風呂に入ってから戻って来たところで、部屋の見た目は変わらず。
 思いも同じく。
 相変わらず、自分以外が立てる物音など皆無なせいか、テレビを付けると思った以上に音が広がった。
「…………」
 何か、これといってしなければいけないことはない。
 特に……やりたいことも。
 ただ、それでもなんとなくこのまま『じゃあ寝るか』って気にだけはならなくて。
 テレビをつけて音だけでニュースを聞きながら、スマフォを手に知り合いのサイトを回る。
 他愛もない、普段とそう変わらないテンションで、ただ今日あったことが書かれている、ブログ。
 いつもなら、それを見たところで特に何かを思うこともない。
 ……なのに、だ。
 今日に限って、無性に『いつもと同じ』が面白くない。
 テンションが上がることも、いつものようにツッコミどころを探すでもなく。
 『ふーん』程度の感情を持ち合わせたまま、次を巡る。
 ……あー、やっぱダメだ。
 つか、無意識のうちに『そういえば』と昨日撮ったアイツの写真を開いていて、我ながら末期だなと実感した。
「…………」
 普段とは真逆。
 助手席に乗った俺が、運転席のアイツを撮影したもの。
 葉月の横顔もそうなら、その向こうに映っている景色もそう。
 あまりにもハマりすぎていて、ポートレートのようにきれいだと素直に思った。
 ……あーあ。何してんだか。
 こんなん見たら、それこそもっと……いろいろ思うしかねぇのに。
 ベッドへもたれたまま、スマフォを手離す。
 いつもの俺とは違う。
 つか、いつもの俺ってなんだ?
 俺らしいってどういうことだ。
 つい先日、俺のフィルターを通して見えていた“葉月らしさ”を伝えたとき、あいつは困ったような顔をした。
 俺が勝手にラベルを貼っただけだったと気づいたのは、そのとき。
 大人びていて、いつでも穏やかに笑っていて、動じなくて。
 そう見ていたアイツに問われたとき、ああ俺の勝手なイメージのせいじゃんと気づきもした。
 だから……なんなんだろうな。俺らしい、って。
「……はー」
 寝りゃいいんだろうが、そこまで眠くもない。
 じゃあこないだ買った本を読めばいいだろうが、それもな。
 あとはまぁ……そこへ放ったままになっている、向こうへ持っていったバッグを片付ければいいんだろうけど、なんとなくそれも面倒で。
 さすがに洗濯物だけは出したが、パスポートや恭介さんからの手紙、その他もろもろすべてはそのままになっている。
 つか、結局あっちの家で葉月が洗濯してくれたから、洗濯物も微々たるもんだったけどな。
「…………」
 時間の経つのがやけに遅々としていて、机に置かれたままの腕時計がちっとも進んでない。
 ……あの時計もそうだ。
 アイツの存在を示すもの。
「はー……」
 いい加減よせば?
 普段なら、誰かに迷うことなく口にする言葉が、今は自分に出てこない。
 情けねぇな。ホント。
 しっかり、なんてとてもじゃないが言えない。
「……あ?」
 そういえばと思い出したものを出すべく仕事用の鞄を引き寄せたら、朝見たきりだった包みが目に入った。
 てっきり、さっきの騒動でお袋にやったんだと思ってたのに。
 どうやらコレは、俺の中で『チョコ』と認識されてなかったらしい。
「…………」
 すんごぉーく、おいしいんですよ! 絶対!
 ていうか、とろけます! ほっぺた落ち警報ですよ!
 のっけからテンション高かったな、と今になって思い出す。
 しかしまー、野上さんのあの自信は、いったいどこから湧き起こってくるんだか。
 毎年毎年、ある意味意表をついた革新的なチョコレートたちだけに、今年も……いや、今年こそはもらわないと決めてたのに。
 学生時代から、彼女にとっての『義理1号』というより『犠牲者1号』としてブツを押し付けられており、今年こそは逃げようとしたが……やっぱ無理だったか。
 相変わらず、あの人の押しの強さというか人柄というか性格というかは、いろいろなモノを無効にする力でも備えてるらしい。
「…………」
 すんごぉーくおいしい、とは思ってない。
 だが、彼女は翌日が出勤日だと、朝から必ず感想を聞いてくる。
 それが、俺にとっては年に数度ある負担のひとつ。
 ……だから、仕方なく食べるワケで。
 ある意味自発的な行為とは言えないんだが、野上さんへ直接言ったところでどうなるモンでもないからやめとく。
「……うわ」
 包装紙を破いて箱を開けると、そこにはチョコレートらしき物体が4つ並んでいた。
 ……つーか、大きさといい数といい、なんか微妙だな。
 しかも、ひとつひとつの大きさがちょっとずつ違っていて、彼女の言う『手作り』感たっぷり。
 それにしたって、毎年毎年マメに作ってよこすんだから、いい加減上達してもいいようなモンだと思うけどどーなんだこれ。
「…………」
 ぶっちゃけ食べたくない。
 どれでもいいかと手にしたものの、異様にごつごつしてるのが怖い。
 食べる前から『いかにも何か練りこまれてます』的アピールを感じて、嫌悪からか瞳が細まった。

 がり。

 …………。
 ……もぐも……ぐもぐ。
 ……。
 …………。
 ………………。
「……ん?」
 丸ごとひとつ口に入れるのは恐ろしいので、半分より小さめのひとくち。
 『食べる』行為にはほど遠く、慎重に慎重にかじり進め、食べても大丈夫なモンかどうか味を確かめつつ行う、いわば『作業』に近いから。
「…………」
 今までのところ、チョコレートの味だけ。
 ……だった。
 今の、ホントに今の今までは。
「……ッ……」
 瞬間、明らかに変わった。
 違った。
 何がって……言うまでもなく食感が。
 ザリ、と歯に感じた違和感。
 途端に咀嚼が止まって、ついでに思考も停まる。
 ものすごく怖い。
 つーか、ぶっちゃけ確かめらんない。
 いったい何が練りこまれてるのか予想もつかず、ただただ恐怖でしかなくて。
「…………」
 恐る恐る、手に持ったままだった今口にしたモノの欠片を見る。
 ……だが、やっぱり見ちゃいけなかったのかもしれない。
 途端、『ぐぇ』といういろんな意味での拒絶がまず頭から発せられた。

 納豆。

 どう見てもそれは、まごうことなき納豆の粒。
 よーくよく顔を近づけてみると、あの独特の発酵臭がしたから間違いない。
 ……うわ。うっわマジか。勘弁してくれ。
 食えないモンじゃないのはわかってる。
 俺だって納豆は嫌いじゃない。
 ……嫌いじゃないぞ。そりゃあな。
 ただしそれは、こんな合体技以外のときだけ。
 単品じゃなきゃマズいだろ。
 つーか、こんな抱き合わせは確実にアウトじゃん。
 ……ぅ。なんか、考えたら余計口の中がおぞましいことになってきた。
「…………」
 げ、と思わず口に手を当て飲み込むと、やっぱり後味は納豆一色でしかなかった。
 混ぜちゃダメだろ。ごくごく普通の、市販されてる納豆は。
 そりゃ、俺だって知ってるぞ?
 世の中には、『納豆チョコ』と題されたシロモノがあることくらい。
 ……でもな。
 それは、あくまでも食べれるようになってる納豆であって、こんな、ごくごく普通の何も処理されていない一般的な『ご飯によく合う』タイプじゃ決してないワケで。
 だから、つまり――……。
「あー……」
 微妙にまだ口の中に粘りが残っているような気がして、一気に落ちるところまで落ちた。
 今日は無理。いろいろ無理。完全にシャットダウン。
 最後のダメ押しが利きすぎて、もはや精根尽きた。
 思い切りベッドへもたれたままニュースを見るものの、どっかの国が何かを破棄したとか、国内総生産がどうとかという耳慣れた言葉ばかりなのに、まるで違う次元の話をされてるようにすら思える。
 ……あーあ。
 つか、お前相当疲れてンだって。
 だからいい加減もう離れれば?
「…………」
 目の前に誰かがいたら、そう言ってくれるかもな。
 頭がまったく働かず、耳からの情報はさっぱり頭に辿り着かない。
 へぇ、とか。ふぅん、とか。
 そんな相槌すら出てこなくなって、黙ったまま……いつしか目を閉じる。
 ……あーしんど。
 ここまでテンション下がったのは、それこそ久しぶり。
 記憶にあるのは高校のとき以来だが、あンときは家に帰ってくる前に解決したから、この時間まで引きずったのは初めてかもしれない。

 葉月。

 名前じゃない、言葉じゃない。
 アイツの顔そのものが頭に浮かんで、どうにもこうにも、なんともならない。
 何かをしてるところじゃない。
 ただ、笑顔。
 アイツがいつもしてるように、俺を振り返って見せる笑顔。
 あの柔らかいなんともいえない表情だけが頭から離れず、『今』の情報が束になって身体に入って来ようとするのを全部拒絶する。
 今ごろ何してんだろうな、とか。
 メッセージ送ったらどんな反応あんのかな、とか。
 そんな、情けなくもアイツに関することしか浮かばず、だったらテレビ消してとっとと行動すりゃいいのにとも呆れる。
「…………」
 初めて、か。
 まあそうだな。それは認める。
 こんなにも自分以外の誰かのことを……たったひとりの女のことばっかり考えるのは、それこそ“俺らしくない”ことで、自分でも対処の仕方が行方不明らしい。
 アイツが今回オーストラリアの自宅に戻ったのは、ふたつ理由がある。
 ひとつは、両親の式のため。
 そしてもうひとつは、生活自体をこちらでスタートさせるための荷物整理と知人へのあいさつのため。
 むしろ、これほど長期的に留まっている理由は、後者のほうが大きい。
 必要な物は、空輸便で。
 不必要な物は、処分も兼ねて。
 アイツなりの『いる、いらない』を判断するために、自宅へ戻った。
 4月から……いや。
 すでにこっちで始まっている、アイツにとっての新生活のために。
 未だに、家具は愚か荷物がほとんど置かれていないアイツの部屋は、今見に行ったらより一層広くガランとしているに違いない。
「…………」
 帰ってくる。
 そりゃそうだ。アイツの生活は、こっちで始まるんだから。
 向こうじゃない、まさにここで。
 だから、寂しいとかつまんねぇとかそんな感情抱くこと自体、間違いなのに。
 ……つか、寂しいとか思うなよ。俺が。
 なんか、すげぇかっこ悪い。
「………………」
 いつだったか。
 ニュースがスポーツコーナーに移ったあたりから、音が耳に入って来なくなった。
 『あー、このままじゃ寝るな』と思った次の瞬間から覚えてないんだから、間違いない。
 ある意味確定。
 風邪引く、なんて考えは無論ない。
 暖房を入れてるワケじゃないんだが、風呂あがりってこともあってか、妙に身体が熱くて。
 ……そういや、いつもはアイツのほうが体温高くて、それをからかってたのにな。
 『お前、子どもかよ』って、やけに温かい手に触ったあとはいつも。

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