「羽織ちゃんには、もう会った?」
「はい。さっき会いました」
 さっき、というよりもほんの少し前と言ったほうが正しいかもしれない。
 先生方へ感謝を込めてお渡ししたいものがある、と預かってきた紙袋を渡したから、今ごろは挨拶をしながら回ってるんじゃないかな。
「どうせなら、学校の中案内してあげようか?」
「いいんですか?」
「はァ?」
 瀬尋先生がにっこり笑った瞬間、たーくんがすかさず反応した。
 腕を組んだまま向こうを見ていたのに、当然だけどやっぱり話は聞いてるんだね。
 振り返ると、どこか嫌そうな顔をしてから私の肩をつかんで……少しだけ後ろへ引き寄せた。
「忙しいだろ? 余計なことはしなくていい」
「別に? もう学級も閉めたし、このあと昼食べるだけだから時間はいくらでもあるけど」
「そういう問題じゃねぇんだよ!」
「葉月ちゃんも、興味あるでしょ? 日本の高校が……ていうか、羽織ちゃんが通った校内がどんなか」
「そ……」
 そうですね。
 瀬尋先生に勧められ、本音ではそう答えたいところだけど、ちらりとたーくんを見るととてもじゃないけれどそんな返事をしてはいけないような顔をしていた。
 もう。たーくん、瀬尋先生には言葉遣いもよくないんだから。
 というか、こんなふうに機嫌の悪そうなことが多い、と言ったほうがいいかもしれないけれど。
「お前、正気か? こんな着物の姉ちゃん連れて歩くとか、観光じゃねぇんだぞ。見世物にすんな」
「そんなつもりないって。生徒は帰宅してるし、職員は会議に備えて職員室に戻ってる。誰かに見られても、正当な理由ならいくつか思いつくし」
「そういう問題じゃねぇんだっつの!」
 隣ではなく私を背に引っ張ったあとで、たーくんは瀬尋先生に詰め寄った。
 ここで口は挟まないほうがいいんだろうけれど、でも……見られてるという意味では、今も十分注目は集めてるんだよね。
 たーくんの声、響くからかな。
 それとも、今日何度も言われたように、私が着物を身に着けたせいかもしれない。
「とにかく。俺たちはもう帰る。じゃあな」
「お前休みなんだろ? どうせ暇なんだし、葉月ちゃんと食事でもして帰れば?」
「……るせぇな。なんでンな指図をお前に受けなきゃなんねぇんだよ」
「なんで指図って取るんだよ。ひょっとして、腹でも減ってる? ずいぶん突っかかってくるな」
「突っかかってねぇだろ、別に。……喧嘩売ってんのかお前」
「まさか。お前がそう取ってるだけだろ?」
「その言い方が腹立つんだよ。なんなら今ここでコト起こしてもいいんだぜ?」
「……へぇ。脅すのか? ここで、俺を?」
 黙ったまま眺めていたら、収束に向かうどころかまったく異なる方向へ向かい始めてしまい、さすがにため息が漏れた。
 そういえば、この間のお父さんもそうだったんだよね。
 ショッピングモールへ羽織と3人でお出かけしたとき、瀬尋先生がお父さんと話していたのが見えて不思議だったのに、聞こえてきたのはとっても失礼な言葉ばかりで。
 もう。お父さんもたーくんも、どうして瀬尋先生にそんな態度ばかりなの?
 羽織の大切な人なのに、無遠慮ばかりでいけないようにしか思えないのに。
「たーくん」
「ンだよ」
「もう。どうしたの?」
 いつもよりずっと、言葉の端々にトゲがあるように思う。
 瀬尋先生とはこんなふうに、売り言葉に買い言葉のようなやり取りをすることが多いけれど、どうしたんだろう。
 もしかしたら、瀬尋先生が今言ったように、お腹が空いてる可能性は確かに否めない。
 もうお昼だもんね。
 そっと腕に触れて彼を見上げると、小さくため息をついて『別に』とだけ口にした。
「お前、わかりやすいな」
「何が」
「俺が葉月ちゃんと話すの、そんなにおもしろくないか?」
「え?」
「はァ?」
 瀬尋先生が笑った途端、たーくんはあからさまに嫌そうな顔をした。
 それを見てさらに笑うけれど、でも、そんな理由じゃないと思うんだけど。
「ンでそうなんだよ。めでてーな」
「まぁいいや。そういうことにしとく」
「っち……お前ほんっと腹立つ」
「お互い様」
 瀬尋先生は腕を組むと、いつもと同じような穏やかな顔を見せた。
 対するたーくんは……やっぱりお腹が空いてるのかな。
 舌打ちすると、それ以上は何も言わなかった。
「それじゃ、葉月ちゃん。またね」
「すみません。呼び止めてしまって……」
「いや、いいんだよ」
 たーくんを見てくすくす笑った彼に頭を下げると、見ていなかったはずなのに、彼は『ンなことしなくていい』と舌打ちした。
 もう。本当に、珍しいというかどうしたんだろう。
 いつもの彼らしくない。
 ……と言ったら、『いつもってなんだよ』とこの間の私のように怒られてしまうかもしれないけれどね。

「これから、迎えに行ってくるから」

「……あ……」
 今まで見せていた顔とはまったく違う、穏やかな眼差し。
 ふと視線を向けた方向に、教室があるのかもしれない。
 羽織はまだ、校内にいる。
 でもきっと……今ごろ、瀬尋先生を探してるんじゃないかな。
「よろしくお願いします」
「いいえ」
 羽織を大切にしてくれることが嬉しくて、教えてくれたこともおすそ分けのようで気持ちが温かくなって。
 笑みとともに頭を下げると、瀬尋先生は『じゃあね』とこちらに背を向けた。
 校舎に消えたのを見届けてから、視線を上げる。
 自分が通ったものとはまるで違うタイプでもある、校舎。
 私にとってここは今日が最初で最後の思い出の場所だけど、羽織にとっても、瀬尋先生にとっても……そして伯母さんや伯父さんにとっても、大切な場所。
 そう思うと、なんだかとても不思議な気持ちになる。
 もしも私がここで羽織と同じように高校生を過ごしていたら、どんな思い出ができていただろう。
 かわいい制服を着て、絵里ちゃんや羽織と過ごして……瀬尋先生たちに勉強を教わって。
 そして……。
「……ンだよ」
 もっと前からたーくんのそばにいられたら、違った思い出はたくさんあっただろうと思う。
 この間見せてもらったアルバムの中にいる彼と、同じ時間を過ごせはしなかっただろうけれど、重なる部分は幾つか出ていただろう。
 ……もしもの話は、たーくんはあまり好きじゃないんだよね。
 だって、“今”と違うから。
 過去の自分の選択の積み重ねの結果が“今”だから、振り返っても自分はきっとそのときベストと思うことをしてきたはず。
 振り返れば“かもしれない”と思うことはできるけれど、そのときには違うものの見方はできなかったから。
「ちょっとだけね、私もここで高校生ができていたら違ったかなって思ったの」
 首を振ると、たーくんは少しだけ意外そうな顔をした。
 とっても楽しそうだなと、一瞬思い浮かべてしまった。
 けれど、こんなことを言っても困らせてしまうのはわかってる。
 どうにもならないことだし、今とても満ち足りているんだから、多くを望んじゃいけないのにね。
「……でも、もしそうなってたら、きっと今の私はいないだろうから……改めて今に感謝しなきゃいけないな、と思って」
「…………」
「え?」
「真面目か」
「そうかな?」
「まぁいいけど」
 もっと前からたーくんのそばにいられたとしても、今があるとは限らない。
 いろんなことの積み重ねの結果、今がある。
 ずっと好きだった人に好きになってもらえて、手を伸ばしてもらえて。
 こんな特別な関係になるためには、必要だった時間。
 過去は変わらない。
 でも、これからの選択で未来が変化していく。
「……あ。伯母さんも戻ってきたね」
 校庭へ向かいかけたところで、先に彼女が姿を見せた。
 体育館のときとは違って、私を見てすぐに手を振ってくれる。
 羽織は、友達と一緒にさよならランチへ行くと言っていたから、今日のお昼は私たちだけ。
 この3人で行動することって、実はあまりないから、少しだけ楽しみでもあった。
「お待たせ。ルナちゃん、お昼何がいい?」
「えっと……おすすめがあったら、ぜひ」
「あらぁ。じゃあね、ちょっといいイタリアン行きましょ。孝之のおごりで」
「んじゃファミレスな」
「ちょっと。なんで正装でファミレス行くのよ」
「じゃあ人の金をアテにすんな」
 揃った途端、まるで家での会話そのものが聞こえ、思わず笑みが漏れる。
 本当にふたりとも、仲がいいんだから。
 間に挟まれ、どちらからも同意を求められると、どう答えたらいいか悩んで苦笑するしかなかった。

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