「っ……はー、うま……!」
空になったグラスをテーブルに置くと、思った以上にいい音が響いた。
目の前で2杯目を空けた女将は、にやりと笑ってさらにロング缶を開ける。
「タダ飯にタダ酒なんて、いい気なもんだね」
「いや、労働の対価としたら十分じゃないすか?」
「言うね君も」
「あざす」
カリっと揚がった天ぷらに、刺身にもあるアジのつみれ汁。
おかずも豊富とあって、すでに2杯ほど白飯を食べた。
「しかし、意外と器用に包丁使うじゃないか。親御さんの躾がいいんだね」
「うち、親が遅いことザラだったんで、自分の食い扶持は自分でまかなわないと食いっぱぐれるんすよ」
「自立のためには必要なことだよ。それじゃ、今度は調理場へ修行に来な」
「いや、だからなんで労働力カウントなんすか」
天ぷらを塩でもらうと、白身魚だったらしく噛んだ瞬間歯ごたえが変わる。
あー……うまい。やばい、すげぇ食える。
えびの天ぷらもしこたま食べたが、今日一日分の消費エネルギーと考えれば問題ねぇだろ。
「つか、女将に聞きたかったんすけど」
「なんだい」
「恭介さんにも、俺に泊まりにくるよう伝えろって言ったらしいじゃないすか」
元はといえばの元凶にもなった、事実。
恐らくは、アレがなければこんなことにならなかった……が、結果としてはベストだったんだと思いたい。
「言ったけど。それがなんだい?」
「アレ言ったら、恭介さん絶対勘づくでしょ」
「馬鹿だね。勘づかせるために言ったんじゃないか」
「なっ……!」
テーブルへ頬杖をつきながら、女将がにやりと笑う。
あー、だいぶ悪い顔。
だが、その顔を見てああ意図的だったかと把握もした。
「どうせ近いうちにバレるんだから、とっととバラしておいたほうがいいだろうに。事実を隠そうとするから、嘘を重ねなきゃなんないだろう?」
「……そりゃそうすけど」
「先週、葉月を連れて帰ってきたときの瀬那君、見せてやりたかったよ。まぁ近年まれに見る機嫌の悪さだったね」
「っ……」
ほどよく酔ったつもりだったが、からからと笑われて一瞬想像してしまい、さぁっと血の気が引く。
忘れてない。もちろん。
あの恭介さんの顔も、そして……英語でめちゃくちゃ皮肉られたことも。
……はー。
やべぇ、食欲止まる。
いや、さすがにそろそろ止まったほうがいい気もするけど。
「ま、父親の許可がそう簡単に得られるわけないんだよ。いくら嫁を娶ったばかりとはいえ、夫と父親は完全に別の生き物だと思いな」
「あー……はい」
おっしゃるとおりで。
女将の隣に座っている美月さんが、俺を見て小さく苦笑する。
葉月は、ついさっきまで俺の隣に座っていたが、昼間に仕込んだらしい湘南ゴールドのシャーベットを取りに台所へ向かった。
ついでにいうと、残念なことにまだ恭介さんはここにいない。
さっき美月さんへ帰ると連絡が入ったらしいが、なんせ場所は平塚。
電車とはいえそこそこの時間がかかるから、まぁあとちょっとってとこか。
となると、さっさと引き上げるのも身のためかもしれない。
「あ、そうだ。そういや、風呂って普通に入っていいんすか?」
「今日は宿泊客だからね。うちの宿自慢の岩風呂へ入っておいで」
「あー、すげぇ嬉しい。つか、今入ったら寝るかも」
ほろ酔いな上に、今日一日頭も使ったが身体も使った。
疲労回復にも効果がある泉質らしいし、正直嬉しい。
つか、温泉旅館とか久しぶりだな。
まぁ直近の温泉は、ついこの間入らせてもらったこの家の風呂だけど。
「んじゃ、瀬那君と一緒に入ったらいい」
「っ……遠慮します」
酔いがさめるどころか、あったまんねぇじゃん。
うっかり『げ』と言ったのがちょうど戻ってきた葉月にも届いたらしく、目が合ってすぐ苦笑を浮かべた。
「ご馳走様でした」
「ちゃんと歯磨きして寝るんだよ」
「……いや、なんかそのセリフこないだも言われた気がする」
先日と同じく……いや、この間よりはさすがに酔ってなさそうだが、ふらりと立ち上がった足取りはやっぱりおぼつかなかった。
てか、女将って毎日この量飲んでんのか?
元気の秘訣かもしんねーけど、ホント飲めるクチだな。
「明日の朝は7時半までに来な。朝ごはん出してあげるよ」
「まじで。じゃあ、ご馳走になって帰ります」
「何言ってんだい。明日も8時半から仕事だよ」
「……は?」
すっかり目の据わった女将が、じろりと俺を睨んだ。
いや……ちょっと待ってくれ。
つか、え、今のって気のせいじゃないよな?
明日は土曜日。俺は休み。
なのに、まさかのセリフで完全に酔いが醒めた。
「どうせ週末暇なんだろう? 今日と明日、2泊していきな」
「え……いや、ちょ、待った。え? まじで?」
「嘘ついてどうするんだい。簗瀬君も褒めてたよ。これからは月イチと言わずもっと来てくれていいってね」
「いやいやいや!」
こんだけの宿へ2泊できるのは素直に嬉しいものの、ちょ、待った。
なんだよそれ。全然聞いてねぇ。
つか、今日だって別に俺はここへ働きに来るつもりじゃなかった。
なのに丸1日奉仕作業させられた揚げ句、まさかの連日勤務って……まじかよ。嘘だろ。
つか、え? これもひょっとして、恭介さんのお達しなわけ?
「そんなに嬉しそうな顔するんじゃないよ。まぁ、明日の出来高で晩酌にありつけるかどうかってところだね」
「……え、ガチの話で?」
「どうせ暇なんだろう? 付き合いな」
何度となく『暇なんだろ?』と念を押され、改めて問う。
え、俺って暇なの?
つか、2泊したら……日曜も朝から働かされるってこと?
それはなかなかキツいんすけど。
そしたら俺、休みなしで12連勤なんすけど。
完全アウトの、ダメなやつじゃん。
「てことだから、とっとと風呂に入って寝な。ああ、湯上りどころのコーヒー牛乳もうまいけど、どうせなら冷酒をすすめるよ。ワンコインでつまみも付くから、飲んでいきな」
「……あー……はい」
どう言えばいいかわからずうっかり適当な返事になったが、女将はカラカラ笑うと風呂のほうへ消えていった。
のを見て、慌てたように美月さんが追いかける。
だよな。
アレで風呂入ったら、ある意味案件モンだぜ。
「はー……帰る」
「……たーくん、大丈夫?」
「あんまし」
腹はいっぱいだし、そこそこ気持ち的にも満たされたはずなのに、急激に精神力がえぐられた。
朝、起きれねぇ気がする。
非日常は嫌いじゃないが、かといってこんなに続いたらモチベーションに悪影響だぜ。
それこそ、月曜からの日常業務に支障が出るレベルでな。
「……ゆっくり休んでね」
「ああ。……つか、お前もな」
「私は大丈夫だよ?」
「ならいーけど」
立ったまま玄関で靴を履き、同じように降りようとした葉月を止める。
ここでさえ、かなり冷える。
外へ出てまで見送らなくていい。
つか、それこそお前が扉まで見送りに出たら、俺が見えなくなるまで見送りそうじゃん。
ないならいいが、あったら困る想像ゆえの防衛。
「おやすみ」
「ん。おやすみなさい」
小上がりに立っていることもあり、ちょうど目線がほぼ同じ。
いつもとは違い、少しだけ葉月を見上げる形になったが、だからこそキスするのにはちょうどいいなと思いもした。
ガラリ
「っ……」
手を伸ばして引き寄せようとした瞬間、背後で鋭い音がした。
俺が入ってきたとき、こんな音したか?
そこにいるであろう人を想像してしまい、振り返ることなど当然できなかった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
俺の背後へ視線を向けた葉月は、いつものように声をかけた。
あーーっぶね。
うっかりキスしてたら、今ごろ後ろから蹴り倒されていたかもしれない。
「……おかえり」
「お邪魔してます、だろうが」
「ッ……」
振り返ろうとしたら、首が鈍く音を立てた。
それこそ、恭介さんを見るのはあの日以来。
すぐ後ろへ立った彼は、目いっぱい瞳を細めて俺を見下ろしがてら、ち、とあからさまに舌打ちする。
こえぇんすけど。
まるでドラマに出てくる『彼氏を毛嫌いする父親』そのもので、道を空けるべく立ち退いていた。
「孝之君、気をつけてね」
「っ、ご馳走様でした」
声を聞きつけてか美月さんも姿を現したが、恭介さんへ『おかえりなさい』と言う前に俺へ声をかけてくれたことで、恭介さんの機嫌がさらに悪化したのを肌で感じる。
あーーーいなくなるって、だから!
どす黒い何かが渦巻いていそうな恭介さんを極力視界に入れないようにしながら扉を開け、身体を滑り込ませる。
すると、葉月が小さく声をあげた。
「たーくん」
「っ……」
「おやすみなさい」
いつもと同じ、表情。
両手を重ねて握りながら、まっすぐに俺を見つめる。
ンな顔されたら、嬉しい。そりゃあな。
たとえすぐそこで、般若みてぇな顔してる父親がいようとも。
「おやすみ」
小さく手を振り、扉を閉める。
外の空気はかなり冷たかったが、それでも心地よかった。
あー。死ぬかと思った。
ここ最近すっかり感じることのなかった“危機”を目いっぱい肌で感じながら、もしかしてこれって修行か何かなのかともガチで思い始めていた。
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