「心配しないでね? 彼、ちゃんと既婚者だから」
「いや、別に何も言ってないすけど」
「そう? 目が怒ってる気がして」
「生まれつきですって」
そう言いながらも、簗瀬さんはなぜか少しだけ楽しそうに見えた。
……ひょっとして煽られてる? 俺。
意図が読めないが、それはまぁいつものこと。
どこかで見たって……ああそうだよ。
この間、壮士と一緒に日帰り入浴へ来たとき、見かけた相手だ。
俺と大差なさそうな感じはあるし、むしろサービス業ってことで人当たりは柔らかいように見える。
子どもと同じ目線の高さまで腰を落とすと、葉月の曲にあわせて手拍子を打つように伝えているようにも見えた。
「ちなみに聞いとくけどさ、孝之君って姫君と付き合ってるんだよね?」
「……その、姫君ってやめません?」
「え、言いやすくない? 僕は直接言わないけど、葉月ちゃんへ直接愛称みたいに言ってるスタッフも結構いるよ」
「どーなんすかそれ」
愛称だとしても、アイツは確実に毎回苦笑してそうだけどな。
見えなくもないし、そう見ようと思えばまぁわかる気もする。
むしろ、恭介さんは喜んでそうだし、美月さんがどうかはしらないが、女将は鼻高そうだ。
あとで聞いてみるか。おもしろそうだし。
「付き合ってますけど……それが何か?」
「今度さー、うちでカップルプラン打ち出そうと思ってるんだけど、泊まりに来ない?」
「え?」
「ほら、この宿ちょっとお高めでしょ? でもさ、ターゲット層を変えたらまた違う集客が見込めるんじゃないかと思って。1日2組限定で、超特価あんどスペシャルサービスを打ち出そうかって提案があるんだよ」
にっこり笑った彼は、右手でVサインを作ると左右に振った。
新しい企画を打ち出すのは大事だと思うし、ヒットすれば発起人は嬉しいはず。
ってまぁ、簗瀬さんが言いだしっぺかどうかは知らねぇけど。
「せっかくだから、姫君とおいで」
「……いや、でも……」
「大丈夫。うちの客室スタッフは完全守秘を強いてるからね。部屋がどれほど荒れていようと、どんなにゴミが出ていようと、もちろん口外いたしません」
「それ、確実に顔バレするヤツじゃないすか」
意味ありげに眼鏡のフレームを上げた彼を見ながら、苦笑どころか口がへの字に曲がる。
どんな羞恥プレイだよ。
さすがに知り合ってしまった以上、ンな提案は呑めない。
第一、回りまわって恭介さんの耳に入ったら、確実に死のフルコースは目に見えている。
「いい案だと思うんだけどなー。女性はエステ無料券、男性は利き酒フルコースとマッサージ無料券付きだよ?」
「利き酒は楽しそうっすけどね」
「でしょ? おいでよ」
「いや、だから……」
「やだなー。普通に泊まりにくればいいじゃない。でしょ?」
「……そりゃまあ」
「で、ついでにその日も少しだけ雑用をやる、と」
「いや、それ絶対ラストが本命じゃないすか」
にっこり笑った彼に大きな爆弾を落とされ、噴き出す。
ほんとこの人、おもしれぇな。
悪気がないどころか、恐らくはすべてを計算尽くしてやっているからこそ、見えないぶん“おもしろい”と思う。
ほんと、俺の周りには手本になる大人が多いぜ。
ま、そんだけ勧めてくれるなら考えてもいいけど。当然。
ヤることヤらなきゃ、噂にならないんだしな。確かに。
そういう意味では、だいぶ得か。
「んじゃ、詳細はまた美月さんを通してお知らせいたしますよ」
「3割程度本気に取っておきます」
敬礼よろしく額へ手を当てた彼を見たところで、ちょうど曲が終わった。
ぱらぱらと拍手が広がり、周りにいた子どもたちの元へ親が集まってくる。
……集客、ね。
どうやら今葉月が弾いていた某アニメの主題歌をリクエストしたのは彼らしく、葉月が彼を見上げて拍手していた。
「…………」
なんの気なしの行為だろうし、アイツの笑顔に他意はない。
が、その仕草を見たせいか少しだけおもしろくないと判断したらしい。
「簗瀬さん、ちょっとだけ待ってもらっていいすか?」
「え? 何を?」
「打ち合わせ。どうせならやる前に、最大限の広告ひとつ打っとくんで」
ポケットへ入れたままだったスマフォを手に、向かうのはもちろんアイツのところ。
俺じゃない男に向けられたにこやかな笑みがおもしろくないわけじゃないし、アイツが注目を浴びているのが嫌なわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ。
アイツがあのときよりも穏やかに笑っているのが、単純に気に入らなかった。
「あ……たーくん」
「お前、この曲弾けるか?」
「え?」
数人の子どもたちが、それぞれ次の曲を何にするかで話し合っているのは聞こえた。
その仲介役として彼が間に入っているのは見えたが、ぐるりと反対側から回って葉月の隣に立つ。
そのとき、一瞬だけ目が合ったので、軽く会釈はした。当然な。
子どもじゃない。俺は十分成年者。
使えるモンはなんでも使う。
「えっと……両手じゃなくてもいい?」
「もちろん。メロディーライン辿るだけで十分だ」
スマフォで再生して見せたのは、あるゲーム曲のピアノ演奏動画。
最近の流行らしく、真上から鍵盤を弾く手を撮影している動画のおかげか、葉月はそう言ったものの左手の動きを見ながら簡単に鍵盤に触れてさらうような真似をした。
真面目だな、お前。
いや、むしろあんだけピアノを弾けるってことは、メロディーラインだけなら音でも再生できるんだろう。
ああ、そういや忘れてたぜ。
コイツ、真面目で頑固で……意外なところで負けず嫌いでもあったな。
弾ける人間からしたら、これだけ広い場所でかつ人前で弾くってことにはそれなりにプライドがつきまとうんだろう。
「うまく弾けるかわからないけれど……」
「たりめーだろ。耳だけで再生できたら、褒めてやる」
「ふふ。じゃあ……ここで聴いていてくれる?」
「ああ」
高音部側へ立ったままうなずくと、葉月は俺を見上げて小さく笑った。
たった3分にも満たない、短い曲。
それでも原曲がピアノでもあるおかげか、葉月はそこまで自信なさそうに見えない。
傍にいるのは、当然。つーか、ハナからそのつもりだけどな。
ここに立ったのは、ある意味“宣伝”のため。
悪いが、これから始まる催しの一部へ存分に利用させてもらう。
「…………」
単音のメロディーが静かに流れ始める。
ゆっくりとしたテンポなのは、原曲もそうだから。
だが、聞いていた子どもは頭の音だけで十分わかったらしく、数人が口々にゲームのタイトルをつぶやいた。
最近流行りらしい、このゲーム。
俺は知らなかったが、正月にヨシが持ってきて俺に教えてくれた。
小中学生だけでなくゲーム好きな大人にも爆発的に広がったらしい。
RPGの概念を覆すとかっつってたな。
選んだのは、ヨシが『この曲がいいんだよね』と教えてくれたやつ。
やっぱ、現役の情報は強いんだな。
さっきまでは、すぐそこの茶席にいてもスマフォをしたまま見向きもしなかった中学生がこちらを気にし始めたのが見え、内心ほくそえむ。
どうせやるなら、影響力のあるやつがベストだろ。
じゃなきゃ、おもしろくない。
「っ……」
何フレーズかメロディーを弾いたあとで、ふいに葉月が左手を合わせた。
まさに、動画そのものの音が溢れ、鳥肌が立つ。
繰り返されるメロディーは単純なもののはずなのに、左手で和音が作られることでまったく違う色を見せた。
お前すげぇな。
たちまち、周りにいた数人の子どもがさらに声を上げ、中には親の手を引いて『早く早く!』と向こうから駆けてくる子どももいて、影響力がハンパないことを思い知る。
簗瀬さんには、言っておかねぇとな。
子どもがいてピアノが弾けるスタッフは、自分ちの子どもが普段どんな曲を聞いてるか覚えて、1曲でも持ちネタにしたらいいってことを。
意外だったのは、初回の読み聞かせ会と同じで大人も集まってきた点。
当然ゲームをするのは子どもだけじゃなく、大人だって多い。
耳なじみのある曲なら、つい足を止めるのは当然のことだろう。
「っ……」
ほんの数分のリサイタルだが、最後の音が響いてしばらくすると、わっとした声援とともに拍手が響き渡った。
この反応は正直予想外。
ピアノが響いていたときは、まさにその音しかなかったからこそ、対比がくっきりしていて鳥肌が立つ。
だが、それは俺以上に弾いていた葉月が感じたはずだ。
驚いたようにあたりを見つめるも、慌てて立ち上がると嬉しそうに頭を下げた。
「このあと、17時からすぐそこで読み聞かせ会を行います。絵本だけでなく、湯河原になじみのある昔話や紙芝居もありますので、大人の方もぜひ足をお運びください」
拍手がある程度収まったところで声を張ると、言い切った瞬間周りから改めて拍手をもらった。
これは予想外だが、当然気分はいい。
頭を下げたところで簗瀬さんも拍手をしながら歩いてきたが、目が合った途端、心底おかしそうに笑われた。
「さすがレジェンド。こんな盛大な宣伝を打つとは思わなかったよ」
「使えるモンはなんでも使う主義なんで。集客見込めますね」
「まったく、ハードル上げたねー。今日読み聞かせデビューするスタッフもいるのに、こんなの聞いたらガチガチになっちゃうよ」
「大丈夫ですって。そのための打ち合わせなんすから」
片手を挙げて差し出され、勢いそのままハイタッチ。
やれるクチっすね、簗瀬さん。
だが彼は、『痛いなー』とけらけら楽しそうに笑った。
「あ?」
「すごいね、たーくん」
いつもと同じようなセリフなのに、満面の笑みで言われたからか目が丸くなった。
つか、お前がンな嬉しそうな顔するとはね。
立ったままの葉月は、小さく拍手をしながらまさにすぐここで笑った。
だが、らしいものの“逆だろ”と反射的に思う。
「すごいのは俺じゃなくて、お前だ」
「え?」
「1回で完璧に耳コピとか、さすがだぜ」
ぽんぽんと頭を撫で、ついいつものクセでそのまま頬へ滑る。
……あー、ここじゃなかったら、そのままキスしてた。
うっかりしなかったのは、俺のちゃんとした理性ががっつり働いてる証拠だな。
「サンキュー、姫君」
「っ……」
「なかなか似合ってンぞ」
瞳を細めたあと、顔を寄せて囁くと葉月は瞬間的に目を丸くした。
なんで、って言いたげな顔だな。
ンなもん、ちっと考えりゃすぐ辿り着けるだろ。
「どうして? 誰に聞……」
「…………」
「……もう。簗瀬さんっ」
「ごめんごめん。いいかなと思って、つい」
困惑した葉月が、ぱちりと音を立てて簗瀬さんを見つめた。
たちまち、彼は『いっけね』と口にして笑う。
確信犯じゃん、まさに。
やっぱこの人、っとにおもしれぇな。
葉月が散々顔を赤くして文句めいたことを口にしているものの、対する簗瀬さんはどこか嬉しそうに笑いながら頭に手を当てていた。
「すごいですね。こんなに人が集まるなんて」
「ねー、すごいよねこのふたり。うちに欲しくない?」
「ぜひ」
子どもたちへ接していた彼が、拍手しながら笑った。
他意も悪意もなさそうな笑顔で、改めて『どうも』とこちらも笑みを浮かべる。
が、正直興味を引きたかったのは彼じゃない。
俺は十分反応をもらったから、満足してる。
「え?」
「続きはまた、あとでな」
「えっと……」
「褒めてやる、つったろ」
葉月の頭を手を置いてから笑うと、一瞬まばたいたものの、次の瞬間思い出したらしくそれはそれは嬉しそうに笑った。
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