「いらっしゃい、葉月ちゃん。お会いできて嬉しいわ」
「あ……」
「私は、郷中美月。あなたのお母さんの姉だから……伯母さんね」
 ふふ、と口元に手を当てて笑った美月さんは、にっこり笑うと俺へも頭を下げた。
「孝之君、来てくれてありがとう」
「いや、俺は何も……」
「冬瀬から車で来たんでしょう? 混んでなかった?」
「今日はまだ空いてるほうじゃないすかね。大して渋滞もなかったし」
「それならよかった。さあ、こんなところじゃなくて……お茶でもいかが?」
 美月さんは笑顔を絶やさず、ゆっくりと話した。
 だが、まるでその笑顔が防衛に見える。
 それどころか……気のせいじゃないなら、先週会ったときとまるで雰囲気が違っていた。
 ある種の覚悟を越えたようで、反応すべてが作り物のように感じる。
 ……俺を見て恭介さんと勘違いしたときは、間違いなく彼女の素の反応だった。
 柔らかい反応はあのときと同じなのに、イコールじゃない。
 俺でもそれがわかるんだから、機微を詠む葉月ならもっと感じているはずだ。
「あのっ……美月さん」
「なあに?」
 中庭を横切るように進む彼女は、俺たちが通った道とは違うルートで建物へ戻ると、あのときと同じくSTAFF ONLYの札が下がる廊下へ向かった。
 マスターキーを取り出したのは、あのときと同じドアを開くため。
 だが、長い廊下の途中で、葉月は彼女の背中へ先に声を掛けた。

「父からは、あなたが私の母だと聞いています」

「っ……」
「私を育ててくださったのはあなただと……違いますか?」
 葉月が足を止めたこともあってか、美月さんはゆっくり振り返った。
 先ほどとは違い、少しだけ戸惑ったような表情が浮かんでいる。
 だが、それは一瞬のことで、彼女はどこか儚げに笑うとゆっくり首を振った。
「正確には少し違うわ。だって……私たちはあなたを預かっていただけなの。母と……あなたのおばあちゃんと一緒に、小さいころのお世話をしたわ。でもそれは、あなたのお母さんがお仕事で忙しかったからなの」
「っ……」
「寝る間もなく仕事が詰まっていたと言っていたわ。本当は、かわいい盛りだもの一緒にいたかっただろうに、それができなかったの。だから離れていただけで……育てたなんて、そんなふうに言ったら、美和が悲しむわ」
 美月さんの言葉が正しいのかどうか、俺にはわからない。
 だが、葉月にとってある種の期待を抱いたのは確かだったろう。
 見た目もそうなら、雰囲気もそう。
 葉月が覚えている光景を俺は見れないが、葉月には何か核心めいたものがあったはずなんだ。
「そう、ですよね」
 ぽつりと、まるで漏れるような反応は、どこか寂しげで。
 葉月は視線を落としたまま、小さく笑みを浮かべた。
「でも、私があなたの伯母であることに違いはないの。だから、いつでも顔を見せにきて? ね?」
「ありがとうございます」
 葉月は、笑顔で感謝を口にするとわずかに頭を下げた。
 だが、その手前。
 一瞬だけ。ほんの一瞬、俯いていた葉月を見て美月さんが眉を寄せた。
 その表情だけは、今までのものとは異なり、素の反応そのもの。
 ……どういうことだ。何が起きてる。
 先日の彼女と、今の彼女と、あまりにも違いが多すぎて、どういうことなのか判断がつかない。
 少なくとも、目の前で起きているものは俺が知っていることと違うのは確か。
 だが、恭介さんもいない場所で俺がひけらかすわけにもいかず、言葉を飲み込む。
「……たーくん」
「ばあちゃんに会うんだろ?」
「ん。そうだね」
 先を歩き始めた美月さんを見てから、葉月の背中へ手を当てて促す。
 車の中で不安を感じていたときよりも、もっとずっと憔悴しているように見えるのが納得いかない。
 どうしたらいい。
 それこそ、俺にできることはなんだ。
 あの日の夜と同じ、本宅へ繋がる機械仕掛けのドアを見ながら、眉が寄った。

「え、ちょ……どういうこと?」
「何がだ」
「いや、何がってそのまま! 恭介さんが引き取るまで葉月を育てたって……だって、郷中美和の連れ子が葉月なんじゃねぇの!?」
 あの夜、あまりにもきっぱりと『俺が引き取るまでずっと葉月を育てた人だ』と美月さんを紹介された俺は、当然混乱した。
「ほう。お前は葉月のことを、なんて聞いて育った?」
「いや、単純に……恭介さんが郷中美和の再婚相手だったけど、アイツが育児放り出したから親権を取ったって聞いたんだけど」
 郷中美和が葉月の母親だと知ったのは、中学になったころ。
 今ではバラエティからドラマ、映画までこなすベテラン女優として知られているが、昔はモデルとしてスタートしたとお袋からは聞いている。
 葉月が知らない葉月のことを聞かされて当然疑問は多々あったものの、お袋も親父も、たったそれしか俺には教えてくれなかった。
 葉月が家にきたときのことを、俺は覚えている。
 当時、俺はすでに小学生。
 きっと、葉月はあの夜を覚えていないだろうが、俺にとっては不思議だったし疑問だったし、どういうことなのかさっぱりわからなかったのに、誰も何も教えてはくれなかった。
 結婚する前に子どもがいるのもアリだし、両親そろってない家もあることは知っていた。当然だ。
 ガキだった俺の周りにも、いろんな家庭環境のやつがいた。
 でも、今までまったく会ったこともなければ恭介さん自身からも聞かされてなかったのに、ある日突然『俺の娘だ』と紹介されても、意味がわからなかった。
 羽織はすぐに信じて受け入れていたし、親父もお袋も当たり前のように迎えていたから、取り残されたのは俺だけ。
 だが、その疑問を直接恭介さんへぶつけたからか、彼は『みんなには内緒の話だから、絶対口外するな』と約束させられたうえで、『血の繋がりはないが、結婚の形を取ったことで俺の娘になったんだ』と教えてくれた。
 きっといくらでも誤魔化せたろうに、彼はそれをしなかった。
 むしろ、『お前は賢いな』と褒めてくれたのが嬉しく、だが同時にこの約束は絶対に誰にも言ってはいけないんだと“絶対”を初めて意識もした。
 葉月と恭介さんがオーストラリアへ渡り、数年経ったとき。
 それこそ、自分の進路選択云々ってのと絡め『葉月のホントの両親ってどこにいる?』とお袋へ聞くと、たまたまテレビに映っていた郷中美和を指してこう言った。

 『この人が母親だって言ったら、信じる?』と。

 ふざけてるにしても、もっと違うはぐらかし方があるだろと思ったが、表情と声色で違う気がした。
 そのあと2、3くり返した質問への答えは、恐らく事実だろう。
 だが、葉月が恭介さんとウチへきたあの夜までどこで暮らしていたとか、恭介さんがいつ郷中美和と結婚したんだとか聞いても、『ルナちゃんは郷中美和の連れ子で、恭介君と再婚したけど親権を彼が得ただけ』と繰り返され、同時に『これはアンタ以外知らないんだから絶対しゃべるな』ときつく注意もされた。
「はは、さすがだな。雪江さんは、本当に信頼に足る人だよ」
「いや、でも俺はずっともやもやしてたんだぜ? 大学生だった恭介さんが急に葉月連れてきて『俺の子だ』とか言うし。そもそもいつ結婚したって話じゃん」
「それは大人の都合ってやつだからな。紙一枚でどうにでもなる」
「……そういうこと?」
 中学生じゃない今もはぐらかされるということは、言うつもりがないんだろうな。
 葉月が知らなきゃいけない部分だからというのもあるだろうが、恐らく葉月にも伝えるつもりがないんだろう。
 俺は一部も知らないが、当然恭介さんはすべて知ってる。そして、恐らくは親父とお袋も。
 本宅への暗い夜道を歩きながら彼へ駆け寄ると、見えてきた大きな門を見て『懐かしいな』と小さくもらした。
「葉月と初めて会ったのは、あの子が2歳になる手前だった」
 コツ、と門扉に敷かれている一枚岩がいい音を鳴らす。
「俺は当時、住み込みでバイトをしていたんだ。この流浪葉でな」
「……あ。あー! それでか!」
「ん?」
「いや、学生だった途中からさ、俺たちが休みなのに恭介さんウチからいなくなったじゃん。いつもは日中いなくても夜帰ってきたのに。それって、ここにいたってこと?」
 思い返してみれば、いつのころからか恭介さんがぱったり家から姿を消すようになった。
 お袋に聞くと『住み込みでバイトに行ってるわよ』とは聞かされていたが、まさかここで葉月に会っていたなんて微塵も知らなかった。
「美和は実家に葉月を預けたまま、ほとんど帰ってこなかった。その代わり、女将と……美月さんがあの子をずっと育ててくれたんだ」
「それって……ガチの育児放棄じゃん」
「もちろん、美和にとっては言い分はあったろうが、俺も同じことを思ったよ。実際、住み込みで働いていた俺の目にも、生活のすべてを美月さんが担っていたのは確かだからな。夜寝かしつけてもいたし、昼寝のときにぐずって美月さんを探しに旅館のほうまで来てしまったこともあった」
 2歳の葉月を、俺は知らない。
 俺が初めてアイツと会ったのは、5歳になる年だったから。
「……あの子はずっと、この家で育ったんだ」
 デカい門から続く日本庭園のど真ん中に敷かれている、石畳。
 整然と並ぶそこを踏みしめながら辿り着いたのは、同じくデカい引き戸が構えられているいかにも由緒ありそうな平屋の家だった。
 
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