「あー、これが噂のヤツか。確かにすげぇうまい」
「だろう? 1杯500円でどうだ」
「……いや、だから。なんでさっきから俺にはワンコイン義務発生してんの?」
 これまでと違って、4人での食事。
 私が小さかったころと違ってお父さんは夕方にはいつも帰宅していたから、シェリーと3人のときもあるけれど、ほとんどもうずっと夕食はふたりきり。
 シェインさんがご夫婦できてくれるとき以外は、こんなふうにこのテーブルへ埋まるほどのお皿が乗ることは少ない。
「土鍋でごはんを炊くと、こんなに甘みが出るのよね。とってもおいしい」
「ほんとそれ。うまい。米が立つってのがさっぱりわかんなかったけど、なるほどなとは思うぜ」
「よかった」
 普段はそれこそ、私とお父さんだけ。
 というより、夜はほとんど私は食べないから、2合炊いても結局あまってしまう。
 でも、今日は3合炊いてもまったく余らなさそうで、ああやっぱり食べてくれる人がいるだけで、こんなにも料理は楽しいんだなと感じた。
「あ、そうだ。葉月、さっき渡したやつって冷蔵庫のどこに入ってる?」
「えっと、扉を開けたすぐのところに……出していいの?」
「サンキュ」
 白身魚のカルパッチョへお箸を伸ばしたところで、たーくんが顔を上げた。
 さっき。
 というか……お部屋から出てリビングに戻ったとき、たーくんは鞄から小さめの箱を取り出した。
 ラベルのまったくない箱だったから中身はわからなかったけれど、『冷やしといて』と頼まれたからそのまま冷蔵庫へ。
 真っ黒い箱。
 だけど、お父さんはそれを見ると『ほぉ』と声を漏らす。
「お父さん知ってるの?」
「久しぶりに見たな。それ、雪江さんとこのだろう?」
「さすが恭介さん」
 にやりと笑った彼が、箱を開けて中から……瓶を取り出した。
 どうやらお酒らしい。
 小さめの日本酒特有の形をしていて、白いラベルには『発泡』の文字も見える。
「あっちじゃ飲ませらんねぇけど。こっちは合法だろ?」
「え?」
「生造りの日本酒。ホントに甘口だから、お前でも飲める」
 小気味いい音を立ててキャップをひねった彼が、空いていたグラスに手を伸ばした。
 透明よりも少しだけ白く濁りのある液体が注がれ、しゅわしゅわと弾ける音がここまで届く。
「卒業したら、飲みに連れてってやるつったろ」
「あ……」
「すっかり遅くなったけどな。おめでとう」
「……ありがとう」
 こちらへ差し出してくれたあと、たーくんはワインが入っていたグラスを飲みきるとそちらへ注いだ。
 ワインとは違う、日本酒のスパーリング。
 かちりとグラスが合わさり、ふとあの湯河原での夜を思い出す。
「ちょっと待て」
「わっ」
 そっと口づけようとした瞬間、お父さんがグラスをつかんだ。
 ……そうでした。
 たーくんだけを見ていたけれど、お父さんとお母さんの目の前だもんね。
 止められて当然だ。
「お前、葉月を連れて飲みに行く約束をしただと? どういう了見だ」
「いや……あれは言葉のあやっつーか……」
「まったく。ひとくちだけにしなさい。お前はそんなに強くないんだから」
「ん。わかりました」
 お父さんとは違い、お母さんはくすくす笑いながらラベルへ手を伸ばした。
 あ、お父さんも飲みたかったのかな。
 見ると、昨日と同じくさも“注げ”と言わんばかりの態度で、たーくんへグラスを傾けている。
「……ん。おいしい」
「だろ? これなら飲めるだろうなと思って」
「日本酒っていうより……もっとフルーティな感じだね」
「あー……これは甘いな」
「飲みやすいから……飲めちゃうお酒ね。ちょっと危ないかしら」
 ふふ、と笑ったお母さんに対してお父さんが『たまには飲めばいい』と笑う。
 何気ない会話だけど、こうして“家族”のひとときが増えていくことはやっぱり嬉しくて。
「……楽しい」
 グラスを傾けながらぽつりと漏れた言葉は、やっぱり私の本音だったと思う。
 共有できることが増えれば、思い出も伴って増えていく。
 ……部屋では過ごせないけれど、リビングでだったらもう少したーくんと話せるかな?
 ほわん、と身体が少しだけ温かくなって、気持ちも緩んだ気はする。
 みんなで食事しながら食べるのは、やっぱり楽しい。
 でもきっと、ここに彼がいてくれるからより一層そう感じるんだろうなとは思うけれど。
「そういえば……どうして今朝、たーくんが隣に寝てたの?」
「は?」
 もうひとくち飲んだところで、ふと今朝を思い出した。
 あのとき、とってもびっくりしたの。
 だって……まさかたーくんがすぐここにいるなんて、思わなかったんだもん。
 まさに素朴な疑問だったんだけど、口にしたあとで……ひょっとしていけなかったのかな、とは思った。
 ほんの少しだけど、お父さんが瞳を細めた気がして。
「あの、えっと……もちろん、私があそこで寝ちゃったのがいけなかったと思うんだけど。でもね? 私、お母さんと話しながら寝るのを楽しみにしてたから」
「そうだったの?」
「うん。だって……特別な感じがするでしょう?」
 ふふ、と笑いながら彼女を見ると、昨日と同じように柔らかく笑った。
 同じ女性同士だから、聞きたいことも多い。
 教えてほしいこともある。
 それに、きっと笑われてしまうだろうけれど、彼女に触れてもらえることが実はとても嬉しかったの。
 手だけじゃない、頭だけじゃない。
 肩にそっと手を置かれると、それだけで身体から余計な力が抜けたのがわかった。
「昨日、コイツは向こうで寝ろと言ったのに、10分だけとか言いながら横になってしまったんだ。……まったく。お前、最初からそのつもりだっただろう」
「まさか! あれは……いや、マジで急に眠気がきたんだって。つか、お前があまりにも幸せそうに寝るから、うつったんだろ」
「え? 私のせい?」
「なぜ葉月のせいにするんだ」
「いや、だかっ……あー悪かったって。俺が全部」
 たーくんに見られてまばたいたものの、彼は慌てたように首を振るとまるで“降参”するように両手を挙げた。
 でも、眠くなるのは当然だと思う。
 だって昨日は……というか、前夜からの移動距離はとても大変なことになっていて。
 1時間とはいえ時差もあるし、身体は決して休まってないと思う。
「たーくん、早めに休んだら? 明日帰るんでしょう?」
「まぁそうだけど、せっかくだからな。こういう夜はなかなかねぇだろ?」
「それは……うん」
 もちろん、一緒にいてくれることは嬉しい。
 でも、無理はしてほしくない。
 楽しんでもらえるのは嬉しいけれど……でもやっぱり、一緒に過ごせる時間が増えることは、特別だからできるだけ多くと望んでしまうのもいけないかな。
「あ。それじゃあ、今日は一緒に寝る?」
「えっ。いいの?」
「もちろん。眠くならないうちに、ベッドへ行きましょう?」
「ふふ。嬉しい」
 ぽん、と両手を合わせたお母さんにうなずく……ものの、実はもうちょっぴり眠たい。
 だって……その、ね?
 今日はいろいろあったの。
 部屋であんなふうに過ごしたのは初めてだし、その……直接触れられたのも初めて、で。
 ……あんな声を自分が出すなんて、思わなかった。
「っ……」
「どうした?」
「えっ。あ、ううん。なんでもない」
 ふと、扇情的なたーくんの眼差しを思い出してしまい、グラスを持った手が小さく震えた。
 目ざとく見つけられて手を振る……ものの、たーくん、もしかして何か気づいた?
 テーブルへ頬杖をつくと、どこか悪戯っぽいまなざしに変わったから。
「じゃあ、孝之は俺と寝るか」
「げ。なんで」
「……お前、絶対葉月の部屋に行くなよ。ましてや今日は美月もいるからな。なおさらだ」
「いや、さすがにこの状態で手ぇ出さねぇって」
「当たり前だろう!」
 いつもより少しだけ声が大きいけれど、きっとこれは……酔ってるんだよね。
 お母さんを見ると、どうやら同じことを考えたようで、目が合ってすぐ苦笑を見せた。
 ……お父さんもそんなに強くないんだっけ。
 そういうところは似てるなぁと、改めて思ったら少しだけおかしかった。


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