「あー、さむ」
今日は定時の17時上がりだった。
が、今はなぜか20時を回っている。
……なんで俺が野上さんの代わりに残業しなきゃなんねぇんだよ。
すげー理不尽じゃね?
今日の閉館担当は彼女だったものの、18時を過ぎたとき突然『今日は食事会!!』と叫んだ。
しかも、貸出作業中にだぜ?
あのときの学生の反応といったら、トラウマレベルだった。
……で、人のいい俺が代わってやったわけだ。
どうせ暇だし、まぁ別にいいんだけど。
とは思いながらも帰り支度は整えていたので、野上さんではなくなぜか副館長がすまなそうに労ってくれたうえにチョコレートを恵んでくれた。
俺、そんなに腹減った顔してたかな。
菓子と彼とがイコールでまったく結べないからこそ、意外どころか若干不安な感じもしたけどな。
「…………」
とっぷり日は暮れ、家の前の外階段を上がるに連れて北風が強まる。
どんだけ高低差あンだよ。我が家は。
両手をコートのポケットへつっこんだまま肩をすくめるも、寒さから小さく肩が震えた。
「……っ」
玄関の鍵を開けようとしたとき、ふいに聞こえた音に意識が引っ張られた。
ピアノの音。
我が家のリビングには、昔お袋が使っていたアップライトのピアノがある。
職業柄ってのもあるだろうが、小さいころは確かにアイツが弾いているのをしょっちゅう見かけた。
葉月がいたころは、それこそ羽織とふたりでピアノの横へ並んで歌ってたこともしばしば。
だが、それこそ数年単位でお袋が弾く姿は見ていない。
代わりに……つい先日、葉月が弾いてるのを見たのは記憶に新しい。
今日と同じように、帰宅したとき。
玄関を開けてもいつものように葉月がおらず、代わりにピアノの音が届いた。
弾いていて気づかなかったと笑ったアイツは確かに、あのとき弾いていたんだ。
今聞こえているのと同じ、ノクターンを。
「あら、お帰り」
「…………」
「何よその顔。そんなにお腹空いたの?」
玄関の鍵も閉めずにリビングへ向かうと、意外そうな顔でお袋が振り返った。
たちまち音がやみ、当然……ほかに姿はない。
「何? ……どうしたの? アンタ」
「……なんでピアノ弾いてンだよ」
「ちょっと。なんでそんなキレてるわけ? 失礼ねー。いいでしょ別に」
お袋はひどく嫌そうな顔をしたが、これといってまったくキレちゃいない。
ただ、うっかり舌打ちしたせいだろうな。
しょうがねぇじゃん。
てっきり、葉月が弾いてんだと思ったせい。
「たまには弾いておかないとね。せっかくこの間、調律してもらったばっかりだし」
「……ンだよ、紛らわしい」
「あら何よ。随分喧嘩ごしねー。あ、そういやアンタ、牛乳買ってきてくれた?」
「は?」
「ちょっと。15時すぎにメッセージ送ったでしょ? もうないから、1本買ってきてって」
コートのポケットへ両手を突っ込んだままソファへ座ると、思った以上に身体が沈んだ。
あーもーいいや。今日も早く寝よ。
どうせすることなんて限られてンし、見たい番組もねぇし。
しいていうならまぁ、ようやく順番が回ってきた新書は読みたい気持ちが多少あるけどな。
「いや、知らねぇけど」
「もー使えないわねぇ。っとに」
「うるせーな。だったら自分で買ってくりゃいいだろ」
「家に帰ってから気づいたんだから、しょうがないでしょ!」
そういえば今日は、スマフォをバッグへ入れたままだった。
昼休み、優人と別れたあと確認しようと思っていたが、急遽選書会議の資料をコピーしてほしいと頼まれ、結局休みがずれこんだせいで。
ったく。どいつもこいつも、俺を頼りすぎじゃねーの。
主に雑用メインだが、最後の最後に牛乳買ってこいとかガキと同じじゃねぇか。
「……あー。今見た」
「使えないわね」
「うるせぇな」
スマフォを開くと、メッセージアプリには54件というここ最近見ることのなかった数字が付いていた。
グループトークの影響もあるだろうが、開くと昨日の夜送ったと言っていた優人から15件ほど届いているのがわかり、アイツほんと暇だなとある意味感心する。
……が、しかし。
「…………」
「ったくもー。このあと出かけないの? ちょっとそこのコンビニ行ってきなさいよ」
「っ……まじか」
「あ? ちょっと? 聞いてる?」
両手でスマフォを握ったまま、こくりと喉が鳴った。
優人とお袋と2つのグループの下にある、葉月のトーク履歴。
そこに、4件の未読を示すマークが付いており、目が覚めるように脳が動く。
「っ……!」
開いた途端、『明日8時の飛行機で日本へ戻るね』と単純明快な文字が並んでいた。
送付されたのは、昨日の23時。
8時にメルボルンを発つということは……プラス11時間ってあたりか。
こっちから向こうへ行くのと違い、帰りは風の影響を受けて少し時間が変わる。
それでも、時刻どおりに出たとしたら、もうすでに羽田へ着いていて……って最後のメッセージにはっきりと『これから冬瀬駅に向かいます』と書かれており、電車に乗っているうさぎのスタンプがあわせて送られていた。
時間は今から1時間前。
羽田から冬瀬までは、途中で乗り換えてもまさに1時間ちょっとで着くからこそ、今は――。
「ッ……!」
「あ、ちょっと! 牛乳買ってきてよー?」
鞄を掴んで玄関へ向かい、引っかけるように靴を履く。
今は電車か。それとももう降りたか。
どっちにしろアイツはもう県内。
向こうであれだけ『迎えに行くから連絡しろ』と伝えていたにもかかわらず、まさかこんな体たらくを見せることになるとは想像もしなかった。
「くっ……!」
車へ乗り込み、慌ててエンジンを掛ける。
きっと先に連絡を入れたほうがいいだろうが……ああせめてメッセージくらい送っとくか。
俺が既読をつけたことは伝わっただろうが、いつ読んだかまではわからないだろう。
返事を送ってない以上、ヘタしたらアイツは自力でどうにかするはず。
あーーーやらかした!!
スマフォは持ってたのに、読んでねぇとか意味ねーじゃん!
我ながらくっそ後悔したものの、今はただ駅へと車を向かわせるしかなかった。
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