「わ……すごいね」
「……よく降るな」
 空から降り積もる、雪。
 季節外れでもなく、まさにシーズンどんぴしゃながらも、やむ気配のないものを見ながらため息が漏れた。
 吐く息は白く、濃い灰色の空へ溶ける。
 昼食を食べ終えて2回ほど紙芝居の下読みをしたが、途中で美月さんが少し慌てた様子で和室に入って来た。
 俺が車で来ていることを把握していたからだが、まぁ……もうどうとでもなれと半分思っていた部分があり、苦笑を返す程度。
 が。
 湯河原で3センチほど雪が積もり始めたと聞き、念のためお袋へ電話してみたら冬瀬ではすでに6センチ近く積もっていると言われたので、今日は帰宅を断念。
 泊まる予定じゃなかったが、別に明日何か予定があるわけでもなかったこともあり、一泊させてもらうことになった。
 昼食後は女将と美月さんも仕事だったらしいが、急遽この天候でキャンセルやチェックインの遅れる連絡が相次いでいるそうで、少し早めにきて対応してほしいと電話が掛かってきていた。
「転ぶぞ」
「ふふ。ありがとう」
 あえて歩道際の雪を踏むように歩く葉月の手を取り、外側を歩く。
 着替えも何もかも持ってなかったこともあり、葉月は美月さんが一式貸してくれることになったものの、さすがに俺はない。
 恭介さんのを黙って借りてもそりゃ緊急事態だし文句言われないだろうが、シェアできるもんとできないものとがあるわけで。
 結局、17時まで空き時間もあるからと葉月とふたり散歩を兼ねて湯河原の町へ買い物に出てみることにした。
 小さめのドラッグストアに、スーパー。
 そして、個人経営の店はそこそこあり、コンビニは思った以上の数があった。
 海岸まで行けばデカい店があるらしいが、そこまでは徒歩20分以上。
 さすがにこんな雪の中往復1時間弱はキツいので、結局近所をぶらぶらする程度に留めた。
 熱海とは違い、駅前に商店街があるというほどではなく、静かな町そのもの。
 こんな天気とあってか車どおりも少なく、まるでひなびた温泉宿へ泊まりに来たようにも思えた。
「お父さん、本当は今日帰ってくる予定なんだって」
「へぇ。よかったな」
「でも……雪が降っちゃったでしょう? だから、何時になるかわからないみたいで、さっきお母さんが電話してたよ」
「あー、そっか。恭介さんにとってはツイてねぇな」
 と同時に、やっぱり恭介さんの服を借りなくてよかったと強く思う。
 シャツと下着は、さっきのぞいたスーパーで購入済み。
 ジーパンだし、一泊くらいならどうとでもなる。
 ……俺は汚さねぇようにしねーとな。
 美月さんなら『大丈夫よ』と言いながら恭介さんの服を貸してくれそうだが、彼は絶対喜ばないどころか逆の意味で取りそうだからメシも慎重に食うのが吉だろ。
「……なんだ?」
「え?」
「いや。なんか嬉しそうだなと思って」
 傘なら文句はないだろうってことで、今は恭介さんのものを借りている。
 大きなおかげで葉月も濡れてはいないが、普段よりそばにくっついてるせいか、嬉しそうに笑ったのがしっかり見えた。
「なんていうか……あのね? こんなふうに歩いて買い物するの、あのとき以来でしょう?」
「あのとき?」
「たーくんがひとりで暮らしてたとき」
「……あー」
 そういやあったな、ンなことも。
 あれはなかなか快適だった。
 ……ま、数日だけだったけど。
 家のありがたみも知ったし、同時に……コイツの存在をやけに感じもした。
 あのときがなければ、今はないような気はする。
「なんだか、一緒に暮らしてるみたいだなって思って……ふふ。ちょっとだけ、嬉しいの」
「一緒に住んでンだろ」
「そうなんだけど、なんか……少しだけね。特別な感じがするっていうか」
 わかるような気もするが、全部を共有はできない。
 それでも、非日常だからこその特別感は確実にあるんだろうな。
 雪が降っていることがそもそも非日常なのに、急遽泊まりになって準備をしていることもそう。
 ……準備、か。
「え?」
「ちょっとコンビニ」
「ん。どうぞ」
 俺が傘を持つと言ったら、葉月はあのときと同じようにエコバッグを出して買ったものを持っている。
 が、さすがにここで買ったモンは……まぁ持ってくれてもいいけど。そりゃあな。
 ひょっとしたら使うかもしれないし、使わないかもしれないし。
 あっても困らないが、なかったら確実に困るレベルのもの。
「入るか?」
「ううん、荷物もあるからここで待ってるね」
 一応確認すると、案の定葉月は待つことを選んだ。
 傘を渡し、ひとり店内へ。
 さっき入ったスーパーにもあったが、さすがにアイツの目の前で買うのはなと躊躇したってのと……まぁ、どうしようか悩んでたってのが本音。
 それでも、結局流浪葉への道を戻りながら悶々としてはいたから、使っても使わなくても持っときゃいいだろと結論づいた。
 つか、コンビニで買うとかすげぇ久しぶり。
 しかもこんな温泉街でとか、どう考えたって結びつくヤツだな。
 ……ま、いいけど別に。
 面が割れたところでどうってこともないし、ましてやきっと直近ではくることのないコンビニ。
 店員が若い兄ちゃんってこともあってか、一瞬目が合ったものの当然会話が弾むことはなく慣れた手つきで紙袋へ入れられた。
「早かったね」
「そうか?」
「あ、持つよ」
「…………」
「え?」
「別に」
 紙袋を手に戻ると、葉月は当たり前のようにエコバッグの口を開いた。
 中身が何かも知らねぇで、お前素直だな。
 ま、黙っとく。
 出番があるかどうかは、未知数。
 放るように渡してから傘を取ると、さっきよりも雪の粒が少し大きくなったような気がした。

「いやー、かなり降ってきたね」
「ホントですね。キャンセル、そんな多いんですか?」
「いや、数件かな。今週はほら、天気予報がかなり脅してたからさ、前もってキャンセルする人も結構いたんだよ。でも、おかげさまで当館は数々のご予約をいただいておりまして。向こう3ヶ月は平日もほぼ満室となっておりますので、またの機会にってなると来れる人は来たいんじゃないかな」
「さすが流浪葉」
「あとはまぁ、キャンセル料も馬鹿にならないしってのが本音だろうけど」
「なるほど」
 それもそうか。
 天気が悪いからとはいえ、当日キャンセルとなれば確実に宿泊代100%。
 だったらまぁ、なんとしてでも来るよな。
 幸いなことに、まだJRは運休になっていない。
 都内では交通機関が麻痺し始めているようだが、そこそこ降ることもある地域とあってか遅れはあるものの動いているらしかった。
「にしても、よかったよー。そのサイズでよかったかなと思ったんだけどさ、ぴったりだね」
「簗瀬さん、セリフみたいに完璧じゃないすか?」
「やだなー。そんなことないってば」
 銀縁の眼鏡を上げた彼は、それはそれはさわやかな笑顔で拍手した。
 絶対計画的なヤツじゃん。
 さすがにスーツは持ってこなかったので、読むにしても服をどうしたもんかと思ったら、簗瀬さんは当然のようにワイシャツとスラックスを準備してくれていた。
 てことは、ハナっから俺が読むとふんでたんだろうよ。
 まぁ、断れねぇっつーか断らないだろうってのはわかってただろうし、いざ拒否したとしても、彼ならば話術でうまく持っていけると判断していたのかもしれない。
「あ、そうそう。事前に打ち合わせしたいっていうからさ、あとでほかの2人とも対面してもらえる?」
「もちろん、よろこんで。てか、女将に聞きましたよ。簗瀬さん、わざわざ大型絵本何冊か買ってくれたらしいじゃないすか」
「あー、聞いちゃったか。内緒にしとこうと思ったんだけどね。ほら、リピーターのお客さんがいるとはいえ、毎週単位で泊まりに来てくれてる人は本当にレアなんだよ。ましてや、そういう方々はお子さんももう大きかったりするからね」
「確かに。でも、結構高いじゃないすか。それを何冊もとか、予算ってそもそもあったンすか?」
「ううん。でも、実績は作れたでしょ? あっても無駄じゃないって今回のことで周りを説得もできたからね。図書館で借りるのもいいけど、どうせならローテーション組めるように何冊かあってもいいかなと思って。そのほうが練習もしやすいしね」
 さすがは経理担当というべきか。
 彼は腕を組むと、それはそれは誇らしげに笑った。
 とはいえ、年度末にそれだけの予算を確保したってのはデカすぎるだろ。
 腕が立つ以上の立ち回りをしてくれたに違いない。
 この人、ほんとすげぇな。
 やっぱ、俺よかよっぽどレジェンドじゃん。
「……あれ?」
「え?」
「いや、珍しいなーと思って。ほら、うち茶室のところにグランドピアノ置いてあるでしょ? あそこね、生演奏やってないときは誰でも弾けるように解放してあるんだよ」
 ふと簗瀬さんがあちらを見たかと思いきや、確かにピアノの音が響いていた。
 聞いたことはある……っつーか、こないだまでやってたドラマの主題歌じゃん。
 最近、県庁や駅の構内など至るところで見かけるようになってきた、ストリートピアノ。
 流浪葉ではプロのピアニストが時間によって弾いているそうだが、弾き手がいない時間もある。
 そこで、この形を取ったらどうかと恭介さんがお盆に帰省した際簗瀬さんに伝えたらしいが、これがまた意外と好評になったそうで、土日は割と解放している時間が多いと聞いた。
 ちなみに、いくら“ご自由にどうぞ”と言っても、ピアノをそこそこたしなんでる人間でなければ弾かない心理が働くらしく、定期的に誰かが触れるのがミソらしい。
 当然、流浪葉のスタッフにもピアノを習っていた人間はいるらしく、1時間に1回は誰かしらがなんの曲でもいいから率先して弾くようにとお達しも出たらしい。
 おかげで、昔ピアノを習っていた年配のスタッフだけでなく、つい最近趣味で始めたという若い兄ちゃんまで、様々な人間が自己研鑽するようになったとのこと。
 ほんと、活気づくよな。そういうちょっとしたことで、人ってのは。
 にしても、恭介さんの意見をそのまま取り入れるだけでなく、『ならば』と付け加えてスタッフへ触れ込むところが簗瀬さんのプロ意識だと思う。
 ちなみに彼は“猫ふんじゃった”なら弾けると豪語しているらしく、昨日それを弾いたら小学生が数人集まってきたとどこか誇らしげだった。
「おや、姫君か」
「え?」
 ちょうど柱の陰になっていたこともあって誰が弾いているのかわからなかったが、ひょっこり身体をずらした彼がにんまり笑った。
 姫って……は?
「え、誰すか? 本名?」
「まさか。葉月ちゃんだよ」
「葉月?」
 それはそれは楽しそうに笑った彼は、『ほら』と言うと手のひらでそちらを示した。
 身体をずらし、示された方向を見ると……確かに。
 茶室ではなくロビーの一角へ移されたグランドピアノには、確かに葉月が座っていた。
 しかも、周りには数人の子ども。
 そちらを見ながら笑顔を向けており、さながら音楽の先生にも見える。
「見えない? うちのお姫様に」
「いや……え、なんで姫なんすか」
「僕が言い出したわけじゃないんだけどね。最初は、お客様からの声だったんだよ。ほら、客室にアンケートがあるでしょ? あれに、小さな子が葉月ちゃんと遊んでもらって嬉しかったってコメントと一緒に、彼女がお姫様の格好をしてる絵を描いてくれたんだ」
「へぇ」
「それで一部の従業員からは『姫』って呼ばれるようになったってわけ」
 まさかの相手に意外どころか謎でしかなかったが、そういうことがあったのか。
 きっと葉月は、そのアンケート用紙を心底大事にしてるだろう。
 ……確かにアイツ、小さい子受けよさそう。
 そういや、向こうでもシッターとしてバイトしてたらしいし、扱いはうまいんだろうな。
「葉月ちゃんってさ、かわいいっていうよりも、きれいでしょ? 誰にでもわけ隔てなく接するし、年上だろうとへつらうことなく相手と対等に議論しようとするしね。それに何より、年下の子にめちゃくちゃ優しいんだよ。ほら、見て? 小さい子の相手してるとき、まぁ優しい顔してるよねー」
「……確かに」
 ピアノの周りにいた小さな子が、ぴょんぴょんジャンプしながら葉月と何か話していた。
 かと思いきや、どうやらリクエストされたらしく、曲が変わる。
 最近、子どもたちの間で流行っている歌謡曲。
 音楽の教科書にも載るとか載らないとか聞いたことのあるそれは、CMや番組の影響で多くの子どもたちが歌詞を見ずとも歌えるらしく、そばにいた4,5人の子どもは一緒になって歌っていた。
「アイツすげぇな」
「ほんとだよ。ピアノってさ、ただうまいだけじゃやっぱり人って集まらないんだ。ああやって楽しそうに弾いてくれると人を惹きつけるっていうか……あれは才能だと思うよ」
 葉月は1月末からずっと湯河原で過ごしていて、きっと本宅にいるよりも美月さんや女将と一緒に仕事していたほうが多かったんだろう。
 ついさっきの買い物のときも、流浪葉の着物を着た見知らぬ女性が先に葉月に気づき、少しだけ会話を交わしていた。
 知り合いかとたずねたら、あの大浴場のフロント係とのこと。
 コイツ、ほんとよく人の顔覚えるよな。ある意味感心だぜ。
「……およ」
「え?」
「あーいやうん。なんていうのかな。ちょっと早いけど、打ち合わせする?」
「いや、なんでそんな取ってつけたように……」
 珍しく簗瀬さんが慌てたなと思った。
 つか、そんな姿見たことなかったからこそ、逆に不思議に思った。
 が、どうやら俺の視線をアイツから外したかったらしい。
 ……いや。
 正確には、葉月の割とそばにいる人間から、と言ったほうが正しかったかもしれない。
 俺と同じくワイシャツにスラックス、そして……ネックストラップのスタッフ証。
 見覚えのある若い男が葉月に近づき、子どもたちと一緒に拍手しているのが見えた。

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