退勤まであとわずか。
今日は閉館作業を買っていたのをすっかり忘れていたこともあり、19時を過ぎたあたりからすっかり頭が働かなくなった。
すでに大学が休みに入っていることも影響しているだろうが、何よりも今日がバレンタインだってのがデカいんだろうな。
すでに人影はまばら。
貸出終了時間まであとわずかだが、もう片付けても文句は出ないかもしれない。
ちなみに、野上さんは17時15分きっちりに退勤していった。
本人曰く、今日は豪勢なお手製ディナーをふるまう予定だとか。
何はともあれ、職場が静かになったことは俺だけでなくほかの職員もほっとしただろうよ。
「…………」
仕事はまだ残っている。十分にな。
ねばならないこともある。
が、閉館まであと少し。
今さら能率を上げたところで、たかが知れている。
……やめよ。
開いていたエクセル画面を閉じ、別の画面を開く。
貸出蔵書一覧の検索データベース。
打ち込むのは、俺と同じ姓を持つノーナンバーのアイツの名前。
「っ……すげ」
クリックした途端、思った以上の履歴が画面に表れた。
少なくとも、アイツがカードを作ったのは先月のはず。
なのに画面には、ずらりと二十冊もの書名が羅列されていた。
「……は」
思わず短い笑いが漏れた。
……アイツのスピードは異常だな。
今、ここにいないどころか、今はこの日本という国にすらいない。
なのに、目の前にはアイツが残した記録が確かにあって。
「…………」
1番新しい日付は先月の中旬。
それから葉月はずっと湯河原で過ごしている。
そして今……アイツがいるのは、オーストラリア。
俺の誕生日から年末年始、そして1月のこの日付けまでは家に葉月がいるのが当たり前だったからこそ、はっきりとした数字を見ると『こんなにも経つのか』と無性になんとも言えなくなる。
いないのにな、今は。
にもかかわらず、ボタンひとつで簡単に出てくるアイツを示す情報は、考えていた以上に膨大な量で。
「……はー」
ギシ、と音を立てて椅子にもたれ、両手を頭の後ろで組む。
……見るんじゃなかった。
頭のどこかでそんな後悔が生まれ、同時にため息が漏れた。
葉月からは今日、メッセージは届いていない。
てことは帰国の目途もまだ、ってことなんだろうな。
「…………」
今日の日付けのせいで、どうしてもアイツを思い浮かべる回数が普段より多くて。
一番捕われてンの俺じゃん、とかなり情けない気持ちになった。
普段と同じ、帰宅時間。
すでに20時半を回っていて、俺にとってはある意味当たり前。
「…………」
ただ、当たり前のセリフにもかかわらず、靴を脱ぎながら『ただいま』と言おうか言うまいか躊躇した。
12月末から1月中旬まではまさに当たり前に口をついていたのに、その前まで……そして最近はすっかりリビングに顔を出してから言うものへ戻った。
葉月がこの家にいたときは、俺がドアを開けると必ずそこにいた。
『おかえりなさい』と口にして、わざわざ俺を迎えてくれるため。
今はどころか、最近はすっかり姿を見ていないから、ある意味“昔と同じ”生活へ戻りつつある。
「あら。お帰り」
「ただいま」
夕飯という時間じゃない時間。
わかっちゃいたが、当然のようにこたつにもダイニングのテーブルにも、夕飯の支度はされてなかった。
……ま、いつものことだけど。
別に、あげ膳据え膳を望んでるわけじゃないが、多少はやってくれたってよくね?
腹が減りすぎているからか、久しぶりに少しだけ他人のせいにする。
葉月がいれば、まずこんなことにならない。
アイツはいつだって、ちゃんとメシを用意して――……。
「…………」
ため息をつきながらキッチンへ向かい、火の気のまったくない場所だからこそ余計冷たさを感じる。
何してんだか。
いつもよりずっと重たい気がするバッグを椅子に置き、冷蔵庫へ向かう。
冷えた緑茶のペットボトルを半分まで飲み干しても尚、出るのはため息だけ。
「…………」
そのまま冷蔵庫へもたれると、頭がぶつかった。
自分で灯りを点けてないんだから、当然ここは真っ暗。
だが、かえって心地いいもんだな。
アイツアイツって、どんだけこだわってんだよ。
最近と同じ光景なのに、たった数日久しぶりにべったり過ごしたせいか、何を見ても、何をしても、つい頭に浮かぶのは葉月がいる景色。
アイツならこうしてくれる。
アイツならこう言ってくれる。
そんなことばかりで、あまりにも情けなかった。
アイツが向こうに戻って、まだ1週間弱。
連絡もないからこそ、帰って来ないのはわかってる。
……なのに。
なんでこんなにもヘコたれてんだ、とどこかで自分に腹が立つ。
しっかりしろよ。何してんだよ。
すげぇだっせぇ。
「…………」
小さく息をつき、膝に両手を当てて姿勢を戻す。
まだ、かもしれない。
すぐ、かもしれない。
迎えに行くとは言ったが、仕事中はほとんどスマフォ見れねぇんだよな。
たった1日しか経ってないから、目途もくそもないだろうが、あとで聞いてみても……っていや待て。
それしか経ってねぇんだから、これで聞いたらまるで俺が待てねぇみてーじゃん。
…………。
待ててねぇけどよ。そりゃな。
まぁいいや。とりあえず飯食お。
「あー……疲れた」
「あら、大変ね」
「まぁな」
適当によそった適当なカレーライスを持ち、コートを脱いだだけでコタツへ。
ちなみに、適当ってのは比喩じゃない。
具のバラつき加減といい、大きさといい何もかもが適当。やっつけ感ハンパない。
……ま、葉月が来る前まではコレが当たり前だったんだけどな。
味は悪くないが、見た目がイマイチ。
つっても、このお袋に意見したところで改善されるとはコレっぽっちも思えないからやめとく。
「……なんだよ」
「あら。言わなきゃわからない?」
スプーンに乗っかった、デカくてゴツい肉の塊。
とてもじゃないが、普通の人間の『ひと口サイズ』じゃないソレを前に口を開けたら、お袋が無言で手を出してきた。
手。
つーか、手のひら。
まるで、『金出しな』的な雰囲気ありあり。
「今日はバレンタインでしょ?」
「……だから?」
眉を寄せたまま頬張り、続けてもうひと口すくう。
だが、お袋は顔色ひとつ変えないままさらにその手を上下に振った。
「もらったんでしょ? チョコ」
「いや、そーじゃなくて」
「じゃあ何?」
「……だから……」
こっちは仕事で疲れて帰ってきたってのに、それかよ。
怒る前に疲労感がどっと増して、言いかけた言葉をカレーと一緒に飲み込む。
その間もなんだかんだとぶーぶー言ってたが、無視。当然の行為だ。
……やっぱ、カレーだと早く食える……つーか、飲みモンだった。そういや。
最後のひと口をかき込んで、終了。
食事時間、3分弱ってところか。
早食いは太ると世間じゃ言われてるが、あながちそうだとは言い切れないと思うぜ。
「ほらよ」
鞄を漁り、目に付いた箱をごろりとコタツの上へ。
途端、お袋の目と声の色が変わった。
「あらーぁ、いいの? 悪いわね、なんだか催促しちゃったみたいで」
「アレが催促じゃなかったら、何になんだよ」
呆れて物を言うどころか、目も合わせらんない。
あー、よくもまぁこんな親と長年連れ添ってるな。
……いや。
それは、すぐそこで何も言わずに新聞読んでる親父か。
「はー……」
毎年見なれた光景ながらも、まるで女子高生のようにチョコひとつで喜ぶお袋を見ているとため息しか出てこない。
……なんだかな。
ま、なんでもいいけど。
「食ったら、ちゃんと買って返せよ」
「はいはい。ちゃんとわきまえてるわよ」
「あ、そ」
ソファへ放ったコートを手に立ち上がりながら、一応の忠告。
無論、買って返してほしいのはチョコなんかじゃない。
来月どーんと待ち構えている、倍返しの供え物だ。
毎年、いつしかこの形が当たり前になっていた。
中学ンときから……だったか? 確か。
ま、そりゃそうだよな。
食ってない俺が返す理由は皆無。
それに、同性から見たお返しもののほうが、当たり外れがないってのも理由。
世の男性諸君もそう思っている人間が多いのか、毎年ホワイトデーの催し場ではなぜか圧倒的に女のほうがいるし。
妙な話だとは思うが、ま、ぶっちゃけどっちでもいいや。
「……で?」
「は?」
ひと通り品定めを終えたお袋が、箱を一列に並べてからこっちを見た。
……つか、それ食う順番か?
俺を見たまま1番左にあった赤い包みを開き始めたのを見て、口が半分開いた。
「ルナちゃんのチョコは?」
「…………」
「あら。何よ。どうしたの?」
「どうしたの、じゃねぇよ」
馬鹿かお前。
ついそんな言葉があとを追いそうになって、ギリギリで封じる。
危うく、ボコボコにされるところだった。
……明日の朝メシが。
「あのな。何考えてんだ?」
「何って?」
「葉月は今、向こうに帰ってんだぞ?」
「だから?」
「……だから……」
途中まで出かけた言葉が、急速に萎びれる。
はー、と深いため息を吐き出すと同時に、軽く眩暈がして。
……つーか。
いい加減、人の顔見たままバリバリ包装解いてチョコ食おうとすんなよ。
なんか、そんな姿を見てると情けなくなる。
あー、この親の血が半分俺にも流れてるんだな、と思うと。
「いい加減、チョコから離れろ」
「あら? 何よ。ねぇちょっと! 孝之?」
「ごっさん」
もはや、反論する気力もない。
1度言葉をためてから吐き出したひとことを最後に、空になった皿を持ってキッチンへ向かう。
……なんかな。
たった1日で妙に疲れが増した。
昨日までとはまさに雲泥の差。
「…………」
ぎゃいぎゃいうるせぇお袋に視線を1ミリたりとも及ばせず、自室への道のりを歩む。
廊下に出てすぐ、身体全体で感じる冷たさ。
だが、妙に暖かかったリビングより、ここのほうが居心地よく感じる。
「……たく」
勘弁してくれよ。
仕事でもそうだったのに、家に帰ってまでンなこと言われたら……嫌でも言いたくなるだろ。
なんで、今ここにお前がいないんだよ、って。
「…………」
階段を上りきってから電気を消すと、どこもかしこも真っ暗だった。
羽織は例の如く。
そして――……突き当りの新たな部屋主も、言うまでもなく。
……なんかな。
いつもと同じはずなのに、いつもとはまるで違う。
正直、少ししんどい。
いつものように手探りで自室の電気を点けると、乱雑に成り下がった部屋にもかかわらず妙にがらんとして見えた。
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