「いい式だったね」
「……そうか?」
「うん。とっても」
 たーくんにとっては、きっとこれが“当たり前の卒業式”なんだろうけれど、私は初めて。
 校歌斉唱も、卒業生の言葉も、そして合唱も……何もかもが新鮮で、ひとつひとつ感動していた。
 ……やっぱり、泣いちゃったけれどね。
 退場のとき、ハンカチを握っていた羽織と目が合ったけれど、私が泣いているのを見て最後に笑ってくれたから……ちょっとだけよかったのかな。
 お別れでもあるけれど、今日は本当に節目の日。
 羽織にとって大切な記念日が、ひとつ増えたんだから。
「はーるーなーちゃん」
「え?」
「……うわ」
 ふいに名前を呼ばれて足を止めると、ちょうどすぐそこ。
 渡り廊下の手前に、菊池先生がいた。
 先ほど体育館で見かけたのと同じスーツ姿。
 でも今は、両手にたくさんの花束や紙袋を提げている。
「なんだお前、すげぇな」
「いやー、もてちゃってもてちゃって。ウチ花瓶ないんだよねー。あとで借りに行ってもいい?」
「もちろんです。どうぞ」
「ありがとー。それじゃ、ついでにお茶もごちそうになろうかな」
「ふふ。たーくんもいますから、ぜひ」
「おい」
 にっこり笑った菊池先生が『よっし』と言った瞬間、たーくんは呆れたようにため息をつく。
 一輪だけの花もあれば、きちんとブーケになっているものまで。
 きっといろいろな人からもらったんだろう。
 小さなメッセージカードがついていて、彼の人柄がうかがえるような気がした。
「いやー、着物とはね。お似合いですよ」
「ありがとうございます」
「そうだ。いっこ教えてあげよっか」
「え?」
 にっこり笑った彼は、器用に花束をまとめると紙袋へ移した。
 空いた左手で人差し指を立て、どこか楽しそうに笑う。
 それを見て、なぜかたーくんが反応したような気がした。
「着物ってさー、いろんなメリットあるよね」
「え?」
「ほら、脱がずともヤ――」
 音が消えた。というのは、比喩じゃない。
 後ろから耳を塞がれたのと、私を見て菊池先生が笑ったのが理由。
「……たーくん?」
「余計なことを吹き込まれンなつったろ」
「ひどい、たーくん」
「黙れ」
 首だけで振り返ると、たーくんはあからさまに嫌そうな顔をして菊池先生を見た。
 かと思えば、声こそ違えど私が彼を呼ぶときと似たイントネーションで思わず目が丸くなる。
「菊池先生、上手ですね」
「そーでしょ? ありがとー」
 モノマネとは違う感じ。
 でも、どこか自分に似ていて親近感にも似たようなものを抱く。
「そーだ。葉月ちゃんにお願いがあるんだけど」
「え?」
「菊池先生じゃなくて『優くん』がいいなー」
 面と向かっての“お願い”に、どう答えればいいか逡巡する。
 というのは……もちろん、隣にたーくんがいるから。
 ちらりと彼を見ると、何も言わないけれどどこか嫌そうな顔にも見える。
「えっと……優人さん、じゃだめですか?」
「お、それいいね。初耳」
 確かに、彼は私にとっての先生ではなくて、関係性としては説明が難しい相手。
 でも、たーくんの友達という枠でいえば正しいと思うけれど、呼び方が難しくて今までは『菊池先生』とお呼びしていた。
「いいでしょ? たーくん」
「はー……お前ほんと腹立つ」
「やだ、褒めないで」
「はっ倒すぞ」
 ため息をついたものの、たーくんはどこか呆れたように口にした。
 ひょっとしなくても、菊池先生……優人さんとは、普段からこんなふうにやり取りしているんだろう。
 腕を組んだけれど、それ以上は何も言わなかった。
「それじゃ、のんでくれた葉月ちゃんにもいっこ特別情報公開してあげるね」
「やめろ」
「大丈夫だって。そっち系じゃないから」
「どっちだろうと危ねぇだろ」
 ぱちん、と指を鳴らした彼がにっこり笑う。
 かと思いきや、空いていた左手で自分の首筋を撫でた。
「え?」
「孝之。ときどき、こーやって首筋触ることない?」
 その、やり方。
 言われてみれば確かに、何度か見たことがある。
 それも決まって、視線が合わないときに。
 まるで言いあぐねているかのようなときに、だ。
「……するか? ンなこと」
「そりゃ自覚ないだろーよ。クセだもん」
「なんでお前が知ってンだよ」
「やだ、お前のことなら全部知ってるよ」
「うわ。気持ちわる」
 どうやら、たーくんにとっては思い当たらない行為に含まれているらしい。
 でも……見たことがあるから、『あるか?』と聞かれたらうなずくしかないものの、たーくんは首をかしげた。
「それね、ガチのこと言ってるときだから」
「えっと……」
「照れ隠しだよ。コイツの」
「はァ?」
「……そうなんですか?」
「今後楽しみにしてねー」
「ぜってーしねぇ」
 意外なセリフで目を丸くするも、たーくんはたちまち反論した。
 そう……なのかな。
 教えてもらいはしたものの、どう言えばいいか正直困ってしまう。
 私がたーくんのその仕草を見るのは、本当に少なくて。
 でも……。
「ンだよ」
「……ううん。なんでもない」
「そういう顔してねーぞ」
「ふふ」
 もしかしたら、今後たーくんは意識してしない方向に動いてしまうかもしれない。
 でも、記憶の中にはある姿だから……本当かどうかはわからないけれど、私の知らない情報ではあるからやっぱり嬉しい気持ちもある。
「ほんじゃ、まーたねー」
「あ……。花瓶、どうします?」
「気が向いたら行くねー」
「……ち。余計なことを」
 くすくす笑いながら花束を持ち直すと、優人さんはきびすをかえした。
 見ると、数人の女の子たちが彼を呼んでいる。
 ふふ。年齢問わず、いろんな人に好かれるところは、たーくんにも似ていて。
 今まで私たちに見せていた顔とは少し違う表情を浮かべたのを見て、なんだか不思議な気持ちがした。
「お前、優人の話なんでもかんでも信じンなよ?」
「全部は信じてないけれど……ふふ。たーくんも知らないたーくんのことを聞けるのは、嬉しいよ」
「だから。やらねぇっつの」
「そうだね」
 嫌そうに舌打ちされ、小さく笑いながら否定しないでおく。
 彼にとって、それは事実。
 でも……私にとっての事実と異なるのは、仕方のないこと。
 なかなか“そのとき”は訪れないかもしれないけれど、心のすみにとめておこう。
 あるかもしれない、とき。
 たーくんがどんな反応をするのか、少しだけ楽しみな気もした。
「あ」
「え?」
「なんでもない。帰るぞ」
「たーくん?」
 式を終え、校庭や中庭に保護者たちは足を向け始めた。
 伯母さんもさっきまではここにいたんだけれど、どうやら知り合いの保護者を見つけたらしく、今はいない。
 私たちも中庭まで戻ってきたんだけれど、ふいにたーくんが肩を押して回れ右。
「もう。どうし……あ」
「っち。帰るつってんだろ」
「でも、瀬尋先生待ってくれてるよ?」
 首だけで振り返ってすぐ、すぐそこの渡り廊下に見知った人がいた。
 きっと、私より先にたーくんを見つけたんだろう。
 もう。どうしてそんな顔をするの?
 どことなく嫌そうにため息をついたのを見て、眉が寄る。
「行こう?」
「ンでだよ」
「ごあいさつするでしょう?」
「なんで俺が」
 たーくんの腕を取るも、彼は重たいため息をつきながら、目を閉じた。
 もう。たーくん、瀬尋先生と仲いいでしょう?
 そんなに嫌そうな顔しなくてもいいのに。
「本日はおめでとうございます」
「ふふ。瀬尋先生こそですよね。おめでとうございます」
「ありがとう」
 にっこり笑った瀬尋先生は、足を揃えるとこちらへ頭を下げてくれた。
 慌ててならい、背を伸ばす。
 今朝、彼は羽織を家まで迎えに来てくれた。
 『最後だからいつもと同じように行くね』と玄関を出た羽織から、真っ赤な薔薇の花束の写真が送られてきたのは、そのすぐあと。
 両手一杯の花束の背景には、車内とおぼしきものとギアに置かれていた手が映っていて、なんだかとても心が温かくなった。
「いっぱいの花束、羽織に教えてもらいました。とっても喜んでましたよ。本当に、すてきなサプライズですね」
「はは。ありがとう。あの量を買うのは、なかなか勇気いるんだなって初めて知ったよ」
 たーくんにも写真を見せたけれど、彼は鼻で笑うだけで何も言わなかった。
 もう。たったひとことでも『よかったな』と言ってあげたらいいのに。
 ほかの色のない、真っ赤な薔薇の花束。
 きっとかねてから予約していたんだろうけれど、ロマンチックだなと思う。
 たーくんは……しないかもしれない。
 でも、伯父さんは伯母さんへ贈った過去がありそうだなと思うと、なんだか微笑ましくなった。

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