「なあ、葉月。もうひとり、どうしてもお前に会ってもらいたい人がいるんだ」
「え?」
 すっかり涙が消えたのを見てか、恭介さんが姿勢を正した。
 だが、女将も美月さんもそれは知らなかったらしく、不思議そうに顔を見合わせる。
 俺は――知らない。
 が、なんとなくわかってはいた。
 まだ、たった1週間しか経っていないあの日の夜。
 ほかの誰もが知らない彼の本音を、直接俺は聞いてるんだから。
「11月の試験から戻ったお前に、おばあちゃんと美月さんの話をしたとき……言ってくれたよな? 『私はお父さんに幸せになってほしいんだ』と」
「もちろん。だって……ううん、私が幸せなのはお父さんがそばにいてくれるからでしょう? だから……私だけじゃだめなの。お父さんが、ちゃんと自分の人生を肯定的に歩んでくれなきゃ」
「あのとき、俺はお前がいれば十分だと言ったが……お前はなんて言ってくれた?」
 恭介さんは、柔らかい眼差しで葉月を見つめた。
 視線を一度外した葉月が――少しだけくすぐったそうに笑う。
 俺は……いや、俺たちは知らない。
 そのとき、どんな会話がこの親子にあったのかを。

「『お父さんには、好きな人はいないの?』って聞いたんじゃなかった?」

「っ……」
 葉月は、とても穏やかな顔で恭介さんを見つめた。
 好きな人。
 あまりにもここ最近よく聞く言葉すぎて、思わず反応する。
「“お父さんには”って言われて、お前にそういう人がいるんだなってわかったよ」
「だって……もう18歳だよ? お父さんが私と同い年のとき、誰かを好きになったでしょう?」
「そうだな」
 さすがに、当時の恭介さんの恋愛が、葉月が言うほどきらきらしたものかどうかは、俺にもわからない。
 だが、苦笑しているあたりからして、正直なところは伝えないらしいとはわかる。
「私は……人を好きになるって、とてもすてきなことだと思うの。だって、その人と出会えたことが、そもそも奇跡でしょう? 世界中どこを探しても、ほかにいない。そんな、世界でたったひとりの人に出会えて、好きになって……その人に振り向いてもらえたら、こんなに特別なことはないと思う」
 葉月は俺を見てはいない。
 だが、まるで自分へ言い聞かせているかのように、ひとことひとことを大切そうにつぶやいた。
「あのとき、きちんと答えられなかった。ずっと黙っててごめんな。正直、反則だと思うよ」
「どうして? こうして今、話してくれてるじゃない。私は、お父さんが幸せになってくれることが嬉しいんだよ。……お父さんが私の幸せを望んでくれるのと同じなんだから」
 苦笑交じりに首を振った恭介さんを、葉月が笑った。
 と同時に、美月さんへ『美月さんもそう思うでしょう?』と問い、彼女が少しだけ困ったように笑う。
 美月さんは、気づいたんだろう。
 恭介さんが何を言おうとしているのか。
 この先の展開を。
 だが、女将は何も言わずに恭介さんを黙って見つめていた。

「俺にはずっと、片思いしている人がいるんだ」

「えっ!? そんな……ねえ、お父さん。どうしてもっと早く教えてくれなかったの? そんな方がいらっしゃったなら、私だってきちんとご挨拶したかったのに!」
「本当はもっと早く紹介したかったよ。でもな、ずっと断られ続けたんだ。何度気持ちを伝えても『うん』とは言ってもらえなかった」
「っ……」
 恭介さんは、まっすぐに葉月を見ている。
 だが、当然美月さんの反応はわかっているだろう。
 当の彼女は、彼を見つめたまま唇を噛む。
「そんな……っ……どうして? 信じられない。だって、こんな……私にとって世界で一番の人なのに」
「はは。そうやって褒めてくれるのは、葉月だけなんだろうな。俺には魅力がないんだろう。不甲斐ないよ」
「そんなことない! みんな、お父さんのこと褒めてる……ううん、いつだってカッコいいって言ってくれてるじゃない」
「なるほど。若い子にはそう見てもらえるのか。案外悪くないものだな」
「っ……もう、お父さん!」
 まんざらでもない顔をしたのを見て、葉月が少しだけ眉を寄せる。
 本人にとっては、冗談じゃ済まない話だろう。
 自分の父親が好きな人にずっとフラれ続けていると知ったら、娘としては切ない面があるのかもしれない。
「もう、何年も会ってもらえてなかった。だから、もしかしたら俺の知らないうちに結婚されているかもしれない」
「そんな……!」
「でも、それならそれでいいんだよ。彼女が幸せならそれでいい。たとえ俺じゃないヤツだろうと、彼女が選んでそばにいたいと思った人がいるなら、それで十分だと思ってる」
 恭介さんは、心底そう思っているように笑った。
 だが、葉月を見た途端、苦笑を浮かべて手を伸ばす。
 ふわり、というよりももう少し強く頭を撫で、顔を覗きこんだ。
「どうしてお前が泣くんだ」
「だって……ねえ、だって……! どうしよう。もしかして、お父さんを選んでくれなかったのは私のせい……? 私が――」
「それは違う。お前のせいじゃない」
「でも……っ」
「俺に魅力がなかっただけだと、さっきも言っただろう? 振り向いてもらえるための何かが、俺には足りなかったんだろうな」
 美月さんを見てはいないが、彼女は恭介さんをまっすぐに見つめていた。
 涙ぐんだ葉月の背中を支え、だが何も言葉を発さずに。
「私、その人に会いに行きたい」
「っ……」
「会って、お父さんの話を聞いてほしい」
 葉月は、涙を拭うとまるであのとき見せたかのような、凛としたまなざしを向けた。
 意見を、想いを、はっきりと相手へ伝えるときの姿勢そのもの。
 自分の父を誇りだと言い切った、つい先日と同じ姿だ。
「私……私は、お父さんにも幸せになってほしいの。だって、私はずっと幸せだったんだよ? これまでだって、何度もわがままを言って困らせて……なのに、こうして七ヶ瀬へ通うことだって許してもらえた。伯父さんにも伯母さんにも……たーくんにも、私、こんなに大切にしてもらえてるのに……なのに、お父さんが好きな人に想いを伝えられないなんて、そんなの嫌」
「……お前は本当にいい子に育ったな」
「だって……! お父さんの大切な人なら、私にとっても大切な人でしょう? ねえ、私からもお父さんのことを伝えさせて。こんなにすてきな人はいないって、その人にわかってもらいたい。たとえ違う人生を歩んでいたとしても……想いを伝えるのは、いけないことじゃないよね?」
 もしも葉月が逆の立場だったら、これだけの強さを見せられただろうか。
 ……いや。
 葉月はきっと、伝えずに身を引くほうを選ぶだろう。
 それこそ……クリスマスのあの夜。
 俺へ気持ちを伝えたあと、二度と口にしなかったように。
 相手がいるから、大切な人のためだから、これだけ後押ししようと思うんだろうな。
 いつだって自分じゃなく、誰かのために動いてきたヤツだから。
「じゃあ、俺と一緒にその人へ会ってくれるか?」
「もちろん! 私にできることなら、どんなことでもさせて」
 すっかり涙は引き、葉月はとても真剣なまなざしをしていた。
 今なら本当に、どんなところへも飛んでいきそうだな。
 ……さあ、あとはどうするんだか。
 このまま見ていていいのか、それとも葉月を連れてそっと出たほうがいいのか。
 それとも――いや、きっと恭介さんは最初から俺たちを証人にさせるため、あえてこうしているんだろう。
 誰にも、文句を言わせないために。

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