「つーか、二度目ましての人間に留守任せるとかどういう神経してんだろうな」
恭介さんと夕飯をご馳走になった、あのときの広いひろい部屋のど真ん中。
あぐらをかきながら天井を見上げると、欄間にほどこされた龍と目が合い、なんとも不思議な気持ちになった。
「きっと、おばあちゃんも美月さんも、たーくんを信用してくれてるんじゃないかな」
「いや、俺じゃなくてお前が一緒だからだろ。絶対」
小さいころ、葉月はこの家で過ごしたという。
恭介さんが風呂など少しずつ手をいれてるみたいだが、だからこそ葉月の思い出になっているようなものは、あえて残しているんだろう。
恭介さんと初めてここを訪れたとき見えた、あの長い廊下の柱にはやはり字が書かれていた。
『和葉 3歳』
あちらへ渡る前の、葉月の名前と年齢と……当時の背丈であろう線が。
「たーくん、お茶飲む?」
「いや、いい。さすがに腹いっぱい」
「もう。あんなにおやつ食べたら、夕飯食べられなくなるんじゃない?」
「どれもうまかった」
テーブルへ頬杖をつくと、葉月が笑った。
いやでも、お前も珍しく食ったじゃん。
羽二重もちの豆大福とか、ひっさしぶりにお目にかかった。
もちもちで、ふわふわで。
少し塩のきいてる餡は、まさに絶妙。
かと思えばどっしりした栗蒸し羊羹は甘さ控えめで、女将が言っていた練りきりは椿を模したものだった。
小さめのどら焼きは、小倉と白餡。
どっちも緑茶によくあった。
「つか、あんだけの量を店で食ったら、相当な額いくだろうな」
「おばあちゃんの、特別なおもてなしだね」
まあ、あんだけ食っといてなんだけど、ひょっとして怒られるかもな、と今になって思った。
あー。
まあ、そうなったら仕方ないから金で解決させてもらう。
さすがに、どんだけ高くても1個が英世1人ってことはねぇだろ。
「…………」
つい数時間前、だ。
この部屋じゃないが、俺たちはそれこそ非日常の中にいた。
つーか、目の前で親子の再会が果たされたのを見るのも初めてなら、人のプロポーズを見たのも初めて。
まさか、恭介さんの一大イベントを目にするとは思わなかったが、人を好きになった結果、あんなふうに“その先”を垣間見ることができて、なんだかひどく不思議な気持ちだった。
……人を好きになる、か。
あの日、恭介さんへぶつけた質問の答えは俺なりに出したつもりだ。
そのおかげで、彼の存在を都合よく意識外へ飛ばしたまま、葉月を引き寄せた。
「葉月は、恭介さんがプロポーズするの見て、なんとも思わないのか?」
「え?」
「ほら、自分の父親だろ? なんかこー……フクザツな気持ちだったりしねぇの?」
仮にの話だが、俺が目の前でお袋が別の男にプロポーズしたとしたら、どんな気持ちになるんだろうかと考えてもみた。
異性の親の求婚。
性格の違いやほかの影響も当然あるだろうが、正直嫌悪にも似た感情がゼロとはいえない。
親である前に、ひとりの女であることが目の前でわかったとき、『いやいやいやちょっと待てよ』と思いそうだった。
だが、俺の場合はずっと両親が揃っていることが当然デカいだろう。
ひとり親でずっと過ごしてきたのを見ていたら、葉月と同じようにやはり幸せになってほしいと思うかもしれない。
苦労を間近で見たぶん、楽になってほしいと願うのかもしれないが、やっぱり俺には仮説でも出せなかった。
「んー……どうなのかな。私の場合は、お父さんに幸せになってほしい気持ちのほうが強くて……たーくんにも叱られちゃうかもしれないけど、やっぱり、私のせいでできなかったこともあったと思うから」
「まあ……そう思いそうだけどな。お前は特に」
「それに、美月さんは私をずっと育ててくれた人でしょう? 私にとってお母さんそのものだから……そんな人とお父さんが一緒になってくれることは、それこそ、家族が元に戻ったみたいで嬉しいほうが強いかな」
「……ふぅん」
家族が元に戻る、か。
今回のことは特に、そういう意味合いが強いかもしれない。
元々葉月を育てた人と、その妹と結婚したことで戸籍上の父親になった恭介さんと。
お互い接点は当然のようにあったわけで、葉月を通じての縁そのものなんだなと思うと不思議でもあり、こいつの存在がふたりにとってどれほど大きいかもわかる気がした。
「……人を好きになるって、とってもすてきだと思うの」
両手で湯飲みを包んでから、葉月が俺を見つめた。
「あのときも言ったけど、好きになった人に振り向いてもらえるって、とても特別でしょう?」
「そうか?」
「そうだよ。だって……私だって、ずっと好きだった人とふたりで出かけられるとき、今でも特別な気持ちになるから」
ずっと好きだった人。
目を見て改めてそう口にした葉月は、少しはにかんだように笑う。
「好きな人と出かけることが特別でもあるし……なんていうのかな」
ふと視線を逸らした葉月が、俺を見てそっと手を伸ばした。
ひたり、と指先が腕に触れ、そっと撫でるように手を置く。
その様を見ていたら、目が合った途端、気恥ずかしそうに笑った。
「こんなふうに触ることを許してもらえるようになるなんて、私にとってはありえないことだったんだよ」
確かに、葉月が俺へ触れることはなかった。
11月の試験のとき、数年ぶりに会ったとはいえ、俺は当たり前に葉月へ手を伸ばした。
感覚としては、どうしてもコイツが小さかったころと同じで。
頭を撫でたり、手を引いたりは、小さいころからの延長と考えてもいたせいか、まったく躊躇しなかった。
だから――あの年末の日。
頬へ触れたときに見せた葉月の困ったような表情で、ああそうか、と我に返った。
「たーくんは、私が気持ちを伝えてもそうでなくても、いつも私に触ってくれたけど、あれは例外っていうか……特別すぎると思うの。それに、今までそんな人は周りにいなかったから、私はとても驚いたんだよ」
「けど、向こうでもスキンシップとかあるだろ?」
「あるけど、男の子が女の子へ触ることはないよ。逆もあんまりないかな。だって、勘違いするでしょう?」
「……勘違い?」
「えっと……向こうではね、相手へ自分の気持ちを伝えて了解を取った上で付き合うような形はあまり取らないの。言葉にはしないけれど、デートをするようになって……触るのを許されるようになってっていうように、新密度が上がっていくことで、事実的に付き合っている状態になることが多いから」
「へぇ」
文化の違いといえばそうだろうが、どちらかというと、そのほうが合理的であるとも思える。
好きだからそばにいたくなるし、手を伸ばしたくなる。
キスだってセックスだって、その延長みたいなもんだしな。
気持ちが向いてる相手だから、欲しくなる。
……なるほど。
そういう意味でいえば、『好きです付き合ってください』から始まる日本の文化は、保守的というか礼節やしきたりを重んじる国民性ってのが残ってるのかもな。
「だから、好きな人と一緒にいられる時間が増えればいいけれど、逆になることも当然あるの。そうなると、脈がなかったっていうか……ああ、合わなかったんだな、って……」
ひとしきり喋っていた葉月が、俺を見て唇を結んだ。
俺が何も言わないから、ではなさそうだ。
頬杖をついたままの俺を見て、少しだけ首をかしげる。
「たーくんは、どうして私へあんなに触ってくれたの?」
「あんなにってほど、触ってたか?」
「えっと……年末に買い物へ出かけたとき、話したでしょう? 私は……ね、たーくんに触られるのは嬉しかったの。それは本当」
「でも、その割にあンときのお前、すげぇ困った顔してたろ。てっきり嫌なんだと思った」
「もう。それは違うって言ったでしょう? 私が嫌なのは、ああやって触ってくれるのが……ほかの人にも当たり前だったら嫌だなって、思ったから……で」
わずかに眉を寄せた葉月は、最後のほうで言葉を消した。
かと思えば、一度視線を外してから、改めてまっすぐに見つめる。
決意じみた表情。
ああ、そうだな。
お前はそうやって、いつだって自分の想いを直接相手へぶつけてくる強さを持ってる。
「たーくん、あのね? 今までいろんな人に触れてきただろうし、たくさんの人とお付き合いしてきたのは知ってる。だけど……あまりにも躊躇なく触られると、ほかの人にも普段からそうなのかな、とか考えて……ごめんね、嫌な気持ちにさせるかもしれないんだけど……」
俺へ触れたままの手を、葉月がそっと離した。
意思のある表情。
いい顔するよな、とがらにもなく思った。
「私へするのと同じように、たーくんがほかの人へ触るんだとしたら……嫌なの」
背を伸ばして座り直した葉月は、テーブルへ乗せたままだった俺の手へ両手を重ねるように触れた。
「私だけ、なんて言葉はおこがましいような気もするけれど……でも、ね? 触るって特別な行為でしょう? 確かめるみたいで。だから……」
「肩も腕もなるべく触らないし、触られないようにはしてるけどな」
「え?」
「せいぜい何度呼んでも反応ないとか、逆に俺が声出せない状態でもなきゃ、敢えて触ることはしねーぞ」
男女問わず、スキンシップというよりかは単純に背中やら腕やら手やらを叩かれるように触られることはある。
さすがにベタベタ握られることはないが、接触が長引く時点でさりげなく払うようにはしている。
気持ちの問題、なんだろうけどな。
ああ、そうだよ。
人へするのは俺の気分の問題で自由にやらかしてるが、逆も当然こっちの気分で判断するからな。
「前も言ったけど、俺が羽織や野上さんへベタベタ触ってンの見たことあるか? あんま触られること自体好きじゃねーし、そばに寄るのもそんな好きじゃない」
「それは……」
「学生ンときは男同士でも絡んでくるヤツ多かったけど、それもな。なんかこー、暑苦しいじゃん。例外的な意味で言えば、ペットは可。アイツらは許す」
「ふふ。たーくん、動物好きだもんね」
「手触りが違うだろ? なんかこー、柔らかくて気持ちい……」
そこまで言って、ふと気づいた。
手触り。
ああなるほど。そうか。ふぅん。なるほどね。
だから手を伸ばしたんだな。
目に入るとつい、お前の髪へ、頬へ。
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