「それで? 葉月はどうして、私が拒んでると思ったんだい」
 先日もきた、本宅のいちばん奥にある女将の座敷。
 詰めるように5人で座ると、さすがに手狭な感じはしたが、居心地は悪くない。
「……9月に、父に会わせたい人がいると聞きました」
「手紙にも書いてあったね。少なくとも、この中には私への想いがしっかり詰まってるように感じたよ。だから、私も会ってみたいと思ったんだ。これだけの想いがあるなら、きっとあんたは何を聞いても、ちゃんと進んでいけると思ったからね」
「え……?」
「春から、七ヶ瀬へ通うんだってね。おめでとう」
「ご存知だったんですね。ありがとうございます」
 俺たちへ出したものよりも、ひと回り以上デカい湯のみをかたむけながら、女将がうなずく。
 てか、それって寿司屋とかで見るサイズなんだけど。
 ちなみに、席へついてから女将はすでに2杯ほど茶を飲み干している。
「私が会うのを控えようと思ったのは、あんたの環境が大きく変わりすぎて、負担になることを心配したからだよ」
「え……」
「会いたくなかったわけじゃない。今まで瀬那君とふたりで生きてきたのに、突然ばあさんだの伯母さんだのが出てきたら、頭がついていけないんじゃないかと思ってね。それで、もう少し先延ばしにしようかって話をしていたんだ」
 あんたが考えてたこととは違うんだよ。
 女将は、静かにそう付け加えると葉月へ笑った。
「そのせいで、逆に不安にさせたんだね。ごめんよ」
「っ……そんな、あの、私が勘違いしただけなんです。……すみません」
「何言ってんだい。というか、そもそも瀬那君がいけないんじゃないのかい? 君は言葉が足りなすぎる」
「……すみません」
「もっとよく反省おし」
 葉月へ向けていた顔とは違い、恭介さんへはあきらかに呆れた顔を見せた。
 ああ、叱られてる恭介さんを見るのもオツ……いや、なかなか新しいもんだな。
 まず見れない姿なだけあってか、俺と同じように葉月も意外そうに苦笑する。
「それじゃ、どうして私が葉月の入学を知ってたのかっていう、種明かしをしようね」
「え?」
「まったく、葉月のお父さんは意外とまめなんだと感心するよ」
「意外って言葉は心外です」
「褒めたじゃないか」
「もっとストレートに褒めていただきたい」
 恭介さんの言葉に女将は肩をすくめてみせると、近くにあった茶箪笥(ちゃだんす)から風呂敷に包まれた物を取り出した。
 紐解かれた中から出てきたのは、まさにぶ厚い冊子。
「……あっ」
「これは、つい最近だね」
「はい……!」
 1番上に置かれていた白い台紙の表紙をめくると、そこには今の葉月と大差ない顔立ちの葉月と恭介さんが映っていた。
「先月の、シニアの卒業式の写真なの」
「へぇ。どうりで今と変わんねぇと思った」
 ドレス姿で学位を手にしている葉月と、スーツ姿の恭介さん。
 遠くに映っているほかの連中は、どちらかというとラフな格好をしているように見えて少し意外だ。
「こういうところは、まめだね。君は」
「ですから、どうしてひとこと多いんですか」
 相変わらず目の前で繰り広げられているやり取りは、さながらコント。
 だが、おかげで葉月が少しずつ笑顔になってきており、ああもしかしなくてもふたりの作戦なんだろうなとは思った。
「わ……懐かしい」
「この写真、ウチにもあったな」
「そうなの?」
「ああ。お袋に聞けば、どっかから出してくるぞ」
 かなり小さいころ……それこそ、小学校くらいか?
 幼い顔立ちの葉月が、やはり少し若い恭介さんと並んで映っている。
 恐らくは卒業式。
 いわゆる、外国の卒業式で見かける黒を基調とした学位帽とコートを羽織っており、手には先ほどの写真と同じく証書のようなものがある。
「すごい……こんなにたくさん」
「写真だけじゃないよ。……これは覚えてるかい?」
「っ……これ……!」
 台紙つきの写真の次に出てきたのは、いろとりどりの封筒だった。
 赤、緑、青、オレンジ。
 目にも鮮やかな色にあふれているが、すべてがいわゆる“エアメール”の書式でつづられている点では共通。
 だが、葉月にはしっかり記憶にあるらしく、恭介さんを見ると『どうして』と小さく口にもした。
「……これ、クリスマスカードなの」
「クリスマスカード?」
「うん。小さいころから……ええと、向こうへ行った年から、ずっと……毎年“おばあちゃんに書こう”って、お父さんが……」
 女将が差し出した赤い封筒を受け取ると、葉月が俺を見ながら中身を取り出した。
 まさにクリスマスカードそのもの。
 と、どうやらあっちの家のリビングとおぼしき、クリスマスツリーの装飾とプレゼントの箱の前で笑っている、幼いころの葉月の写真も封入されていた。
「騙してたわけじゃないが……すまなかったな。毎年お前が書いてくれたカードはすべて、ウチのお袋ではなく女将宛てだったんだ」
「……そうだったんだね」
「ウチのお袋よりも、よっぽど葉月からの手紙を喜んでくれる相手だからな。どうしても、書いてほしかったんだ」
 すまない。
 小さく謝罪したのを見てか、葉月は慌てたように首を振る。
 何十通とある封筒の字が少しずつ整っていく様は、まさに成長の記録そのものに見えた。
「これだけ見せたら、私がおばあちゃんだって信じてもらえるかい?」
「っ……そんな! ごめんなさい、疑うつもりなんてなくて……」
「わかってるさ。でも、それならどうして急に、会うことを不安に思ったんだい。手紙には、早く会いたい気持ちがいっぱい詰まっていたから、私はてっきり再会したら抱きついてくれるんじゃないかと期待してたのに」
 静かに女将が切り出すと、葉月は両手を重ねたまま視線を落とした。
 まるで、どう言えばいいのか考えあぐねているようにも見える。
 が、葉月よりも先に恭介さんが口を開いた。
「葉月。おばあちゃんへ手紙を書いたのはどうしてだ?」
「それは……」
「話せるか?」
 まっすぐに葉月を見つめた恭介さんの言葉を受けて、葉月が小さくうなずいた。
 先ほどとは違う、迷いこそあれど何かを決めた顔。
 そう。
 恭介さんは、どうしても葉月へ本当のことを伝えたくて、何度も女将を説得しに通ったんだから。

「私がその手紙を書いたのは、『おばあちゃんと、育ててくれたお母さんが日本で待ってる』と言われたからです」

 葉月が口を閉じた瞬間、俺たちの斜めうしろへ座している、美月さんがひくりと身体を震わせた。
 誰も何も言わない。
 それでも、きっとわかっているはず。
 ただひとり……美月さんに背を向けている、葉月以外は。
「おばあちゃんが湯河原にいると聞きました。そして……そこにある“流浪葉”という旅館で、私が育ったとも聞きました」
「っ……それは」
「お父さん、ごめんなさい。私……ずっと聞きたかったのに、聞けなくて……」
「なくしたと思ったら、葉月が持ってたのか。……ならよかった。てっきり、何かの拍子に落としてしまったんだとばかり思ってたよ」
「ごめんなさい」
「どうして謝るんだ。お前が真ん中に映ってるんだから、所有権は葉月にある」
 葉月が、ボストンバッグから手帳を取り出し、中から1枚の紙を抜いた。
 ひらりと置かれたのは、少しだけ色褪せた写真。
 それは、来たときにも目に入った、“流浪葉”の看板でもあるあの一枚岩の前で撮られたらしく、幼い葉月の両脇に女将と美月さんがおり、後ろに若かりしころの恭介さんが映っていた。
「私の実母が女優だということは、幼いときに聞きました。けれど、その人とは別に、幼いころからずっと私を育ててくださった方がいると……その人こそ、私の本当の母なんだと、父から聞いています」
「…………」
「美月さん……じゃないんですか? この写真に写っているのは、あなたですよね?」
 葉月は、女将ではなく身体ごと振り返って美月さんを見つめた。
 だが、彼女は視線を交わすことなく、膝の上で組んだままの両手へ視線を落としている。
 何も言わず、表情を変えず。
 それこそ……思いつめているかのように。
「葉月ちゃん。さっきも言ったけれど……あなたのお母さんは、美和よ。あの子は、忙しい中一生懸命にあなたを育てたの」
「な……」
「この旅館から日々東京まで通って、食事も、お風呂も……そう、あの子は一身にあなたをお世話したのよ」
「……美月さん」
「恭介君、勘違いしたのね。ほら、あなた大学がお休みのときにしかいなかったでしょう? それで……普段の美和と会えなかったから。ね? そうでしょう?」
 先ほどの話とまったく同じセリフを口にしたのを見て、恭介さんが眉を寄せた。
 どういうことだ、と。
 まさに彼とて思いもしなかった展開なんだろうな。
「美和は、あなたをとても大切にしていたのよ。どんなに遅くなっても、必ず一緒にご飯を食べるんだって言って、現場が遠くなっても必ずここへ帰って来たんだから」
 彼女には笑みがある。
 ……そう。
 あのときと同じ、“違う”と感じさせるような笑みが。
 それは恭介さんもわかっているようで、彼は改めて大きなため息をついたが、女将は何も言わず美月さんをただ見つめていた。

「あんたなんかいらないって……私に言った人がですか?」

「え……」
「……私……わからないんです。どれが本当で、どれが夢なのか」
 葉月が母親へそう言われたのは、幼稚園のころ。
 俺たちと一緒に暮らし始めた年だった。
 俺とてうろ覚えになりつつある、過去の記憶。
 もっとずっと幼かった葉月にとっては、ツラい記憶だからこそバラバラのピースになっていてもおかしくはない。
「はっきりと覚えていないのが、とても悔しいんです。どうしてちゃんと覚えてないんだろう、って……でも、でも私、小さいころここで過ごしていたと思うんです」
 そう言って葉月は、先ほど通ってきた廊下のほうへ視線を向けた。
「あの……さっき通った廊下を、当時の私はとても長く感じていました。よく遊んでいましたよね?」
「…………」
「いつも奥から着物の人が私を呼ぶんです。走っていくと、とてもいい香りがして……でも、それは彼女の香りなのか、ごはんのものか、ちゃんと覚えてなくて。……でも、いつだって一緒にご飯を食べて、歌をうたってくれて……折り紙をして。あの、さっきのお社へおいなりさんをあげて。断片的でしかないけれど、私、覚えてるんです」
 美月さんは何も言わない。
 だが、表情はあの笑顔ではなく……どこか困惑したような顔つきになっていた。
 そう。
 恭介さんと一緒に宿をたずねたとき、久しぶりに会ったというあのときのような。
「だけど、幼稚園のあのとき、私を迎えに来たお母さんは違った。痛いくらいに手を引いて、なのに立ち止まってくれなくて……『あんたなんかいらない』って、言って……」
「な……っ」
「私、優しかった母と拒んだ母が、同じ人だとは思いたくないんです。だって、記憶にいる母はいつも優しかった。いつも笑顔で、温かくて……大好きだった。なのに……っ……その人が私を拒絶したんだとしたら、私のせいでしょう?」
 今でも思い出すであろう、当時の記憶。
 葉月にとってそれは、間違いなく傷でありできるかぎり思い出したくないもののはず。
 そのせいか、美月さんへぶつけた言葉の最後は、涙とともに滲んで消えた。
「私、わからないんです。あのとき私が何をしたんだろう、って。あんなに優しくて、怒られた記憶なんて一度もない母にそこまでの言葉を言わせたなんて……どんなことを言ったんだろう、って。私のせいでそんなふうに変わってしまったんだとしたら、覚えてなきゃいけなかったのに……!」
「それは……」
「桜のお茶碗と箸置きは、あなたが使うのよって……目印ねって言って、どんなものにも桜をあしらってくれたのは、誰なんですか?」
「っ……」
「お茶をこぼしてしまったのに、叱らずに私がやけどをしなかったことで安堵してくれたのは……どっちのお母さんなんですか?」
 ぽたぽたと涙がこぼれ、葉月は口元へ手を当てた。
 小さく嗚咽が漏れ、肩が震える。
「ふ……」
 ハンカチを差し出しながら背中をさすると、葉月はうつむいてから俺へもたれた。
 誰も何も言わない。
 美月さんは、ぎゅっと両手を握り締めたまま視線を落としている。
 だが、湯飲みをかたむけた女将は、小さく息を吐くと恭介さんと同じように腕を組んだ。
「美月。あんたの負けだね」
「っ……お母さん!」
「これだけ覚えてるんだよ? いい加減認めておやり」
「だけど……っ」
「美月さん」
「っ……」
「俺は、葉月が望んだから今日ここに来た。俺がしてやりたいのは、この子がしあわせになることだ。……なのにどうしてこんなことをする?」
 腕を組んだまま、恭介さんが彼女を見つめた。
 先ほどまでの険しい表情ではなく、どこか不安げなまなざし。
 恭介さんらしくないのが彼女にもわかったらしく、美月さんは唇を噛んで視線を外した。
「美月さんのことは、『俺と暮らすようになるまで、ずっと育ててくれた人』だと伝えてきた。あなたがうなずいてくれなければ、俺はとんだ嘘つきになる」
「……っ……」
 静かな声だった。
 諭すような……いや。
 どちらかというと、あやすような。
 決して責める色は見えず、そのせいか美月さんは恭介さんへ戸惑いがちに目を合わせる。
「だって……私にはそんな権利ないのに……っ」
「……美月さん」
「恭介君のことも……葉月のことも。私にとってあなたたちは、大切な人なの」
 ぽつりと漏れた言葉が、少しだけ潤んで聞こえた。
 口元へ手を当てて彼女の、頬を涙が伝う。
 それを見て葉月は、さらに涙をこぼした。
「だからこそ……っ……今さら私が……手を伸ばすわけにいかなかった」
 まさに、吐露そのもの。
 恭介さんと葉月をそれぞれ見つめた彼女は、声を詰まらせると首を振った。

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