパン。
今横になったら、確実にこのまま寝れるなってくらいには疲労感がある。
「おかえりなさい……!」
「ッ……」
パタパタと小走りで駆けて来た音は聞こえていたが、音を立ててドアがスライドされ目が丸くなる。
それこそ、何日ぶりかの姿――であり、初めて見るいでたち。
着物姿の葉月は、俺が渡したあのかんざしで髪をひとつにまとめていた。
「疲れたでしょう? こんな……ごめんね、せっかくのお休みなのに」
申し訳なさそうな顔をしたのを見て、ふと手が伸びる。
室内はぐっと暖かく、後ろ手で扉を閉めると温かい空気が心地よかった。
「たーく……っ」
「……はー」
不思議そうな表情が一瞬見えたが、両手を伸ばし勢いそのままに抱き寄せる。
ふわりと香る甘い匂いに目が閉じ、柔らかさと温かさとでああコレ本物だよなと馬鹿なことを思ったのは疲れてたんだろうな。
「……お前、何かつけてる?」
「えっと……美月さんに、練り香水をもらったの」
「へぇ」
普段とは違うシャンプーの香りかと思ったが、どうやらそんなものがあったらしい。
少しだけ身体を離すと、目が合った葉月は嬉しそうに笑った。
「……どうした?」
何か言いかけたのをやめた気がして訊ねると、いつもしているのと同じように、少しだけ首をかしげる。
普段とは違い、首筋がしっかりと見える今。
色の白い肌が目につき、小さく喉が鳴った。
「お客さんの中にね、たーくんと同じ香水をつけてる人がいると……違うってわかっていても、つい、探しちゃうの」
「っ……」
「私にとってこの香りは、ずっと……たーくんの匂いだったから。だから……嬉しい」
心底からそう思っているかのようにつぶやいた葉月が、擦り寄るように胸元へ頬を寄せる。
たった数日会わなかっただけ。
なのに、まさか自分から欲しがるように抱きしめるなんて、思わなかった。
無意識ってやつなら怖い。
だが、これが本音でもあるんだろう。
「会いたかった」
「……俺もだ」
噛みしめるように囁かれた言葉で、ついうっかり漏れた。
それを意外そうな顔で見られ、バツの悪さから眉が寄る。
「たーくん……」
「…………」
応える代わりに耳元へ手のひらを当て、顔を近づける。
あのときと同じ。
うっかりお袋に見られることになった朝と同じように、やはり先に葉月が目を閉じた。
「はい、そこまでだよ」
「ッ……!」
「まったく。人んちの玄関でいちゃこらしてるんじゃないよ。みっともない」
げ、と漏れた反応は予想通りだったらしく、女将は両手を腰に当てると顎で『上がれ』と示す。
「とりあえず、手を洗っておいで。今度は、ご飯の支度でも手伝ってもらおうかね」
「あー……了解」
どうやらまだ今日の仕事は終わってないらしい。
葉月から手を離してため息をつくと、『早くおし』と今日一日で何度も聞いたセリフを投げられた。
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