ガチャリ。

「…………」
「…………」
「……貴様ァ……そこで何している……!」
 唇が触れそうになった瞬間、私の背中でドアの開く音がした。
 途端、たーくんの視線がそちらへ向かう。
 まさに音を立てて。
 がばっと身体を起こすと、目を丸くして喉を動かした。
「げ」
「葉月から離れろ!!」
「うっわ!?」
 比喩ではなく、まさに何かが飛んできて、たーくんが枕を抱えた。
 ぽすん、という音よりも強い音で弾かれたのは……部屋のカードキー。
 あまりの勢いで、もし当たっていたら切れてしまいそうな気がした。
「もう、お父さん! 投げたら危ないでしょう?」
「そうよ? そんな勢いで……孝之君、大丈夫?」
「くっ……どうしてふたりそろってソイツの肩を持つんだ! 解せん!! というか非常に不愉快だ!!」
 ドレスではなく平素に近いワンピースへ着替えた美月さんが、慌てた様子でこちらにきた。
 私と同じようにお父さんへ眉を寄せていて、逆にたーくんがなぜか慌てている。
「とてもおもしろくない」
「っ……恭介さ……」
「お前いい気になるなよ」
「顔がガチじゃん……!」
 ひ、と小さく息を呑んだのはわかったけれど、対するお父さんはそれはそれは怖い顔で腕を組んでいた。
 もう。
 さっきのパーティのときには、かけらも見なかった顔なのに。
 どうしてこんな顔をたーくんに向けるんだろう。
「葉月がソイツの肩を持つのはまぁまだわかる。が、美月。なぜお前までかばうんだ」
「だって……孝之君って、恭介君の弟みたいじゃない?」
「……何?」
「ふふ。恭介君もよく話しているでしょう? 甥っ子というより、歳の離れた弟みたいなものだって」
「え、そうなの?」
「言ってない」
「もう……素直じゃないんだから」
 くすくす笑った美月さんが、私を見てにっこりうなずく。
 たーくんも知らなかったようで目を丸くした……けれど、あからさまにお父さんはなぜか舌打ちをした。
「…………」
「え……。俺?」
 腕を組んだままたーくんを見つめたお父さんが、小さくため息をついた。
 でも、何も言わないことがかえって緊張になったのか、たーくんは眉を寄せる。
「美月が言ったことは、あながち嘘じゃない」
「……へ」
「兄貴たちとは歳が離れてるからな。お前が生まれたとき、俺は素直に嬉しかったよ」
「っ……」
 さっきまでの勢いとは違い、お父さんは静かにそう口にした。
 彼がたーくんを大切にしていることはずっと知っていたし、だからこそいろんな厳しいことも言うんだろうとは思っていた。
 でも……そっか。弟みたいだなんて、そんなふうに思っていたんだ。
 私と同じで、お父さんにとっても身内に年少者はいない。
 だからこそ、たーくんや羽織をとても大切にしたんだなとわかって、なんだか嬉しかった。
「が。だからといって美月までお前を弟と思わなくていい。俺ひとりで十分だ」
「でも、かわいいじゃない? 孝之君」
「ッな……に?」
「私、きょうだいに男の子はいなかったから。なんだか新鮮なの」
「く……腑に落ちん」
 瞳を細めたお父さんは、あからさまに舌打ちするとたーくんを睨んだ。
 たーくんはすでに身体を起こしていて……どころか、ベッドに正座をしている。
 ……もう。
 何も、こんなハレの日に叱らなくてもいいのに。
 でも確かに、同じ部屋とはいえふたりきりになったのは、私もいけなかったかもしれない。
 今日は、たーくんとふたりきりで過ごすためにここへ来たわけじゃなくて、お父さんたちと一緒にきた旅行みたいなものだったんだから。
「……てか、恭介さんなんでここに」
「コネクトルームなんだから当然だろう。そこのドアは鍵がかからないからな。覚えておけ」
 おずおずとたーくんが片手を挙げたのを見て、お父さんはついさっき開いたドアを顎で示した。
 隣同士で部屋を取ったと聞いていたけれど、そういう意味だったのね。
 半ば開けっ放しになっている扉からは、同じような造りの内装が少しだけ見えている。
「そもそも、お前はこっちの部屋じゃない。俺とあっちで寝るんだからな」
「は?」
「誰がいつ、葉月と同じベッドで寝かせてやると言った。ふざけるんじゃない」
「いや、いやいやいやむしろ逆じゃね? なんで結婚式の夜に嫁さんじゃなくて俺なんだよ! おかしいじゃん!」
「意味がわからないな。お前を葉月と一緒にしたらそれこを危険極まりないだろうが」
「そっちのほうが、よっぽど意味わかんねぇって!」
 大きく反応したたーくんに対して、お父さんは静かに首を横に振った。
 その後も何やらいろいろな単語が出ていたけれど、なぜか途中で美月さんが私の両耳を押さえ、ふるふると首を振る。
 えっと……なんの話だろう。
 気にはなるけれど、ひとまずふたりの話よりも……目の前の彼女へと視線は向かう。
「私と一緒に寝てくれるの?」
「ええ。ふたりだけで、少しお話しましょ?」
 ようやく話が終わったようで、美月さんが両手を離した。
 音が戻る中、彼女の柔らかい声が耳に届く。
「お母さんと一緒に寝られるなんて、嬉しい」
「っ……葉月……」
 少しだけ恥ずかしいけれど、でも、お母さんその人に違いないから。
 ああ、この言葉を伝えられる相手が、こんなに早くにできるなんて。
 ずっとずっと昔、今よりももっと小さかったころからずっと、特定の人をそう呼べるようになることが私の願いだった。
「美月さん、じゃなくて。今日からはもう、お母さんって呼んでもいいでしょう?」
「もう……あなたって子は」
「わっ」
 ぎゅう、と抱きしめられたとき、ふんわりと甘い香りがした。
 つい先日、美月さんが私にくれた練り香水とは違う、彼女が昔から使っていると教えてくれたあの香りだ。
 杏とも違う、だけど甘くて爽やかな香り。
 ……お母さんの匂い。
 気づくと彼女へ腕を回していて、ああまるで小さい子みたいだなと自分でも少しだけおかしかった。
「それならいっそ、3人で寝るか」
「え?」
「親子水入らずなら問題ないだろう? お前はひとり寂しくベッドを使え」
「いや……まあそれはそれでいいけど」
 お父さんがたーくんを指さしたのを見て、でもえっと……おずおず手を挙げて意見表明。
 すると、意外そうな顔でお父さんが私を見つめた。
「えっと……お父さんと寝るのは、ちょっと……」
「……何!?」
「だって、もう何年も一緒に寝てないでしょう? 私、もう大きいし……恥ずかしいよ」
「ちょっと待て。孝之はよくて、どうして俺はよくないんだ?」
「え!? た、たーくんと一緒に寝るのは……恥ずかしいけれど……えっと……」
「くっ……! 納得いかん!!」
「ぐぇ!?」
「どうしてお前はよくて俺はだめなんだ。理由を述べてみろ。あン?」
「ちょ、くるし……! ギブ、ギブ!!」
「お父さんっ!」
 まさに一瞬の出来事。
 左手で簡単にたーくんの襟首をつかんだかと思いきや、力いっぱい引き寄せた。
 瞬間的に首が絞まったのがわかり、慌てて立ち上がる。
 お父さんの腕をつかんだまま何度か訴えると、ようやく離されはしたものの……たーくんはとても苦しそうに何度か咳き込んだ。
「お前には話がある。今日はまだまだ時間はたっぷりあるからな。覚悟しておけ」
「……勘弁してくれよ」
「たーくん……大丈夫?」
「ちっとも」
 ぜーぜーと肩で息をしている彼の顔を覗きこむと、とても嫌そうに眉を寄せた。
 もう。お父さんってば。
 これまで見せていた“叔父”の姿は急に影を潜めて、最近見るのはこんな姿ばかり。
 両膝に手を当てて身体を支えるのを見てそっと背中に触れると、どこか諦めたような顔でため息をついた。

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