「葉月。……葉月、起きて?」
「……ん」
 穏やかな声で名前を呼ばれた。
 聞き覚えがあるどころか、つい最近と重なる。
 そういえば、いつもはこんなふうに誰かに起こされることがなかったんだよね。
 オーストラリアの家でも、冬瀬でも。
 起こしてもらうのは、湯河原の家で過ごしたときだけ。
 小さいころはお父さんに起こされることがよくあったけれど、お気に入りの時計を買ってもらってからは、自分で起きるのが習慣づいた。
「え……あれ?」
 部屋がわずかに白んでいて、鳥の鳴き声はする。
 ベッドじゃなくて……お布団。
 そう。
 まさについ最近、湯河原の家で過ごしたあのときと同じ部屋とお布団で、頭がぼんやりする。
 目の前には、少しだけ困ったように笑うお母さんがいて。
 今日はお休みなのか、着物ではなく白いセーターを着ていた。
「もう。今日はあなた、自分でお弁当作るんじゃなかったの?」
「え……?」
 お弁当を作るなんて、最近ほとんどしていない。
 高校に通っていたときはお父さんが作ってくれることもあったけれど、どちらかというと自分で作ることが多くて。
 冬瀬にきてからは、たーくんが土曜日勤務のときにときどき作る程度。
 きっと4月からは毎日自分で作るだろうから、そうなってからたーくんにお昼どうするか聞いてみようとは思っている。
「ん……眠たい」
「昨日遅くまで起きていたんでしょう。孝之君、もう来てるわよ」
「え?」
 たーくんが来ている。それはどこに?
 ……この家に?
 でも待って、昨日は……お休みだったけれど、そうじゃないでしょう?
 私いつ湯河原にきたんだっけ。
 ぼんやりとしているせいか、まばたいてもやっぱり記憶はあやふやなまま。
 でも、すぐそこのハンガーにかけられている服を見て、ふいに意識が戻る。
「早くしないとバス行っちゃうわよ? 着替えてらっしゃい」
「え、お母さん。その服……」
「昨日脱ぎっぱなしだったでしょう。もう。あなたらしくないわよ? ハンガーにかけておきました」
「……ありがとう?」
「もう……葉月ったら。早くいらっしゃい。ごはん冷めちゃうわよ」
 昨日のことが思い出せず、ありがとうが妙な形になった。
 でも、お母さんは小さく笑うと私の頭を撫で、部屋を出て行く。
 鳥の鳴き声は、続いていて。
 どうやら予報と違ってお天気もいいらしく、雨の音はしない。
 ……そうだ。着替えなきゃ。
 バスが行っちゃう。この時期遅刻するのはまずい。
 羽織はもう出たのかな。
 いつも一緒に登校しているのに、そういえばどうして今日は別で行くことにしたんだっけ。
 平日、当たり前のユニフォームになっている制服に着替え、お布団を簡単に畳む。
 ブレザーを手に廊下へ出ると、ちょうど玄関でおばあちゃんが話しているのが見えた。
「おや。やっと起きてきたね。珍しいこともあるじゃないか」
「おはようございます」
「おはよう。で? 坊やはどうする。ウチでご飯食べて行くかい?」
「いや、急に押しかけてきたくせに、上がりこんだら怒られる気がするんすけど」
「なに、雪江さんには黙っておいてあげるさ」
 玄関のドアが開いたままになっているみたいで、そこに立つ人の顔が光と重なる。
 眩しい、朝。
 反射的にまぶたを閉じると、『お前らしくないな』と笑う声が聞こえた。
「っ……たーくん……」
「珍しいな。お前が寝坊とか」
「……どうして」
 冬瀬高校指定のブレザーをまとう彼は、学年色の青いネクタイを結び直しながら笑った。
 ……制服。どうして?
 あれ。
 どうして私、制服を着ている彼を見て『どうして』なんて思うんだろう。
 だってこれが当たり前でしょう?
 昨日も……そう。
 羽織とバスを待っていたら、走ってきたたーくんが滑り込むように乗り込んだんだから。
「なんだよ。昨日約束したろ? 今日はどうしても一緒に行きたいから、朝寄ってほしいって。言い出したのお前じゃん」
「……そうだね。えっと……」
「つか、リボンどうした?」
「え? あ……」
 指摘されて気づいたけれど、そういえばポケットに入れたままだった。
 彼とは違う、赤いリボン。
 ……そう。
 ひとつ上のたーくんは今年、高校3年生になった。
「結んでやろうか?」
「っ……」
 悪戯っぽく笑った彼が、顔を近づける。
 のを見て、おばあちゃんがあからさまに咳払いをひとつ。
「目の前で手ぇ出すんじゃないよ。未成年だろう」
「いや、出してないじゃないすか。未遂でしょ」
「馬鹿なこと言ってないで、ごはん食べていきな」
「ご馳走様です」
 たーくんは、肩をすくめると靴を脱いだ。
 彼の家とは違う、玄関。
 まっすぐに伸びる廊下を見て、ふいに足を止める。
「懐かしいな」
「え?」
「こうやって上がるの、中学に上がる前だから……6年ぶりか」
 あのころと違い彼はずいぶん背が伸びた。
 ……そう。
 たーくんと当たり前のようにこの家で遊んだのは、彼が6年生までだった。
 中学になってからは部活が始まり、彼自身の行動範囲も広がったことで、玄関までは来ても上がらなくなったんだよね。
 たったひとつの歳の差でも、追いつけない相手。
 誰もいないところでならまだしも、ほかの人がいるときはお互い意識してしまって、学校では『たーくん』と呼ぶことができなくなった。
 幼馴染とはいえ、公の場所では学年が違うことはとても大きくて。
 初めて『孝之先輩』と普段まったく口にしない言い方をしたら、たーくんのほうがむしろ驚いた顔をしていた。
 ……中学生って、急に大人になるんだもん。
 過ごす教室も違い、放課後以外はまったく見かけない相手。
 家はこんなに近いのに、結局彼と一緒に通学路を歩いたのは、たまたま帰りの時間が重なって……彼がひとりのときだけだった。
「もう、高校も卒業だもんね」
 彼は間もなく卒業する。
 私とは違う、男子校。
 学校自体が近いこともあって、この2年間の中でもときどき見かけることはあったけれど、彼はいつもたくさんの友達と一緒に過ごしていた。
 大きな声で話して、笑って。
 稀に目が合うと遠くでも小さく笑ってくれることがあって、それは私にとって本当に貴重な瞬間だった。
「なんだ。珍しいな、孝之がくるなんて」
「おはようございます」
「というか……まさかお前、朝飯をたかりにきたのか?」
「ご馳走様です」
「……まったく。どういう了見だ」
「そう言わないでくださいよ」
 大きなテーブルのある和室に入ると、すでにお父さんは朝ご飯を食べていた。
 今日は、和食ではなく洋食。
 真っ白いプレートには、ふわふわのオムレツとサラダ、厚切りのベーコンが載っている。
「お前、この間はコーヒーをご馳走してやっただろう」
「いやー、まさかあんなトコに恭介さんいると思わなかったんすよねー。仕事中の姿とか、まじカッコよかったですよ」
「なんだ。次の催促か?」
「違いますって」
 たーくんは、お父さんのはす向かいに座るとリュックを下ろした。
 すでに彼の分は用意されていて、どうやらおばあちゃんが先に譲ってくれたらしい。
 ほどなくして彼女は、自分用に新しいプレートを持って入ってきた。
「孝之君、ご飯とトーストどっちがいい?」
「ご飯でお願いします」
「ちょっと待ってね」
 お父さんは何か言いかけたようだったけれど、お母さんがくすくす笑っておひつに手を伸ばした。
 普段見ないどころか、初めての光景。
 小学生のころも、たーくんはこんなふうにここで朝食を食べたりしなかった。
 ……ああ。あのころは、彼の家の前が待ち合わせ場所だったからかな。
 そういえば、逆に私がおばさんからワッフルをいただいたこともあったっけ。
「それで? まさかお前、葉月に手を出したわけじゃないだろうな」
「っ……お父さん」
 コーヒーカップを手にしたお父さんを見て、思わず眉が寄った。
 今はまだ……ううん。
 そんな話をしてほしいわけじゃないの。
 だって……それはこれから、私がしようと思っていたんだから。
 どうして今日は、羽織と一緒に登校しないことにしたのか。
 どうして、昨日の夜久しぶりにたーくんへメッセージを送ったのか。
 ……こんなふうに朝から時間を合わせてほしかった理由を、ようやく思い出したんだから。
「まさか。幼馴染に手ぇ出さないって」
 ふいに聞こえた笑い声は、きっと本心そのものだろう。
 でも、あまりにもストレートに響いた言葉すぎて、逆にそちらを見ることはできなかった。

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