「この金網の向こう側がね、高校なの」
「……え、全部?」
「うん」
「まじか。公園かもしくはスタジアムだと思った」
 トラム沿いにずっと走っていた金網の向こう側には、青々とした芝生がずっと広がっている。
 広い敷地にある建物も、日本とは違って何階建てということはなく、高くても3階まで。
 でも、ほとんどの教室は平屋で、どちらかというと横に長いかもしれない。
「……しかし、規模がデカいな」
「そうだね。日本の高校とは違って……日本でいう大学みたいな感じかもしれない。校舎もたくさんあるし、敷地内は私も端から端まで歩いて移動したことはないかな」
「さすがは大陸」
「もう。たーくんたら、すぐそれなんだから」
「実際そうだろ? なんかこー……規模がデカいせいか、いろいろ規格がでかくて緩いっつーか。おおざっぱ」
「ふふ。確かに日本とは違うよね。日本は、なんでもきっちりしてるっていうか……真面目、かな」
「お前もそーだろ」
「もう。前にも言ったけれど、私はそんなに真面目じゃないよ?」
「お前がンなこと言ったら、大多数の人間はだいぶ弾かれンぞ」
 最後のひと口を食べきったところで、たーくんがカップを手にワゴンまで戻っていった。
 大きなゴミ箱へまとめて捨て、改めてこちらに……戻ってきた、のに。
「っ……」
 その、すぐ後ろ。
 彼ごしに目が合った人を見て、思わず目が丸くなった。
 たーくんは……気づいた、よね。
 私を見て、意外そうなというよりも、いぶかしげな顔をしたから。
「Luna」
「…………」
 笑顔ではない、どちらかというと困惑に近い表情で名前を呼ばれ、思わず同じような表情になってしまったのを、たーくんにも見られた。
 ……このタイミングで会わなくてもいいのに。
 先月、きちんとさよならを伝えた人とこんな形で再会するなんて、想像もしなかった。
「っ……たーくん」
「紹介してくれなくていいし、訳さなくていい」
「え……?」
「目の前で見りゃ、十分伝わるだろ?」
 視線を落とした瞬間、彼ではなくたーくんが私の手を取った。
 ……だけでなく、まるでかばうように私を一歩下がらせる。
「I wanted to talk with you again(どうしても君ともう一度話したかった)」
「……ジャック……」
「As I have told you time and time again,I need your kindness(いつも言ってきたけれど、僕には君のあたたかさが必要なんだ)」
 彼は、たーくんを一瞥したものの、無視するように私へ話しかけた。
 たーくんよりも背が高いことがあっての行為なんだろうけれど、やっぱりそれは私にとって嬉しくないことで。
 ましてや、これまでだって何度も話はしたし伝えてきた。
 ……お父さんがいたら、こんなふうに言ってこなかったはず。
 彼はいつだって、私がひとりでいるときを見つけて声を掛けてきていた。
「っ……」
「誰の女だと思ってんだ。ちったぁわきまえろ」
「……たーくん……」
「それとも何か? 目の前でキスしてやれば十分伝わるか?」
 彼は、私を見てはいない。
 代わりにそちらへ手のひらを差し出し、“これ以上来るな”と言わんばかりの態度で示す。
 手は繋いだまま。
 ……ううん。
 肘を曲げて背中へ回したことで、身体ごとたーくんの後ろへ動いた。
「お前は選ばれなかったんだろ? だったらこれ以上接触するのはやめろ」
「あ……えっと、You……」
「だから、訳すなって。俺はコイツに言ってるんじゃない。お前に言ってンだから」
「え?」
 首だけで振り返ると、たーくんが小さく舌打ちした。
 ……いいの?
 まったく躊躇ないセリフだけど、まず間違いなく相手には伝わっていない。
 だけど……私の、ため?
 意外なセリフで、目が丸くなった。
「お前が聞いてりゃそれでいい。どうせ言ったところで聞きわけいいヤツじゃねぇだろ?」
「……たーくん……」
 察するチカラは、きっと私以上にある人だし、英語の表現も十分わかっているはず。
 なのにあえて日本語のみで伝えたのは、彼としての意図があるんだろう。
 ……そうだよね。
 たーくんの気持ちは、十分すぎるほど私には伝わっている。
「I'm sorry」
 首を振り、ジャックへ改めて意思を伝える。
 今、私のそばにはたーくんがいてくれるの。
 ……私が選んだ人が、私を選んでくれた。
 これ以上の喜びは、今のところ見当たらない。
「Take care of yourself(身体に気をつけてね)」
 笑顔ではないけれど、気持ちは伝わるように。
 きっと、もう二度と会えないだろうとは思うし、そのつもりで先月話もした。
 あなたのそばにいるべき人は、私じゃない。
 新たな季節や出会いがすでに始まっているからこそ、前を向いてほしかった。
「っあ……」
「もういいだろ」
 すい、と手を引いてあちらへ向かされ、かかとが鳴った。
 たーくんは、前だけを見ている。
 横顔からじゃ判断はできないけれど……あまりいい気持ちじゃない、かな。
「え?」
 なんて思っていたら、ふいに目が合った。
「お前さ、怒ることあんの?」
 意外な質問に、思わずまばたく。
 怒ること。
 それは……一般的な意味で、だよね?
「えっと……この間、怒ったでしょう?」
「は? いつ」
「んー……ヨシ君のときとか。あとは……ゴミの分別のときかな」
「……あれ、怒ってたのか?」
「もう。伝わってなかったの?」
 意外そうなどころか、少しだけ呆れたようにため息をつかれ、なんとも言いようがない。
 こうなる前の、ある意味大切な日でもあったお正月のとき。
 たーくんは……そういえば、どうしてあの日はあんなに頑なだったんだろう。
 普段ならまず考えられない行動だっただけに、そういえば今まで聞いてなかった。
「ねぇ、たーくん。あの日、どうしてヨシ君にあんな態度取ったの?」
「あんなって失礼だぞ」
「だって……珍しいなって思ったの。たーくんが構ってあげないなんて、らしくないっていうか」
 彼はいつでも、人に対して敬意を払っているように感じてはいる。
 年下であればなおさら、それこそお父さんがたーくんへ接するのと同じように、たーくんもまたかわいがるというか……大切にしていた。
 だから、あんなふうに部屋に戻ってしまうことも意外ならば、口を利かなかったのも意外。
 私がこれまで見てこなかった姿で、意外というよりもなぜそんな態度を取るのか理解できなかった。
「……まぁいろいろあンだよ」
「いろいろって?」
「内緒」
「……もう」
 肩をすくめた彼をしばらく見つめてはみたののの、どうやら教えてくれないらしい。
 気になるけれど……でも、こうなるとたーくんは本当に教えてくれないもんね。
 ……もう少しだけ時間が必要なのかな。
 いつになるかわからないけれど、機会があったらまた聞いてみたいなとは思う。
「さっきのヤツだけじゃなくて、なんかこー……それこそ学校行ってたら楽しいことだけじゃなくて、ヤなこともあるだろ?」
「それは……うん」
「だから、そういうとき。お前は応戦すんのかなって、単なる疑問」
 フェンス沿いに歩いていくと、かっちりした門が見えてきた。
 もう、何年も通っていた場所。
 今はすでに新しい生徒たちが学び始めているだろうけれど、今日はお休みなので門は閉まっている。
「日本人のいいところは、現地の英語の悪口をなかったことにできることだなって思うの」
「……何?」
「小学校に入ってすぐくらいのときにね、友達に言われた言葉がわからなくて、お父さんに聞いたことがあるの。……そうしたら、とっても恐い顔して……次の日、直接その子へ注意したことがあったんだよ」
 今でも鮮やかに覚えている、光景。
 その小学校は日本人の子もたくさん通っていたけれど、どうやらそれをおもしろく思ってなかったグループの子がいたみたいで、あからさまに意地悪をされたことがあった。
 聞こえるようにいろんな言葉を投げられて、でも私にはほとんどわからなくて。
 廊下で聞いていた先生が代わりに叱ってくれたことがあるけれど、必ず『気にしなくていいのよ。あなたは悪くないんだから』と言われることが、なんとなく腑に落ちなくて。
 それでお父さんに聞いてみたものの、あれは失敗だったなと今でも反省している。
 にこにこしながら聞いてくれていたのに、あからさまに態度が変わったんだから。
 ……あのときは、もう学校が終わっていたのに、先生へ伝えに行こうとするんだもん。
 私のために動いてくれようとすることはとても嬉しかったけれど、違う気がすると止めることができたのはきっと正解だったんだろう。
「……さすが恭介さん」
「でも、そのとききっと私も驚いたんだと思うの。そんなつもりで聞いたんじゃなかったから。だから、それからはわからない言葉があっても、自分で調べるようになって……覚えた言葉が増えたんだと思うよ」
 それまではずっと、わからないことはお父さんに教えてもらっていた。
 でも、それだけじゃ間に合わないってわかっていたのに、つい頼ってばかりで……私もいけなかったんだよね。
 買ってもらった電子辞書で、スペルもわからないけれど打ち込みながら覚えたから、日本語と同じで英語にもスペルに規則性があることがわかった。
 “やりたい”気持ちって、本当に大切で人の原動力になるんだなと思う。

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