「…………」
 翌朝、7時ジャスト。
 言われたとおりの時間より少し早いが、健康的な生活を送ったせいかアラームよりも前に目が覚め、結局本宅へも早めに辿り着いた。
 昨日は、帰宅直後の恭介さんに会ったせいでか酔いは皆無だったのもあり、あのまま風呂へ直行。
 予想以上の広さの内湯と露天とで、そりゃ日帰り入浴だけでもそこそこな値段するわけだと納得もした。
 岩風呂に檜湯、今はやりらしい高濃度炭酸泉にシルク風呂。
 いわゆる備えつけのシャンプーもあったが、それとは別で市販の有名メーカーのシャンプーとコンディショナーも備えられており、かなり充実した風呂時間だった。
 いや、さすがだぜ。
 一流温泉旅館、ナメてた。
 うっかり打たせ湯で半分寝そうになったこともあり、逆に風呂を出たら目が冴えて。
 女将おすすめの冷酒だけでなくコーヒー牛乳にご当地ビールまで飲んだついでに、ご当地名物の焼きそばまで平らげた。
 あー、やばい。食いすぎた。
 と反省はしたが、部屋に戻るとおかげさまで寝心地のいい布団がすでに敷かれており、まさに客扱いを受けて逆に感謝するほどだった。
 ……そのあと、普段は見ない深夜のバラエティを見たのにこの元気ってことは、どれが影響してんだろうな。
 とりあえず、それなりに満喫させてはもらったけど。
「…………」
 もしやと思って本宅の扉へ手を伸ばすと、案の定施錠されていなかった。
 いや、ちょっと物騒じゃねぇ?
 とはいえ、昨日恭介さんが帰ってきたときも鍵を開ける音すらなかったし、こっちはまだこれがアリなのかもしんねぇけど。
 チャイム押したほうがいいかとも一瞬思ったが、朝も忙しいだろうしまぁいいだろうと勝手に割愛させてもらう。
 靴を脱ぎ、昨日と同じ部屋へ向かうと、途中で美月さんと会った。
「おはよう。よく眠れた?」
「おかげさまで。五つ星旅館、さすがっすね」
「まあ。ありがとう」
 ふふ、と嬉しそうに笑った彼女は、きびすを変えて俺を昨日と同じ部屋まで案内してくれた。
 ふすまを開けてくれると、席にはすでに座って新聞を読む女将の姿がある。
「おはようございます」
「殊勝な心がけだね。先にあいさつをするようになったところは、褒めてあげるよ」
「そりゃどうも」
 昨日のへべれけ具合が幻だったかのように、女将はにやりと笑う。
 はす向かいの席へあぐらをかいて座り、別の新聞……ではなく急須へ手を伸ばす。
 葉月と美月さんは、恐らく朝食の準備をしているんだろう。
 そっちを手伝ってもいいが、邪魔にもなりかねない。
 茶ぐらいなら淹れられると思ったのと、女将の手元の湯飲みが残り僅かなのが見え、手を伸ばした。
「風呂で浮かなかったかい?」
「感想言える程度には覚えてますって」
「そりゃよかった。きっちり口コミ書いて、知り合いにも宣伝しておくれ」
「対価分は働いときます」
 茶缶を開けると、濃い緑の茶葉が入っていた。
 開けた瞬間からいい匂いがし、そう感じた自分を日本人だなと改めて感じる。
「ッ……」
「おや。今日は早いじゃないか」
 ガラリ、となんの前触れもなくふすまが開き、ばっちり真正面から恭介さんと目が合った。
 俺がいるとは思わなかったらしく、一瞬口を開いたもののまなざしがキツくなると同時に閉口。
 っはー……マジすか。
 まぁ、そりゃ当然といえば当然だろうよ。
 今も昔も、ここは恭介さんのテリトリーなんだろうから。
「おはようございます」
「おはよう」
 きっちり頭を下げると、対面に座った恭介さんは意外にも何も言わなかった。
 机に置いたスマフォ……ではなく手帳を開くと、びっしり書き込まれているページと月予定表とを確認し、スマフォへ何かを打ち込む。
 どうやら今日も仕事らしい。
 って別に、安堵しちゃいねーけど。
「……女将、笑いすぎじゃないすか?」
「なに、朝からこんなおもしろいモノを見せられちゃ、笑うしかないだろうに」
 くっく、と肩を揺らしてまでおかしそうにされ、さすがにバツが悪い。
 そりゃ、ついこの間と全然違うだろうから対比としてはおかしいだろうよ。
 だが、今は何よりも彼の機嫌をこれ以上損ねないことが優先。
 できることなら、多少回復しておきたいってのに。
「ま、せいぜいがんばりな」
「…………」
 お袋とまったく同じことを言われ、ため息をひとつ。
 女将と、新たな湯飲みへ茶を淹れて差し出すと、スマフォを置いた恭介さんは無言で手を伸ばした。
「そうそう。今日は8時15分から宿泊者ミーティングがあるから、8時までに行くよ」
「……は?」
「私が直々に指導してやるってんだ。光栄に思いな」
「いや……あの、いっこ聞いていいすか」
「なんだい」
 自分用に淹れた緑茶をひとくち飲んだところで、なんだかとんでもないセリフが聞こえた。
 湯飲みを持ったまま女将を見るも、平然とした顔で逆に眉が寄る。
「……今日も1日働くんすか?」
「当たり前だろう。何言ってんだい」
「いや……それはこっちが聞きたいんすけど」
 なんでこうなったのか、さっぱりわかんねぇ2日目がスタートしてしまったらしい。
 休みの日にいつもと同じ起床時間とか、すごくねーか。
 少なくとも先週は、もっと違う時間軸を過ごしていた。
 ……そして、まさに1週間前は恭介さんもこんなんじゃなかった。
 ほんと、1分先の未来わかんねぇもんだな。
「不満か?」
「っ……」
 湯飲みを持ったままの恭介さんと目が合い、ごくりと喉が鳴る。
「一宿一飯の対価は労働でしかるべきだろう」
「……え、逆じゃねぇの? 労働の対価に……って、あーなんか堂々巡りくせぇ」
 なんで今こうなってるのかは、さっぱりわからない。
 が、どうやら今日も目いっぱいコキ使われるのが決まってるらしいから、おとなしくしとくぜ。もういいや別に。
 ああ、そうだよ。どうせ暇だし。
 湯飲みを置くと、ついため息が漏れた。
「あ、たーくん。おはよう」
「はよ」
 顔を上げると、昨日とは違う色の着物を身につけた葉月がふすまを開けた。
 すでに見慣れたおひつを持ち、目が合うと柔らかく笑う。
 かと思えば、すぐに美月さんも姿を見せた。
「ふふ。こんなにたくさんでご飯を食べるのは、久しぶりね」
「朝からよく食べる客がいると、米の減りが早いよ」
「……え、俺?」
 膝をついたふたりによって、テーブルへ並べられていく小鉢や椀。
 うちとは違い、常備菜を含めてほぼ和食の朝食でああ宿っぽいなと妙に納得もした。
「成長期は過ぎたんじゃないのかい」
「いや、女将が食わせるんじゃないすか。昨日も最後、シメの茶漬けを食えって言ったの忘れてないっすよね?」
「ンなこと言ったかい?」
「うわ。その顔、絶対覚えてるやつじゃん」
 大げさに肩をすくめたのを見て、美月さんと葉月が笑った。
 が。
 あーー怖いってだから。
 ふたりが反応すればするほど、対面の人の機嫌が悪くなっていくのがわかる。
 それこそ、視覚的なメーターでもついているかのように。
「ん?」
 箸を並べようとしたところで、葉月が一瞬躊躇した。
 恭介さんの隣に美月さんの箸を揃えたものの……どうやら自分の箸で迷ったらしい。
 ちらりと恭介さんをうかがったのを見て、あーそうか俺な、と把握する。
「あ……」
 葉月が置いてくれた箸ごと末席へ移動し、座り直す。
 すると、角を挟んだすぐここへ葉月が膝をついた。
「たーくんが動いてくれなくて、よかったのに……」
「いや」
 つーか、俺が動かなかったら恭介さんが先になんか言いそうだったし。
 対面の女将が含み笑いをしたのが見え、逆に口がへの字に曲がった。
「ま、せめて朝くらい穏やかに食べようじゃないか」
 誰へ言ったものでもないだろうが、女将がそう言うと恭介さんが腕を組んだのが見えた。

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