「…………」
 バス停で降りると、ぱらぱら降り始めていた小雨が少し粒の大きさを増していた。
 折り畳み傘を広げ、家までのわずかな距離を歩き始める。
 羽織は今、ここにいない。
 ……ふふ。
 クレープを食べていたら、ふいに彼女の肩を叩く人がいたの。
 羽織ったら、口を開けたまま振り返るんだもん。
 私と絵里ちゃんには相手が誰かばっちり見えていたけれど、羽織は振り返って初めてわかったようで、慌てて口にクリームが付いてないか確認しようとしていた。
 たーくんと同じ、冬瀬高校に通うひとつ上の瀬尋先輩。
 羽織が今年の夏から付き合っている、大切な彼氏さん。
 いつも穏やかで、優しくて、フラットで。
 でも、羽織から聞くのは少しだけ悪戯な面もあるから、彼女に見せている顔とそうでない相手とは大きく使い分けているんだろうなと思う。
 ……羽織、大好きだもんね。
 今ごろ、ふたりはどこか別のところでデートしてるんじゃないかな。
 瀬尋先輩が傘を持っていると言うので、羽織のことはお願いした。
 たとえ雨でも、ふたりで過ごせたら楽しいもんね。
 羽織が手を取られたときに見せた顔は、本当に嬉しそうな笑顔だった。
「っ……」
 パシャパシャと後ろから駆ける音が聞こえていたと思ったら、ふいに抜かされた。
 見覚えのある黒いリュックとスニーカー。
 そして……冬瀬高校の濃い色のブレザー。
 傘を差さずに駆ける後ろ姿を見て、目が丸くなる。
「たーくんっ!」
 名前を呼ぶと同時に駆け寄ると、振り返った彼は目を丸くした。
 何か言いかけたように見えたけれど、そんなことよりもまず傘を差し出す。
 雨の粒は、さっきよりも大きくなっていて。
 私よりずっと背の高い彼にかたむけると、弾く音がより強く響いた。
「嫌じゃなかったら……一緒に帰らない?」
 ああ、どうしてこんなふうに言ったのかな。
 私を見て、改めて言いかけた言葉を飲み込むように唇を閉じたのがわかり、少しだけ反省。
 そんなふうに言う必要ないのにね。
 少しだけ雰囲気が変わってしまった気がして、改めて後悔する。
「あ……」
「俺が持ったほうが濡れねぇだろ」
 握っていた柄を取り上げられた瞬間、ほんの少しだけ手が触れた。
 傘の高さが変わり、雨の音が少しだけ離れる。
 あえて私のほうへと傘を傾けてくれながら、たーくんは正面へ向き直った。
「…………」
「…………」
 先週までの私たちだったら、どんな話をしていただろう。
 先月、雨ではなく雪がぱらついたときは、羽織と3人で夕飯のメニューの話をしたんだっけ。
 ドリアとグラタンのどっちがいいか、って。
 羽織とたーくんはそれぞれ違うものを選ぶらしくて、そのたびに伯母さんが『じゃんけんで決めて』と言うらしく、負けが続いている羽織は唇を尖らせていた。
 あのとき、たーくんは悪戯っぽく……だけど柔らかく笑っていて。
 今の表情とはまるで違う、まさに彼らしい姿そのものだった。
「…………」
 あのときよりもずっと距離は近くて、それこそ肩が触れそうな……ううん、少しだけ触れているほど。
 なのに、どきどきしないのはどうしてだろう。
 彼に対して、申し訳ない気持ちのほうが強くなっているからなのかな。
 角を曲がると、すぐにたーくんの家の車庫が目に入る。
 私の家は、ちょうど反対側。
 いかにも和風の門が見えて、この時間も間もなく終わるんだとわかる。
「……たーくん、ごめんね」
 傘を握り握りなおしたのを見て、ぽつりと言葉が漏れた。
 どうしたらいいか、ずっと考えていたの。
 私を見て、たーくんとっても困ったような顔するから。
 だから……ああ、このままじゃいけないな、って強く思った。
 彼に想いを伝えたことで困らせた今は、後悔しかない。
「……何が?」
「どうしてほしいかなんて、私が言えることじゃないのに……あんなふうにねだって、ごめんなさい」
 あのとき、たーくんは私に選択肢をくれた。
 それも、具体的な“もの”を。
 どちらかではなく、どうしてほしいか私に聞いてくれた。
 本当はそんな権利ないのに、なりたい姿を想像したらつい口をついたの。
「返事が欲しいなんて言わない。私は、伝えられただけで十分だと思ってる」
「お前……」
 ちょうど、たーくんの家の外階段の前で私が先に足を止めると、たーくんはあのときよりもずっと困ったような顔で私を見下ろした。
 そんな顔しないで。
 私が好きなあなたに、そんな顔は似合わない。
 いつだって笑顔で、どんなときも楽しそうで……前向きで。
 嫌なことがあっても、どうにかして自分で解決策を見出せる、チカラのある人なんだから。
「ごめんね」
「っ……」
「ありがとう、たーくん」
 長い間、考えの邪魔をしてごめんなさい。
 とてもわがままだとは思うけれど、少しの時間でも私だけのことを考えてくれて、ありがとう。
 ……幼馴染としてじゃない、私。
 たーくんにとっては“当たり前”じゃない姿なのに、理解しようとしてくれたことはとても嬉しかった。
「ばいばい」
「ッ……葉月!」
 先月と同じように、笑顔で手を振る。
 戸惑ったように名前を呼ばれたけれど、振り返らずに小走りで玄関を目指す。
 ちゃんと笑えたはずだし、もう……ううん、後悔はしていない。
 たーくんのことは好きだし、きっとね、この先もなかなかその気持ちは変わらないと思うの。
 だから……わがままだけど、許してもらえないかな。
「…………」
 すっかり濡れて額に張りついた前髪をわけ、家の鍵を取り出す。
 大丈夫。間違ってない。
 私の好きな人には、これからもずっと……幸せでいてほしいだけ。
「ただいま」
 きっと、すぐそこの和室にお母さんはいるだろう。
 普段と同じようにあいさつを口にしたものの、今朝家を出たときと同じ“うち”の匂いに包まれた瞬間、涙がこみ上げた。
 ……ああ、だめだなぁ。
 どうして泣くの?
 何も後悔してないはずなのに。
「っ……」
 靴を脱いだ瞬間、お母さんが近づいてくる足音がして、慌ててまばたきの回数を増やすしかなかった。

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