「ありがとう、恭介君」
「……いや。礼を言うのは俺のほうだ。あなたがあなたでいてくれて、よかった」
 真っ白いハンカチで目元を拭った美月さんが、葉月と同じような笑みを恭介さんに向けた。
 ……似てるな、確かに。
 葉月が笑った顔と、よく。
 雰囲気がとても似ていて、つい無意識のうちに葉月とダブるところを幾つか見つけていた。
「こんなふうに会わせてもらえるなんて……私、本当に幸せ者ね」
「どうしても俺は、もう一度あなたと女将に葉月を会わせたかった。1番大切で1番成長する時期に、本当の愛情を注いでくれたんだから」
 首を緩く振った彼が、葉月の肩へ手を置いた。
 恭介さんと、美月さん。
 そして、その間にいる葉月。
 ああ、なるほど。こんなにもしっくりくるんだな。
 初めて3人そろったところを見たが、まったく違和感なく当たり前の“家族”に見えた。
「…………」
 ……親子か。
 ふと、自分の身に置き換えて考えてしまい、らしくなさから頭を掻く。
 普段、特に意識したりしなかった親。
 当たり前だったし、感謝なんて改めてしたことはない。
 ……でもま、今に今は無理だよな。
 恐らく、自分が親になって初めて、理解も気づくこともあるんだろうから。
「大きくなったとき、自分の意思で会いに行けるようにしたかった。……俺の我侭だからな。一緒に暮らしたいと思ったのも、オーストラリアへ渡ったのも」
 いつしか、恭介さんの目線が美月さんから葉月へと移っていた。
 笑みはある。
 だが――……どこか、表情に申し訳なさがあるように思えた。
「ごめんな、葉月」
「っ……」
「お前は、俺じゃなくて美月さんたちと一緒にいたほうが幸せだったかもしれない」
「そんなっ……! なん……」
「――でも、俺は幸せだよ。お前とずっと一緒に暮らせて。生きてこれて。不甲斐ない面もたくさんあったろう。……でも、俺はお前が娘になってくれて本当に嬉しかった」
「っ……お父さ……」
「これからも、ずっと。お前は俺の娘だし、俺はお前の父親だから。……そう言えることが、俺の誇りだ」
 じわり、と恭介さんを見ていた葉月の目元に新たな涙が滲んだ。
 だが、さっきとは違い、今度は慌てて涙を拭う。

「なんと言っても、俺が唯一自慢できる娘だからな」

 くしゃりと葉月の頭を撫でた恭介さんを見て、葉月は嬉しそうに笑った。
 それはそれは、心底嬉しそうに。
「私だって、自慢なんだから」
「……ん?」
「お父さんのことも、お父さんの娘でいられる私のことも。……本当にそう思ってるんだから」
 ふふ、といつものように笑った葉月を見て、恭介さんが少しだけ照れたように笑った。
 父親の顔。
 まさに、それ。
 ……俺には滅多にどころか、欠片も見せたことのない顔だ。
「私の理想のお父さんなんだからね」
「それを言ったら、お前だって俺の理想だぞ。……だから、やれん。簡単な男にはな」
「っ……げ」
 そこで、なぜか彼の鋭い眼差しが俺に向けられた。
 今の今まで葉月に見せていた、甘ったるい溶けそうな眼差しとは180度違う。
 斬る。
 ヤられる。
 そんな敵意剥き出しの目に、口元がひくつく。
「っわ」
「この子は俺の理想そのものに育ってくれた。それこそ、手塩にかけて大事に大事に今まで育てて来たんだぞ。……なのに、一番大事な時期に、ろくでもない奴らがうろうろしている日本の大学へ行かせるなんて……俺は心配でたまらないんだ」
「いや……それ、俺に言われても……」
「元日にも言っただろう! いいか? この子はお前のテリトリーに毎日いるんだ。邪魔な虫は、見つけ次第抹殺しろ。わかったな!」
「さすがに俺、仕事あるし……四六時中見張ってらんねぇけど」
「そこをどうにかするのがお前の仕事だろう!」
「ンな無茶な」
 ぐい、と葉月の肩へ後ろから腕を回して引き寄せた彼が、俺に身体ごと向き直った。
 まるで、その姿は葉月が人質に取られているように見えて、正直シャレにならない。
 つーか、元日にそんな話……したな、そういや。
 あー。
 あーーー。
 あーーーやべぇ、忘れてた。
 つか、そんなのすっかり吹っ飛んでたっつの。
「…………」
 ごくり。
 思わず喉を鳴らして葉月を見つめると、意図がわかったのかわかってないのか知らないが、苦笑を浮かべた。
 うっわやべ。どうしよ。
 そんなこと忘れて、とっくに葉月へ手も口も出したっつの。
「いいな、孝之。必ず葉月を守れよ。わかったな?」
「…………」
「返事はどうした」
「ぅ……善処する」
「そこは、はいと即答だろう!」
 嘘もつけない。が、無碍にもできない。
 思わず視線が逸れたのは、俺の中の小さな良心の呵責か。
 とりあえず……黙っとくのが吉だと思う。
 何よりも、俺の身の安全のためにも。
「何言ってるんだい。この子ほど、君にそっくりの子はいないだろうに」
「っ……女将!」
「大事な大事なかわいい娘だから、自分にもっとも似てる人間とくっ付けたほうが幸せじゃないか」
 ず、と両手で持った湯のみから茶をすすった女将が、ため息混じりに呟いた。
 途端、どこからか小さく『う』と聞こえたような気がしないでもない。
「それはそれは、とてもよく似ているよ。ここまで似るなんて、身内でも珍しいんじゃないかい? まぁ、娘ってのは父親に似た人間を連れてくるって言うけれど……それにしても瓜ふたつだね」
「っ……女将! コイツは甥っ子で、葉月のそういう相手じゃないですってば!!」
「何言ってんだい、こんな所まで連れて来てこの子の全部を聞かせておいて」
「葉月を守るうえで、聞かせておかなければならない最低限の部分です。それに、葉月をひとりでこさせるわけにはいきません」
「……相変わらず、娘のこととなると人が変わるね」
「当たり前でしょう。俺の人生そのものですよ?」
「いい加減、子離れおし」
「いくら女将の頼みでも、それは難しいですね」
 胸を張って正々堂々と論破していく恭介さんを見て、改めてデカすぎる壁にぶち当たったことを意識する。
 あー、やべぇ。
 つか、さすがに恭介さんへ言える気がしねぇんだけど。
 目の前で続いている『娘の彼氏論』を聞きながら、軽く眩暈がした。
 いや、むしろ首が絞まった気がして息が詰まる。
 確かに、女将のセリフには若干うなずける部分があり、恭介さんが俺をどれだけ信頼してくれているかはわかっている。
 俺は、葉月のそばにいるからここに連れて来てもらえた。
 それは、間違いない。
 黙っていればわからないまますぎたであろうことを、彼はわざわざ俺に話してくれた。
 恐らく、ずっと葉月に話そうと考えていたからなんだろうが……それでも。
 俺にまで話してくれる必要は、ある意味ないんだから。
 知らなければいけないのは、当事者である葉月のみ。
 ……それでも。
 こうして俺をここに来させてくれたのは、葉月のそばにいることを許してくれているからだとは思っている。
「それにしても、呆れるね。こないだも言ったけど、どうせ君をおいてさっさと嫁に行くんだから、今のうちに離れておきなと言ってるんだ」
「ですから! あのときも言いましたが、まだ嫁に行かせるつもりはありませんよ!」
「そんなこと言ってると、駆け落ちされるよ?」
「ッ……お言葉ですが、そんなことされた日には真っ先に女将を疑いますからね」
「なんで私なんだい」
「葉月をそそのかすのは女将くらいしか思いつきません」
「くだらないこと言ってないで、いい加減冷静におなり」
 まったく。
 やれやれとばかりに肩をすくめた女将を見て、葉月も美月さんも顔を見合わせて笑った。
 俺にとっては普段の“なんでもデキる恭介さん”と違い、だいぶイメージからほど遠いズレた父親にしか見えないが、葉月にとっては通常運転なんだろう。
 美月さんが知ってるかどうかはさだかじゃないが……でもまあ、会ってなかったとはいえ付き合い長いなら、間違いなくこんなふうにしゃべってるのを知ってるんだろうな。
 女将もさんざん口にしてそうだし。
 涙ではなく、ようやくふたりに笑顔が浮かんだのを見て、気づくとつられるように俺も笑っていた。

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