「葉月、おはよー」
「おはよう」
 いつもと同じ、8時15分。
 羽織の家の外階段下で待っていたら、玄関から声がかかった。
 羽織はいつもにこにこしていて、明るくて。
 一緒にいると、気持ちがとても穏やかになる。
「今日、ちょっと寒いね」
「ね。午後、天気が悪くなるって言ってたよ」
「え、そうなの? うわ、私折り畳み傘持ってこなかった。ちょっとだけ待っててくれる? 取ってくる!」
「あ、私持ってるから一緒に帰ろう?」
「いいの?」
「降るかどうかわからないし。バス来ちゃったら困るでしょう?」
「う。それもそっか」
 慌てて階段を戻ろうとした羽織に笑うと、苦笑しつつも隣へ並んだ。
 予報では、16時すぎから雨だと言っていたから、もしかするとバスを降りたころから降り始めるかもしれない。
「っ……」
 歩き出してすぐ、ガチャリと玄関の開いた音がした。
 と同時に恐らくはおばさんへ向けたとおぼしき、少しだけぶっきらぼうなあいさつが聞こえ、身体が反応する。
「あ。お兄ちゃん、夕方雨降るかもって」
「平気だろ」
「……もぅ。せっかく教えてあげたのに」
 振り返った羽織は、当たり前のようにたーくんへ声をかけた。
 靴音が近づいてきて……そして、私を追い越す。
 そのとき一瞬目が合ったけれど、一昨日まで見せてくれていた笑顔はなく、たーくんはすぐに視線を外した。
「はよ」
「っ……おはよう」
 ぼそりと聞こえた低い声に、一瞬タイミングが遅れた。
 きっと同じ時間のバスに乗るだろうけれど、たーくんは私たちを追い越して先を歩く。
 ……考えてくれただろうけれど、でも、答えはまだもらっていなくて。
 ううん、もらわないままのほうがいいのかもしれない。
 きっと、想いを伝えてしまったことで、彼を裏切ったような形になっているだろうから。
「葉月?」
「え?」
「……ねぇ、何かあった?」
 マフラーを結び直しながら、羽織が心配そうな顔をする。
 彼女には言えていない。
 でも……きっと、私がたーくんを好きでいるのは、誰よりも知っているんだ。
 友チョコとして羽織へ渡しながら、それとは別にたーくんにもずっとバレンタインにはチョコレートを渡し続けているから。
「……たーくんにね、気持ちを伝えたの」
「え?」
「幼馴染としてじゃなくて、好きなのって」
「…………」
「…………」
「えぇえ!?」
 あまりの反応をされ、さすがに苦笑が浮かぶ。
 そうだよね。だって……このタイミングでって思われちゃうかな。
 ついこの間のバレンタインには、去年と同じように彼へチョコレートを渡している。
 羽織にはミニサイズのガトーショコラ。
 でも……たーくんには、どっしりしたチョコレートケーキを小さめのワンホール渡したんだっけ。
 あのときは、もちろんメッセージで食べた感想ももらったけれど、珍しく次の日は一緒にバスへ乗ったの。
 羽織と3人での、久しぶりの時間。
 たーくんは何度も『うまかった』と言ってくれて、それがとても嬉しかった。
「葉月……お兄ちゃんのこと、好きだったの?」
「知らなかった?」
「全然。でも……でも、すっごく嬉しい!」
「……そう?」
「うんっ! だってほら、お兄ちゃんかっこいいでしょ? いっつも褒めてくれるし、すっごく優しいし、みんなも好きになるだろうなって思ってたから」
「ふふ。羽織は、たーくんのこと大好きだもんね」
「うんっ」
 小さいころから、彼女はまさにお兄ちゃんっ子で。
 年子ということもあるけれど、いつも一緒にいた。
 昔は当たり前のように『お兄ちゃんのお嫁さんになる』と言っていたほど。
 最近はさすがに聞かないけれど、やっぱり想いは変わらないらしく嬉しそうに笑った。
 知ってくれていると思っていたのに、どうやら羽織は知らなかったらしい。
「じゃあじゃあ、葉月もずっとお兄ちゃんのこと好きでいてくれた?」
「ん。そうだね」
「えへへ、私と一緒だね。ねぇ、葉月はどうしてお兄ちゃんのことが好きなの?」
「え……」
 にっこり笑って見つめられ、一瞬言葉に詰まる。
 どうして。
 ……どうしてたーくんが好きなんだろう。
 何年も想い続けて、気持ちを伝えるたびに『俺もだ』と笑われて、だけど……諦められなくて。
 どうしたらわかってもらえるか考えた揚げ句、彼へ直接触れることを考えた。
 ……でも、結果はこんなことになってしまって。
 羽織でさえ気づいてもらえてなかったんだもん、たーくんにとっては相当なことだったんだろうな。きっと。
「優しくて……いつも気にかけてくれて。かっこよくて。私にとってたーくんは、ずっと憧れの人なの」
 どうして好きになったんだろう。
 小さいころからずっとそばにいたから……だけじゃない。
 あの笑顔も、声も、話し方も、仕草も。
 何もかもが特別で、私にとっては唯一の人だから。
 ……ああそうか。
 こういうことを伝えたら、違ったのかな。
 巻き戻せないあの時間が戻るとしたら、今思ったことをきちんと伝えておきたい気はした。
「羽織は、どうしてたーくんが好きなの?」
「んー。おやつを買ってきてくれるからかな」
「そうなの?」
「うん。この間も、友達と横浜まで行ったとき、おいしいプリン買ってきてくれたんだよ」
 本当に嬉しそうに笑われ、こちらまで笑みがうつる。
 昔から仲のいいふたりは、大きくなっても変わらないらしい。
 羽織が好いてくれていることを、たーくんはちゃんとわかってるんだろう。
 だからきっと、彼も応えようとして優しくなるんだ。
 ……私に優しいのは、思いが伝わってるからじゃなくて、ずっと彼のそばにいた幼馴染だからなんだろうけれど。
 すっかり変わってしまった……ううん、変えてしまった関係。
 幼馴染だったけれど、今はもうそれ以上の何かに変化することのないぷつりと途絶えた仲。
 でも……こればかりは、謝ってもどうにもならない。
 私の気持ちをなかったことにはできないし、したくないかな。
「わ、バスちょっと早い!」
「急ごう?」
 角を曲がったところで、ちょうどバスがすぐそこまで来ているのが見えた。
 慌てて駆け、バス停を目指す。
 曇天の灰色の空と、いつもと変わらない通り沿いのビル。
 多くの人が待つバス停の中、スマフォを片手にこちらを振り返ったたーくんが見えて、一瞬合った視線はさっきと同じ戸惑ったようなものだったけれど、それでも嬉しい気持ちのほうが先に立つ。
 好きになった人。
 ……ごめんね。
 幼馴染のままは嫌だと……彼の特別になりたいと願ってしまった、わがままな私のせい。
 
ひとつ戻る  目次へ  次へ