「……夕飯が、1番の思い出なの」
「夕飯?」
「うん。……小さいころの話、ね」
 いつだったか、葉月が俺にそう言った。
 朝食や昼食は人並みに食べているのに、アイツは普段あまり夕食を口にしない。
 近所から大量の赤飯のおすそわけがあったとき、お袋に『聞くな』と言われていたことをうっかり忘れて、『食わねーの?』と口にしたときのこと。
 葉月は、ぽつりぽつりと昔を思い出すように、少しだけ困ったように笑った。
「小さいころって言ってもね、正直詳しく覚えてはいないから……もしかしたら、お父さんと会う前かもしれないし、はっきりと顔を覚えているわけじゃないから、ひょっとしたら、私の勘違いでお父さんなのかもしれないんだけど」
「…………」
「……もしかしたら、夢で見てたのかな。私にとって『お母さん』の思い出は、夕飯なの。テーブルいっぱいにね、並んでるの。作ってくれた、いろんなおかずが」
 そんなはず、ないのにね。
 そう呟いて視線を落とした葉月は、寂しそうに笑った。
 ああ、しまったなと思ったのは数年ぶり。
 痛烈にやらかした感じがあって、『悪い』と思わず口にした。
 が、当然のように葉月は笑って『たーくんのせいじゃないでしょう?』と言ったからこそ、逆につらかった。
 余計なことした、と後悔した。
 夢。
 それは、幼い葉月の願望だったのかもしれない。
 周りの人間は、食事を家族全員でとる。
 だが、葉月はそうじゃなくて。
 俺や羽織や……そして親父とお袋に、恭介さん。
 当時だって十分人数はいた。
 が、葉月にとっては、1番いてほしい人間がいつも足りなかったんだろう。
 願いなのか、夢なのかは、俺にはわからなかった。
 だが、目の前の美月さんの反応からして、現実だったんだとわかり、そこが素直に安心した。
「……私はずっと、陰でよかった……」
「っ……」
「だって、あの子の代わりにずっと私は幸せだったんだもの。だから……これ以上望んじゃいけないのよ。私が勝手に幸せになるわけにはいかないの……っ」
 まっすぐに葉月を見つめた美月さんが、涙をこぼした。
 さっきまでとは――いや、それこそ、今日初めて見た彼女の感情のあろう顔。
 唇をつぐみ、先ほどの葉月と同じように口元へ手を当てる。
「『まま』って、呼んでくれたことがあるのよ。こんな私のこと」
「っ……」
「でもね、『そうじゃないだろう、ねぇねって呼ぶんだよ』って訂正されたとき、ああそうだったって思い直したの」
「……美月」
 それはそれは優しい顔で、美月さんが葉月を見つめた。
 だが、驚いたように女将が彼女を呼ぶ。
 ひょっとしなくても、こんなふうに美月さんが思っていたことを知らなかったんだろう。
 何かを言いかけたのを見て、美月さんは女将へゆっくりと首を振った。
「私は、小さいころからみんなと同じ当たり前の生活ができなかった。身体も弱くて、みんなと同じようにできなくて……特別なものを何も持っていなくて。お母さんにも、姉さんにも、美和にも……ずっと迷惑ばかりかけて……なんにも恩返しできなかった」
「…………」
「だから、誰かの役に立てるならって、私にできることならなんでもしようって思って……その結果、みんなを不幸にしてしまったの」
 たもとから真っ白いハンカチを取り出した彼女は、静かに目元を押さえた。
 だが、もうひとり。
 彼女をまっすぐ見つめていた、女将も同じようにハンカチを取り出す。
「毎日あなたといるのが楽しかった」
「っ……」
「昨日できなかったことが、今日できるようになっていくのを見れることが、嬉しかった」
 葉月を見て、美月さんは柔らかく笑った。
 ああ、この顔はあのときと同じ。
 俺を見て、恭介さんを思い浮かべたときと同じだ。
 ひどく儚げで、とても優しくて。
 葉月にも似ている、笑顔。
「恭介君があなたのお父さんになってくれるってわかったとき、私は本当に嬉しかったの」
 美月さんが、恭介さんへ向き直った。
 恭介さんと美月さんが、いつから知り合いなのかは聞いていない。
 だが、彼がずっとここで働いていたんだとしたら、かなり前からの知り合いなんだろう。
「ずっと、手を離さなきゃいけないってわかってた。私はただあなたを預かっているだけで、私がお腹を痛めて生んだ子じゃないんだからって……でも、でも……っ……具合の悪いときに私を呼んで、悲しいときに抱っこをせがんでっ……そんなあなたを、手離せるはずなくて……っ」
「……ふ……」
「だけど、私が欲しがるわけにいかなかった……! あなたには本当のお母さんがいて、もっと幸せになるためには私じゃだめだってわかっていたから……っ」
「み、つきさ……」
「こんな日が来たらいけないって……私が応えるわけにいかないってずっと思ってたのに……まさか、あなたが私に会いに来てくれる日がくるなんて思わなかったの」
「っ……」
「私なんかにとらわれないで、あなたにはあなたの人生を歩んでほしかった」
 まっすぐに葉月が彼女を見つめながら、ぼろぼろと涙をこぼした。
 小さいころと違って、再会してから葉月が泣くことはなかった。
 昨日こそが、俺にとっては久しぶりだった。
 だが、今ようやく葉月にとっては対面できたんだろう。
 小さいころからずっと願ってやまなかった、大切な母親と。
「ごめんなさい。あなたを傷つけて……っ……ごめんね、葉月」
「ッ……!」
「こんな私を……覚えていてくれて、ありがとう」
 膝で立った彼女が、ゆっくりと葉月を抱きしめた。

 おかあさん。

 涙ながらに葉月が口にした言葉で、美月さんがもう一度『ごめんね』とつぶやいた。
 ……ああ、やっと言えたな。
 すがりつくように彼女へ抱きついている葉月を見ながら、笑みが漏れる。
 葉月はいつだってしっかりしていて、やけに大人びていて。
 こっちが勝手に抱いたイメージのせいで、年相応に振る舞えなかったこともあっただろう。
 本当は、かわいいものが大好きで、甘えんぼうで、誰よりも子どもで。
 見えている部分と、本質とはまるで違う。
 まるで――小さな女の子そのもの。
 身体も心も成長していくのに、根っこの部分がアイツの中には残っていて。
 無意識が強い寝起きや寝入りばなに、やけに子どもっぼくなるなるのはそのせいなんだろう。
「わぁっ……」
 声をあげて泣くのを見て、恭介さんが女将を見やった。
 彼女もまた、ハンカチを目元に当てている。
 きっと、思うことはたくさんあるだろう。
 葉月と同じように、美月さんもまたいろいろなものを背負いすぎていて、さらけ出せなかったんだから。
 いつもにこにこしていて、誰かのためにならと自分を犠牲にして。
 そんなところは似なくていいのに、それこそ親子そのものだと感じた。
 泣けばいい。全部の感情さらけ出して、ちゃんと泣け。
 葉月はきっと、今まで本当の自分を押し込めて生きてきたんだから。
 自分でも気付かない、無意識の内に。
 ……だが、それも今日で変わる。
 すべてを知り、やっと本当のことに辿り着けた今、アイツはようやく傷ついたままの幼い自分と向き合えるだろう。
「あんたがそんなふうに思っていたなんて……ちっとも知らなかった」
 美月さんが、葉月の涙をぬぐってやったことで、ふたりが顔を見合わせて笑った。
 まるでそのときを待っていたかのように、女将がふたりへ向き直る。
「申し訳ない」
「っ……お母さん……」
 両手を畳へ揃えたあと、女将が深く頭を下げた。
 慌てたように美月さんが声を上げ、首を振る。
 だが、姿勢を正した女将は、とてもつらそうに眉を寄せた。
「美月が自分のしあわせを歩めなかったのは、私のせいだろう? ごめんよ」
「……そんなことない……っ……! あなたがいたから、今の私があるの。お母さんがいなかったら……私は今、こんなに幸せになってないんだから」
 そう言うと、美月さんは葉月を見てから改めて抱き寄せた。
 そして、葉月もまた、女将へ顔を向ける。
「おばあちゃんがいてくれたから……こうして今日、私と会ってくれたから……だから、おばあちゃんのおかげでしょう? 本当にありがとう」
「っ……」
「あなたと会えたことを、心から感謝します」
 潤んだままの目元ながらも、葉月がにっこりと笑った。
 『ままじゃない』
 女将は女将で、美月さんを思いやったゆえのセリフだっただろう。
 だが、その言葉を彼女は望んでいなかっただけ。
 母になりたかった人と、枷を背負わせたくなかった人同士の、誤謬でしかない。
 今日があって、本当によかったんだな。
 こうしてすべてが明るみになったことで、どちらのわだかまりも溶けたんだから。
「…………」
 ああ、お前本当に強いんだな。
 ……いや、強くなった、のか。
 小さいころからたくさん傷ついて、そのたびにずっと乗り越えて。
 ようやく真実に辿り着いて、大切な人に受け入れてもらった今だから。
「どうですか、女将。うちのひとり娘は、世界で一番のあなたの孫でしょう?」
「……さっきから褒めてるじゃないか。本当に君は、大したヤツだよ」
 盛大にはなをかんだ女将は、勢いよく恭介さんの背中を叩いた。
 それこそ、あたりに響き渡る強烈な音。
 さすがの彼も想像だにしなかったのか、畳へ両手をついて顔を伏せた。
「……ああ、3人とも、同じ顔してるよ」
「っ……」
「葉月も瀬那君も……美月も。みんなおんなじ顔だ。そっくりだよ」
「お母さん……」
「どこに行っても、親子だってすぐわかる」
「……おばあちゃ……っ」
 それぞれを見ながら、女将が笑った。
 葉月をまっすぐに見てうなずいた女将は、優しさそのものが溢れている笑顔で、じわりとわずかに胸の奥が熱くなる。
 親子。
 ありふれたようなその響きも、葉月にとっては特別であるに違いない。
 絆そのものを表す言葉。
 決して、当たり前ではない。
「……ん」
 女将を見て、うなずいた葉月。
 そこには、先ほどまでとは違う心底嬉しそうな笑みと、ある種の自信のようなモノが纏わりついているように見えた。

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