「……あれ?」
 ホテルとは違い、やっぱり家のお風呂は落ち着く。
 流浪葉の広い大浴場も、おばあちゃんの家のお風呂も特別な感じはするけれど、でもやっぱり……こことどこか雰囲気の似ている、たーくんの家のお風呂が好きかな。
 もうじき、離れる場所。
 小さいころからずっと過ごしたこの家とも、きちんとお別れをする日は近づいている。
「たーくん、まだ寝てなかったの?」
「確かにここ、座り心地いいな」
「ふふ。よかった」
 階段を上がっていったら、途中で彼が座っていた。
 だけでなく、本棚へ置いてあった新書を手にしている。
「つか、マネジメントの本多くね?」
「お父さんの趣味なの。でも、おもしろいでしょう? 心理学も絡んでいるし、根拠も示されているから……つい私も一緒になって読んじゃった」
 たーくんは、私よりも先にもうお風呂を済ませている。
 一緒に過ごしてわかったけれど、本当にお風呂が早いのね。
 そういえば伯母さんは、『あれはまさに行水ね』と笑っていたっけ。
「たーくん、お父さんと寝るの?」
「冗談だろ? 朝起きたら首絞まってたらどうすんだよ」
「もう。そんなことしないったら」
 隣へ腰掛けると、それはそれは嫌そうに眉を寄せた。
 でも、お父さんのベッドもかなり大きいから、ふたりで寝たとしても落ちる心配はないと思うけれど。
 それこそ、小学校を卒業する前までは一緒に寝ていたベッド。
 でも、当時私は寝相が悪かったらしく、毎朝のように『お前はいつも真横になってるな』と言われたっけ。
「え?」
「…………」
「……たーくん……?」
 読み終えたらしく、本をぱたんと閉じた彼が私へ手を伸ばした。
 指先が耳元へ触れ、少しだけ冷たい感触が心地よい。
 でも……本当に、瞬間的に眼差しが変わるのね。
 まじまじ見つめられ、こくりと喉が動いた。
「はー。また今度な」
「えっと……」
「恭介さんが起きたらシャレんなんねぇからやめとく」
 ぽんぽん、と頭を撫でた彼は、立ち上がると伸びを見せた。
 お父さんはシャワーも浴びずにソファへ横になってしまっている。
 きっと、夜中に目を覚ましてベッドへ戻るんだろうなぁ。
 お母さんが何度か声をかけてはいたけれど、さっき諦めたようにお風呂へ向かったのを知っている。
「明日、午後の飛行機だよね?」
「ああ。飛行機ン中で寝て帰る」
「来てくれて、本当にありがとう」
「こっちこそ。いいモン見れたし……いいモン見た」
「……もう」
 言いかけた言葉を飲み込むかのように、たーくんは口角を上げた。
 立ち上がって苦笑し、階段を1段だけ上がる。
「っ……おま……」
「おやすみなさい」
「……お前やっぱひとりで寝れば?」
「え? どうして?」
 たーくんの肩へ両手を置いて、頬に口づける。
 すると、目を丸くして振り返ったものの、次の瞬間なぜかため息をついた。
「…………」
「っ……もう」
 手招かれて顔を寄せると、耳元でぼそりと囁かれた。
 でもまさか、こんなことを言われるなんて思わなかったんだから。

 I gonna sneak into your room.

 英語だからまだいいようなものの、これが日本語だったら……絶対もっと顔が赤くなっているはず。
「どうしてそういう言い方を知ってるの?」
「気にならなかったか? 夜這いって英語でなんつーのか」
「っ……たーくん!」
 肩をすくめてさらりと言われ、結局顔が熱くなった。
 もう……もうっ!
 私を見てけらけら笑っているところからして、絶対意図的だろうとは思う。
 ……もう。
 本当に、ストレートすぎるんだから。
「ま、大人しく寝ることにする。おやすみ」
「……ん。おやすみなさい」
 くしゃりと髪を撫でた彼が、笑うと私を越してすぐそこの扉を開けた。
 我が家のゲストルームは2部屋。
 さっきは『ソファでいい』と言っていたけれど、お父さんが寝てしまったからそちらに寝てくれることになった。
 でも、お客様をソファで寝かせるわけにはもちろんいかないから、ほっとしてはいる。
 ……明日の午後、彼は帰国する。
 こうして過ごせたことはとても嬉しいけれど、やっぱり少しだけ寂しい気持ちはある。
 でも、まだ一緒に過ごせるから。
 明日はせめて、近場だけでない場所も案内したいなと思った。

「しかし、どこもかしこも規模がデカかったな」
「ふふ。たーくんのそのセリフ、よく聞くね」
「いや、実際そうだろ? スーパーも広すぎだし、車までだいぶ歩いたじゃん」
「いい運動にはなるかもしれないね」
 最終日の今日は、メルボルンの中心地をメインに少しだけ観光に出ることができた。
 といっても、スーパーやマーケットでお買い物に付き合ってくれたりしたから、ちゃんと、とは言えないけれど。
 でも、どうしても彼を連れて行きたいと思っていた場所へは行くことができて、自分としての今日の目的は達成されたなと思っている。
「しかし、図書館はさすがだったな。あれは1日どころか数日いられる」
「そう言ってもらえて嬉しい」
 たーくんに、そう言ってもらえたらいいなとずっと思っていた。
 マーケットから向かったのは、ヴィクトリア州立図書館。
 数階吹きぬけになっている造りで、建築物を楽しむ意味でもすてきな場所。
 規模もとても広くて、蔵書だけでなく絵や歴史的な展示物もあるから博物館めいた雰囲気もある。
 普段はもっと近くの図書館へ行っていたから、私自身も行くのは久しぶり。
 放射線状に配置されているリーディングルームのテーブルや、そこからドームを初めて見上げたときの感動は、今でも覚えている。
 まるで御伽噺に出てくるような、美しい図書館。
 きれいな場所で、本を読む目的以外で訪れる人も多い。
 本当はもっとゆっくり……とは思ったけれど、空港までの移動時間を考えたら、そんなに滞在できなかったのは残念だし申し訳なかった。
 だから……またいつか。
 また違う形で、一緒にこれたらいいなと素直に思う。
「……しかし、まさかお前が運転できるとはね。驚いた」
「運転はできるけれど……そんなに得意じゃないよ?」
「すげぇ存外。でも、悪くないな」
「そう……かな?」
「ああ。なかなかいい光景だったぞ」
 たーくんの荷物を取りに一度家へ戻ったとき、ちょうどお父さんが帰ってきたところだったらしく、ガレージにいた。
 『実物カッコイイな』としげしげフロントから見ていたのを、お父さんはきっと嬉しかったんだと思う。
 おもむろに鍵を取り出すと、小さく笑った。
「ほら」
「え。いや……気持ちはありがたいけど、こっちでの免許ないとダメなんじゃねーの?」
「お前じゃない。運転手はこの子だ」
 にっこり笑ったお父さんは、キーケースごと差し出した。
 たーくんではなく、私に。
 でも、まるで初めての何かを見るかのように鍵と私の顔とを無言で見つめられ、どう反応すればいいかわからず苦笑が浮かぶ。
「…………」
「……えっと……」
「お前が!?」
「ビクトリア州では、フルライセンス保持者が同乗していれば16歳から練習を始められるんだ。しっかりと俺が教えたから、腕前は申し分ないぞ」
「……恭介さんが教えたって、なんか逆に心配じゃね?」
「何?」
「いや別に」
 大げさに驚かれたものの、でも、そうだよね。
 だって私も11月に帰国したとき、同じセリフをたーくんに言ったんだもん。
 あのときは……まさかこんなふうに関係性が変わるとは思わなかった。
 だから、お父さんとお母さんに家で別れを告げたあと、たーくんを空港まで送りながらなんだかとても不思議な気持ちになった。
 ふたりきりの車内はもちろんだけど、冬瀬ではないオーストラリアの土地で過ごせたことは、本当に特別で感謝しかない。
 運命の巡りあわせと、そして……たーくんを招いてくれた、お父さんとお母さんに。
「あとで写真送ってやるよ」
「え?」
「さっき撮ったやつ。海外の街並みが入ると、より一層映えるな」
「っ……私の?」
「景色と一緒に収めといた」
 スマフォを操作した彼が、私へ画面を見せた。
 そこには、運転する私の助手席からの風景そのものがあって。
 初めてお父さんに乗ってもらいながら運転したときとは違って、かなりリラックスしているように見える。
 少しは慣れたんだよね。
 さすがにひとりで出かけることはほとんどないけれど、でも、できることが増えることはとても嬉しい。
 ……たーくんを空港まで送れる日がくるなんて思わなかった。

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