「…………」
今日はもともと、出かける予定が入っていた。
……なんて言ったら大げさだけど、今日はお母さんが友達と朝から出かけると言っていたから、お父さんと夕食を作ろうって話をしたの。
普段、お父さんがキッチンに立つことはほとんどないけれど、休みの日にはたまにお昼を作ってくれる。
パスタだったり、ちゃんとしたおかずだったり、メニューは様々。
今日は朝から天気があまりよくなくて、夜も寒くなるらしいからとグラタンを提案した。
……たーくんは、グラタンのほうが好きなんだよね。
ああ、だめだなぁ。
ふとした瞬間につい彼のことを考えてしまい、ため息が漏れる。
納得したはずなのに、やっぱり後悔もしていて。
……本当にわがままね。
たーくんを困らせたくなくて、でもやっぱり自分の気持ちをなかったことにするのは難しいらしい。
「はぁ……」
食料品を買うのは、これから。
でもその前に、ボールペンの替え芯を買いたくて雑貨店へ。
このショッピングモールにはお父さんと一緒に来たけれど、彼はすぐそこのコーヒー屋さんにいる。
なんでも、今日は欲しかったコーヒー豆が入荷したらしく、珍しく朝から買い物へ行く気まんまんだった。
「えっと……」
普段使っている5色ボールペンが並んでいるコーナー……の、最下部。
しゃがんで番号を確認し、赤と黒のレフィルを取る。
――ものの。
「った……!」
立ち上がった瞬間、ちょうど死角になっていた棚の角に頭をぶつけた。
……痛い。とても痛い。
じんじんと熱を持つ頭を両手で押さえるも、我ながら情けないのと恥ずかしいのとで涙も滲んだ。
「何をしてるんだ」
「お父さん……」
「お前はそそっかしいな」
呆れたような声が聞こえて振り返ると、案の定お父さんが苦く笑っていた。
無事にコーヒー豆は買えたらしく、ショップの紙袋を手にしている。
「美月そっくりだ」
「え?」
「昨日、キッチンで同じ場所をぶつけてたぞ」
お父さんは笑いながら私の頭に触れ、まるで小さいころしてくれたかのように大きな手のひらで撫でた。
自分がやったときとは違い、ほんの少しだけ痛みが引いた気がするから不思議。
ゆっくりと往復したあとに手のひらが離れると、さっきと違ってもうほとんど痛みを感じなかった。
「ありがとう」
「まったく。気をつけなさい」
小さく笑ったお父さんが、私に向かって手のひらを差し出す。
えっと……ああ、もしかしてこれかな。
「何か買うの?」
「付箋を見てくる」
レフィルを渡すと、お父さんはそのまま隣のコーナーへ足を向けた。
そういえば、昨日の夜探してたもんね。
家で仕事をするときに使っているものが切れた、と。
私と違ってあまり新しいものに手を出さない彼は、きっとまたいつもと同じメーカーのものを買うんだろう。
でも、確かにあれが一番使いやすいかな。
そういう意味で言えば、きっと効率はいいんだろう。
「っえ……」
レジへ向かってもいいけれど、きっと通路で待っていたほうがいいかなと思ってきびすを返した瞬間。
ふいに後ろから腕をとられ、感触だけでなく……その人を見て驚いた。
「……たーくん……」
どうしてここに。
もちろん、お休みだし近所ではあるんだから、彼がいても不思議じゃない。
でも、そんなことを口にできる雰囲気ではないから、こくりと喉が鳴る。
まっすぐに私を見下ろしてはいるけれど、少しだけ機嫌が悪そうで。
瞳を細めた彼は、私の腕をつかんだまま小さく舌打ちした。
「お前、俺が好きなんじゃねぇのかよ」
「え……?」
ふいに聞こえた言葉は、予想とはまったく違うもので。
これは……どういうこと、なの?
どこか苛ついているように見えて、だからこそ理由がわからない。
たーくんを見たまま何も言わなかったのがよくないのか、彼はあからさまにおもしろくなさそうな顔をするとため息をついた。
「こないだの優人もそうだ。お前、ほかの男と距離近くねぇ?」
「え……たーくんもいたの?」
羽織たちとクレープを買いに行ったとき、瀬尋先輩がいたから……心のどこかで期待はした。
だって、彼とたーくんはいつも一緒に行動していることが多いから、もしかしたらって思ったの。
でも、あたりを見回してもたーくんの姿はなくて。
それが私にとってはひどく残念で、寂しい気持ちになった。
……きっと、羽織と瀬尋先輩の仲のよさを見たから、いつも以上にそう感じたんだろうけれど。
だからこそ、まさかあのときのことを言われるとは思わず、答えになってない言葉が漏れる。
「さっきのヤツもそうだけど……昨日のアレ、そういうことか?」
「え?」
「最初は優人かとも思ったけど、こっちが本命だろ。あんなベタベタ触られるとか、おかしくね?」
とても不快そうに眉を寄せた彼は、私の腕を掴んだまま少しだけそちらへと引いた。
「なんで俺じゃダメなんだよ」
「っ……」
「“彼女にしてくれ”つったクセに引き際が随分あっさりしてンと思ったんだよ。あっさり『やっぱナシ』にするとか……なんか、すげぇお前らしくなくて納得できねぇんだけど」
まっすぐに見つめられたままの言葉は、どれもこれもが意外すぎて咄嗟に反応できなかった。
だって……だって、たーくんらしくないんだもん。
こんな言葉をくれるのもそうなら、まるで拗ねてるみたいな表情もそう。
何もかもが彼らしくなくて、なのにとてもストレートで、つぐんだ唇が緩みそうになる。
「じゃあ……たーくんの彼女にしてもらえるの?」
もしかしたら、そう切り出した私はすでに笑みが浮かんでいたのかもしれない。
一瞬目を丸くした彼は、首筋に手を置いて一度視線を外すも、ゆっくりと私を見つめた。
「お前は俺じゃなきゃダメなんだろ? しょうがねぇじゃん」
「……ふふ。たーくんらしいね」
「何が」
「ううん。とっても嬉しい」
さっきまでのハキハキした物言いではなく、どこか歯切れの悪い印象。
でも、それこそが彼の“本音”なんだろう。
私のせいだと言っているように聞こえるけれど、きっとそうしなければ彼のプライドが許さない部分もあるのかな。
……それでもいい。
だって、今の言葉よりも前に、彼の気持ちは十分聞いたから。
優人先輩といたところも、そして今、彼じゃない“男の人”と一緒にいたところも、たーくんにとってはおもしろくないと映ってくれた。
言葉にされなくても、十分。
私のそばに彼以外の誰かがいることがおもしろくないと言うことは、私がすでに彼のテリトリーに入ってる証拠なんだろうから。
「つか、簡単に触られてンじゃねぇよ。もちっと危機感持て」
「たーくん、心配してくれたの?」
「心配じゃねぇっつの。一般論だ」
でも、それを世間では『やきもち』って言わない?
私をつかんだままだった手から少しだけ力が抜け、位置が変わった。
腕じゃなく、手のひらへ。
こんなふうに手を繋ぐなんて、それこそ何年ぶりだろう。
私が小学生になる前じゃないかな?
でも、あのころとはまったく意味が違う。
迷子にならないためではなく、所有を意味する形だろうから。
「その子から、手を離せ」
ちょうど、たーくんの背中ごしに戻ってきた“彼”が、瞳を細めた。
本当に、雰囲気ががらりと変わるんだから。
ひどく面白くなさそうにたーくんを見下ろし、眼差しを鋭くする。
「……はァ?」
けれど、途端にたーくんは小さく舌打ちして威圧するかのように振り返った。
「…………」
「…………」
「……お前何をしている」
「げ。恭介さ……は? ……え!?」
普段決して見せない表情で振り返ったたーくんは、相手がお父さんだとわかると驚いたように反応した。
言い方が変だな、とは思ったの。
でもまさか、本当に気づいてないなんて思わなかった。
「え、おま……さっきの、恭介さんか?」
「気づかなかったの?」
「ッ……どうりで平気なわけじゃん……!」
確かに、普段と違って格好もそうならば髪型も違うから、ぱっと見た感じはわからないかもしれない。
でも、さすがにこの距離ならば間違うはずないもんね。
とはいえ、慌てたのはたーくんだけ。
お父さんは、相手が彼だとわかるとなおさらに瞳を細めた。
「孝之。お前、どういう了見でモノを言ってるか自覚あるんだろうな」
「いや、そ……まさか恭介さんだと思わなくて」
「ほう。相手が俺じゃなかったらどうしていた」
「そりゃ、文句のひとつやふたつ……言おうかな、とは」
普段とは違い、たーくんも歯切れが悪い。
最後の最後はぶっきらぼうにつぶやく程度で、視線も逸らした。
「ちょうどいい。昼飯を食べようと思っていたところだ。お前も同席しろ」
「え。いや……まだ腹減ってないし」
「じゃあお前は水で十分だな。事情を聞くから付いてこい」
言い切ると同時に、お父さんはたーくんと繋いでいた手をふりほどいた。
だけでなく、まるで物理的に離すかのようにたーくんとの間へ身体をねじこむ。
「……たーくん、ごめんね」
「いや……むしろこっちだろ。あー、しくった」
こっそり振り返るも、彼はがしがしと頭をかくと大きなため息をついた。
この昼食はかなりシビアな時間になりそうな気がするけれど、きっと私以上に彼のほうが把握しているだろう。
でも、休みの日にこうして一緒に過ごせることは、たとえどんな形でもやっぱり嬉しくて。
……なんて言ったら、叱られてしまいそうだけど。
改めてため息をついたのを見ながら、苦笑が浮かんだ。
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