「本当に驚いたわ。まさか式を挙げることになっていたなんて。恭介君も葉月も、何も教えてくれないんだもの」
「ふふ。だって、式を挙げないって言うから……私、どうしてもふたりの姿を見たかったの」
 夕食は、広々としたダイニングでのフレンチだった。
 すぐそこまでテラスも広がっていたからか、外からの爽やかな風が時おり入って心地よかった。
 壁際では数人のシェフが忙しそうに動いていて、最初のころに運ばれてきた生ハムのマリネだけでなく、ほとんどのお料理の盛り付けてくれる様子を直接見ることができて、とても楽しい時間だった。
 今は、お父さんと……たーくんが寝ることになっている部屋にしつらえられている、バーでのさながら2次会みたいな時間。
 でも、なぜかたーくんはカウンターごしに立ったまま、まるでソムリエさながらにお父さんのグラスへシャンパンを注いでいる。
 ホテルからサーブされたシャンパンとフルーツの盛り合わせは、まさにスペシャルそのものだった。
 私はお酒よりも色鮮やかなフルーツに目がいってしまって、少しずついただいているんだけれど、その間に3人は1/3までボトルを空けていた。
 私が住んでいるこのビクトリア州では18歳から飲酒できるけれど、お父さんはもちろん『飲んでいいぞ』とは言ってこない。
 でも、今日の式は特別だったんだろうな。
 シェインさんからシャンパンを渡されたとき、『ひとくちだけだぞ』と念は押されたけれどいつものような厳しい表情ではなかった。
「お父さんとお母さんの結婚式を自分も一緒にデザインできるなんて、こんなに特別なことはないでしょう?」
 急遽の展開ではあったけれど、お父さんと一緒に『どうしたら美月さんが喜んでくれるか』を一生懸命考えた。
 そういう意味では湯河原での時間はうってつけで、お父さんが取っていた流浪葉の一室では、ほぼ毎晩のようにカタログを見たりパソコンで現地のレストランを探したりしながら、ようやく今日を迎えることができた。
 だから……たーくんに言われたものの、冬瀬のあの家に帰れなかったのはこれが理由のひとつでもある。
「見ることのできないものを見ることができて、とっても幸せ」
 両親の幸せそうな顔を見ることができて、本当に嬉しい。
 家族そのもの。
 お父さん、お母さんと呼べる人がそばにいて、しあわせそうに笑ってくれていることが、私にとってこんなにも嬉しい喜びそのものなんだと強く思った。
「お母さんが、お父さんのことをずっと信じてくれていたから……お母さんがいてくれたから、今日があるの」
「……葉月……」
「お父さん、ずっと私のことを大切にしてくれたんだよ? ひとりでずっと……とてもがんばってくれて」
 両手を重ねてカウンターに置くと、笑顔だったはずなのにふいに涙がこみ上げた。
 小さいころからずっと。
 ずっと、お父さんは私のために“お父さん”でいてくれた。
 勉強を教えてくれるときも、一緒に遊ぶときも、さまざまな式や行事のときも。
 授業で“家族”について教えてもらったとき、お父さんは『俺しかいなくてごめんな』と申し訳なさそうに笑った。
 でも――今日で、おしまい。
 大切な両親がそろったんだから。
「お母さんのおかげだからね」
「っ……」
「本当にありがとう」
 滲んだ涙を指先でぬぐい、にっこり笑う。
 だけど、お母さんだけでなくお父さんまでナフキンを手にしていた。
「え?」
「ワインが足りない」
「いや……俺、ウェイターじゃねぇんだけど。つか、だいぶ飲んでねぇ?」
 お父さんがたーくんへグラスを向け、瞳を細めた。
 それを見て、眉を寄せたもののたーくんはボトルを手にする。
 飲みきるというよりは、めいっぱいグラスに注がれたシャンパン。
 細いシャンパングラスの縁ぎりぎりまで注がれたのを見て、お父さんは小さく舌打ちをしたものの何も言わなかった。
「たーくんは飲まないの?」
「腹いっぱい」
「ふふ。それならよかった」
 両手をカウンターへ置いた彼が、珍しく首を横に振った。
 いつだってかなり食べられる人なのに、よほど夕食は量が多かったらしい。
 ……って、後半私が食べられなくなってきたのを見て、代わりに手を伸ばしてくれたのもあるだろうけれど。
 さすがに、あれだけの量を食べるのは難しかった。
「疲れたでしょう? 少し休んだらいいのに」
「飛行機の中でがっつり寝たけどな。それでも、今横になったら確実に寝る」
「今日……じゃなくって、もしかして昨日?」
「ああ。今朝早く着いた。寝る前、うっかり映画2本見たけど、見逃したやつだったからある意味ラッキーだったな」
 大きな欠伸をしたのを見て、ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちのどちらもが浮かぶ。
 お父さんたちと違って、今たーくんの前にあるのは私と同じぶどうジュース。
 白ぶどうのかなり甘めのもので、途中からシャンパンではなくそちらを飲んでいた。
「つか、お前こそ眠くねーの? わりといい時間だぞ」
「え? ……わ、本当だね」
 顎で示された方向を見ると、壁にかかっている時計はすでに22時半を指していた。
 見てしまった途端、眠気がうつったかのように小さく欠伸がもれる。
 だけど、それを見てたーくんはおかしそうに笑った。
「素直だな」
「え? そうかな」
「まぁアレか。意識して眠くなるタチってのは……子どもと一緒ってことか」
「もう。そう言わないで?」
 滲んだ涙を指先で拭い、そっと髪飾りを外す。
 お風呂は……明日の朝でもいいかな。
 さすがにドレスではなくワンピースへ着替えたけれど、お腹も胸もいっぱいとあって、2度目の欠伸が漏れた。
「お前こそ、少し休め。な?」
「……ん」
 普段、22時には眠くなってしまっている。
 代わりに朝は早めだけれど、最近は6時を過ぎることが多い。
 でも……明日はあまり朝早く起きられないかな。
 ほんの少しだけ飲んだアルコールのせいか、ベッドへ向かうと少しだけ足取りがふわふわした。
「おやすみなさい」
「寝る気満々じゃねぇか」
「だって……もう。たーくんが、時間を教えるから……」
「いや、俺にせいにすんなよ」
 ベッドへ腰掛け、靴を脱ぐ。
 ん、このベッドはお父さんとたーくんが使うんだっけ。
 せっかくお母さんと一緒に寝る約束したけれど……でも、あの、ちょっとだけ。
 少し休んだら、きっと起きるから。
「……お母さん」
「え? なぁに?」
「あとで起こしてくれる?」
 肌触りのいいシーツが気持ちよくて、気づくとつい撫でるように手を伸ばしていた。
 少しだけ。
 ほんの少しだけ横になって……起きれたらいいな。
「もしそこで寝ちゃったら、孝之君に抱っこして運んでもらうわね」
「ダメだ」
「もう。それじゃあ、恭介君が運んであげて」
 お母さんがくすくす笑って、お父さんの腕に触れた。
 ああ、温かいなぁ。
 柔らかな空気が見える気がして、頬が緩む。
 お母さんと寝る約束をしたけれど、でも、お父さんもお母さんも……そしてたーくんも、まだ“大人”の時間を過ごすんでしょう?
 できることなら、私も仲間にいたい。
 だから、少しだけ横になったら……んー……でも今日はやっぱり、難しいかもしれない。
 ふかふかの枕へ頭を乗せるとすぐにまぶたが重たくなって、聞こえていた3人の話が途切れていた。
「なんか、美月さんに対してるときの葉月、幼くね?」
「幼い?」
「やり取りが親子っぽいのはわかるんだけど、普段と逆なんだよ。アイツ、大人っぽいしいつも対応が余裕めいてるし。なのに、美月さんと一緒にいるときは、すげぇ小さい子どもみたいに見える」
 たーくんが意外そうに切り出したのは、どうやら私のことらしい。
 もうすでに意識はふわふわしていて、これが夢なのか今なのか曖昧になる。
「俺といるときにはまず見ない顔っつーか。言い方もなんか、甘えてるみたいに聞こえる」
「美月と過ごしたのは、本当に小さかったときだからな。もしかしたら、空白だった時間を無意識に取り戻しているのかもしれない。……あの子の記憶の中に、ちゃんと美月がいたことが俺はまず嬉しかったよ」
「……湯河原のとき?」
「ああ。やっと引き合わせることができて、本当によかった」
 ふわり、と髪に何か触れた気がして、うっすらまぶたを開けると、ベッドへ腰掛けたお母さんが小さく笑った。
 髪を撫でられるのなんて、最近たーくんがしてくれるようになっただけ。
 小さいころはお父さんがよく頭を撫でてくれたけれど、大きくなるにつれなくなった行為だった。
 ……温かくて、柔らかくて。
 ゆっくりとした動作で頭を撫でられると、たちまち眠たくなってくる。
 って、ううん。
 もうきっとすでに、半分ほど無意識に移っていただろうけれど。
「……つかさ、なんかこー……女同士の絡みって独特じゃね?」
「どういうことだ?」
「いや、なんか……ああやってくっついてるの見ると、わかっちゃいるけど“その先”の絡みを想像しそうになるっつーか」
「お前……俺の娘と妻の両方で想像したな?」
「は!? いや、そういうわけじゃ」
「ふざけるなよ」
「ちょ、待った! 違うって!」
 お母さんが手を止めたこともあって、うっすらとまぶたが開いた。
 ぼんやりと見えるのは……って、ああもうどうしてそうなるの?
 たーくんの首を両手で絞めようとしているお父さんと、逃れようと必死のたーくんが見えた気がした。
「……もう。どうしたの?」
「うわ!? なんでもねぇよ!」
「っ……いいから、葉月は寝なさい」
 お母さんもそちらを見て苦笑していたから、ふと頭をもたげたものの、瞬間的に首を振られた。
 どういうことかよくわからないけれど、あのね?
 さっきはとっても眠かったんだけど、今はかえって目が冴えた。
 ……眠いけれど。
 なんでもなさそうだけど、ふたりに『なんでもない』と言われ、仕方なく枕へ頭を乗せる。
 すると、くすくす笑ったお母さんが、『ふたりともそっくりね』と笑った。
 
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