「雨、降らなくてよかったねー」
「ん。これなら、大丈夫そうね」
いつもと同じ、１６時手前。
昇降口から外へ出ると、曇天ではあるもののまだ降ってはいなかった。
これなら大丈夫だろう。
「さ、そんじゃま、雨が降る前にささっと行ってささっと食べましょ！」
「金曜日だもんねー。ねぇ、絵里。アイス何にする？」
「そりゃチョコミント一択でしょ。葉月ちゃんは？」
「アーモンドチョコレートがいいかな」
「あーーおいしそう、それも！」
３人で歩き出すのは、バス停へ……ではなく、家とは反対方向。
商店街のクレープ屋さんだ。
毎週金曜日は、アイスクリームのトッピングが無料なんだよね。
さすがに毎週食べに行くわけではないけれど、たまにこうして３人で行くことがある。
今日は天気が心配だったけれど、絵里ちゃんが昨日から話していたからか、今朝の時点で３人揃って食べに行こうと口にしていた。
「混んでるかもねー」
「あ、やっぱり？ そんな気がする」
「でもまぁ、ちょっとなら並びましょ。せっかく行くんだし」
商店街の方向にはゲームセンターやカラオケだけでなく、服屋さんやドラッグストアなどいろいろなお店が集まっているからか、いろんな学校の制服を着ている子たちが歩いていた。
私たちと同じ冬女の子もいれば、たーくんと同じ冬瀬高校の子たちももちろん。
中には、部活が休みなのかジャージ姿の中学生も何人か見られた。
「あ、そこそこ空いてる」
「ラッキー！ じゃ、並びながらメニュー決めましょ」
目指すクレープ屋さんの前には、まだ列はできていなかった。
これから混み始めるのかもしれないけれど、タイミングとしてはばっちり。
先に、絵里ちゃんが小走りで最後尾に並び、私たちを呼ぶ。
５番目。
これなら、雨が降る前にはバスに乗れそうだ。
「何味にする？ 私もチョコアイスにして……んーでも定番のいちご生クリームにしようかな。それとも、季節限定？」
「ちょっと。羽織が一番決まらないんだから、しっかり悩んでおきなさいね」
「うぅ、だってぇ。どれもおいしそうなんだもん」
「写真を見たら、もっと悩んじゃわない？」
「そうなの。うー……どうしよう」
お店の前にあるメニュー看板を見ながら、羽織はいつものように悩み始めた。
まさに、一生懸命。
彼女らしい姿に、つい頬が緩む。
「だーれだ」
「っ……」
ふいに目の前が陰った。
ぴったりと覆われているわけではないけれど、それに近い距離感。
背中にもかなり近い感触があって、身体が強張る。
低い声。でも……聞き覚えはある。
『わかんないかなー』と続いた笑い声だけでなく、『もぅ。わからないよー』と羽織が笑ったのも大きなヒントにはなった。
「菊池先輩？」
「え、なんでわかったの？ 葉月ちゃんすげぇ」
「ふふ。こんにちは」
「いやー愛だな。やっぱこれ、付き合うしかないやつでしょ」
「もー。優くんてばまたそれ？ 葉月に会うたび、それ言ってるよね」
振り返ると、いつもと同じようにからから笑いながら、菊池先輩が頭に手を当てた。
彼は、羽織と……そして、たーくんの従兄。
学園大附属の明るい色のブレザーが、彼にはとてもよく似合っている。
彼は昔からよくたーくんと遊んでいることもあって、私自身も小さいころから知っている相手。
いとこではないものの、ある意味では幼馴染のような存在だ。
「優人先輩もクレープ買いに来たんですか？」
「うん。照り焼きチキン卵サンド一択で」
「がっつりごはんじゃないですか」
「そりゃ男の子ですから」
菊池先輩が絵里ちゃんへウィンクをした瞬間、彼女は『やっば』と言いながら楽しそうに笑う。
彼は本当に場を和ませることも容易だし、雰囲気をがらりと変えることのできる人。
人柄なのか人脈はかなり広く、今もすぐそこを通った別の私立高校の制服を着た男の子が、名前を呼びながら通った。
「てかさー、葉月ちゃんいつになったら俺のこと『優くん』って呼んでくれるわけ？」
「え？」
「こないだも話したでしょ？ 羽織と同じように呼んでくんない？」
メニュー表へ視線を移したところで、まったく予想もしなかったセリフが聞こえた。
菊池先輩にそんなことを言われたことは……先週、だ。
そういえば、たまたま先週羽織と家の前で話し込んでいたら、たーくんと菊池先輩が通ったんだよね。
あのとき、菊池先輩の肩にゴミがついていて、取ろうと声をかけたときにそういえば言われたんだっけ。
出会ってもう何年経つと思ってるの？ って。
「えっと……」
私にとってその呼び方は、どうしても特定の人を彷彿とする。
『たーくん』
きっと彼はなんとも思わないだろうし、こんなふうに私が考えること自体ナンセンスだろう。
けれど……。
「優人先輩、じゃだめですか？」
「あー……悪くないけどなんか違う」
「……そうなんですか？」
「だってさー、孝之のことはずっと『たーくん』なのに、これじゃアイツのほうが距離近いみたいじゃん」
唇を尖らせて話すのを見ながら、ほんの少しだけ不思議な気持ちになる。
距離が近い。
それはいったい、どこの部分だろう。
心的距離？ 物理的距離？
前者であるならばそれは、間違いなく彼の主観でしかないこと。
たーくんにとっての距離と、私にとっての距離は大きくかけ離れている。
「もぅ。優くん、葉月を困らせないであげてよ」
「あー、悪いわるい。そういう意味じゃないんだけど。てか単なる嫉妬。ごめーん」
私が返事に困ったのを見てか、羽織は彼の腕をつついた。
嫉妬、なんて言葉がさらりと出るところは彼らしくて。
冗談交じりに笑い、いつものように彼は『かわいいんだもん』と口にする。
菊池先輩はいつも私のことをそう言ってくれるけれど、普段ほかの人に言われることはまずない。
羽織に対しても同じように口にしているけれど、そういうところはたーくんと違う気が……ああ、でもわからないな。
だってたーくんも、私たちじゃない特別な誰かにはそう言ってるかもしれないじゃない。
たとえば……そう。
この間、彼の隣を歩いていた“彼女”に対しては。
「ま、いっか。そんじゃ、優人さんって呼んで」
「え？」
「俺、もうじき卒業だし。そしたら先輩じゃなくなるでしょ？ だから名前。ね？」
「あ……はい」
肩をすくめた彼が、改めてにっこり笑った。
優人さん、か。
そういえば、年の近い男性を『さん』付けで呼ぶのも初めてだ。
お父さんやお母さんに近しい人を呼ぶときは当然そうだけれど、ひとつ上の相手を呼ぶにしては少し遠い気がして。
「あ。絵里の番だよ」
「おっけー！」
ようやく私たちの順番が回ってきて、絵里ちゃんが最初に注文を始めた。
だけど、羽織はまだクレープそのものの味を迷っているらしく、真剣に看板とにらめっこをしている。
私は……何にしようかな。
いつも頼んでいるフルーツミックスもいいけれど、今日は数量限定の白イチゴも捨てがたい。
なんて思いながらクセのようなもので顎に指先を置くと、菊池先輩……優人さんが小さく笑った。
「ねぇ葉月ちゃん。俺と付き合わない？」
「え？」
「好きなんだよね。ずっと前から」
耳元に近い距離で、彼がささやいた。
羽織と絵里ちゃんは気づかないんだろう。
これまで一度も聞いたことのなかった言葉で、思わずまばたく。
けれど、優人さんはにっこり笑ったまま私を見つめた。
……ああ、そうか。こんな気持ちなんだね。
ずっと昔から知っていた相手から今、関係を変えようと切り出されるときって。
戸惑って当然だ。
こちらには、なんの準備もできてないんだから。
普段とは違い、決して冗談めいた雰囲気ではない彼を見たまま、こくりと喉が動いた。
「……ごめんなさい」
「えー、もうちょっと考えてよ」
「でも、私……」
「じゃあさ、こうしよう。今じゃなくていいから。もうちょっと考えてもらって、次に会ったとき返事ちょうだい。ね？」
ちょうど私の順番になったのを見てか、彼は姿勢を正すとまるで何事もなかったかのように羽織へ声をかけた。
彼女たちには聞こえない大きさだったから、彼と私だけのやりとり。
……でも。
「…………」
きっと考えても答えは変わらないはず。
なのにそう伝えたということは、彼にとっては今の私の謝罪が傷つきであったんだろう。
……あのときのたーくんは、どうだったのかな。
私が『付き合ってほしい』と伝えたとき、困ったように『考えさせてくれ』と言った。
あれからまだ、たった数日しか経っていないけれど、悩ませてしまっているんだろう。
「葉月？」
「あ……」
お財布を持ったままでいたら、クレープを受け取った羽織が不思議そうな顔をした。
ううん、違うの。大丈夫。
ちょっとだけ……ひとり反省会、かな。
いつもと同じように笑顔を浮かべ、ゆるく首を振る。
今度彼に会ったら、ちゃんと伝えなくちゃね。
ここにはいない人の後ろ姿が目に浮かび、ほんの少しだけ寂しい気持ちを勝手に抱いた。
