「たーくん、お風呂空いたよ?」
「ああ」
ひと足先に風呂をもらった葉月が、いつもとは違うパジャマ……ではなく浴衣姿で現れた。
それこそ、流浪葉のものとも違うデザイン。
淡い紫の柔らかそうな生地は、旅館でよく目にするものとはまるで違う。
「寒くねぇ?」
「えっと……今はちょっと暑いかな。でも、お母さんにストールを借りたから、もし冷えるようなら羽織るね」
まぁ確かに、本宅は廊下もそこまで冷えはしない。
ガラスがそうなのか、それとも壁自体がかなり断熱されているのかはわからないが、こうして廊下にいてもさほど寒さは感じなかった。
食後の一服で外に出ようとしたら、女将が『そこの戸を開ければいい』と灰皿までくれた。
どうやら、たまに吸うらしい。
まったく匂わなかったから気づかなかったが、普段そうしているようで作法まで教わったから今後はここが定位置になるな。
ちなみに、恭介さんは葉月と暮らすようになってからすっぱり煙草をやめた。
人間ってホント、気の持ちようでかなり行動が変わるんだなとあのときは実感した。
「今日のお話会も、とってもすてきだったね」
「あんだけ人が集まると壮観だな」
初回俺がやったときは、マイクなしのぶっつけ本番だった。
が、今回はピンマイクまで用意されており、あれから1ヶ月しか経っていないのに、急激な整備ぶりに少し驚く。
だが、簗瀬さんが大型絵本を買えたとも言ってたし、注目されてるからってことなんだろうな。
今日の話は3本。
最初に絵本の読み聞かせを2本してもらい、最後に照明の明るさを少し下げてもらったうえで紙芝居を行った。
まさに、“芝居”さながら。
絵本とは違って紙芝居はあの独特の世界観があるから、子どもたちはより引き込まれやすい。
……ま、ここにもひとり、だいぶ引き込まれたヤツがいたけどな。
前回と違い、葉月は前列に並んだ子どもたちの相手をしながら、かなり近い距離で話を聞いていた。
おかげで、時おりアイツの表情が見え、ついつい声に影響が出たほど。
今回、引き抜き役を買ってくれたスタッフは今日が初めての読み聞かせだったらしいが、よほど紙芝居に興味を惹かれたらしく、次はぜひ自分でも読んでみたいと意欲的だった。
「…………」
「なぁに?」
「せっかく風呂入ったのに、そばにいたら匂いつくだろ」
戸を開けてはいるが、空気の流れはこっち側。
中庭とはいえ今日は月も出ていないから、部屋の灯りに照らされているすぐそこの雪しか見えない。
あー、こういう夜はそれこそ、あのラウンジからの眺めはまさに風流だろうよ。
移動は寒いが、あとで足は運びたい。
どうせ館内に辿り着けば、あとはずっと快適だろうから。
「匂いが付いても、そんなに困らないよ?」
「いや、そうだけど……」
くすくす笑った葉月は、いつものように首をかしげた。
浴衣を着ているからか、いつもとは違って髪を高い位置にまとめている。
お前ほんと、かんざし一本で器用にやるな。
自分ではときどき不器用だと言うが、ほぼほぼ器用なやつだとは思っている。
「恭介さんから連絡あったか?」
「あ、ついさっき新幹線に乗るって連絡があったみたい。でも、ダイヤがかなり乱れてるから、こっちへ着くのは何時になるかわからないって」
「そっか」
つか、まさか羽田から乗り換えて新幹線を選ぶとはね。
よっぽど早く帰ってきたいらしい。
……ってまあ、そうだよな。
美月さんだけでなく葉月までここにいるって知ったら、当然の行為だ。
しかも、今は俺がいる。
恭介さんのことだから、聞いた瞬間電話の向こうでは確実に表情が変わってただろうな。
「さて。んじゃ、俺はそろそろ行く」
「え?」
「明日、またメシの時間には顔出すな」
煙草を消してから窓を閉めると、あたりに少しだけまだ煙が残っているような気がした。
軽く手で払い、不思議そうな顔をしている葉月の頭を軽く撫でる。
「ああ、そうだ。バッグごと、荷物もらっていいか?」
「たーくん……どこに行くの?」
「部屋。取ってもらった」
「えっ!? え、待って……どういうこと?」
美月さんへは話したが、葉月にはしなかった。
理由は単純。
きっとこんな顔するだろうから。
今日、流浪葉ではキャンセルが数件出たと聞き、だめもとで部屋が空いてないか聞いてみた。
すると、前回俺が泊まった部屋と同列の部屋が空いているとのことで、無理を言って押さえてもらった。
もちろん対価は払うし、その代わり浴衣やアメニティも使わせてもらう。
葉月が寝るのは、この家。
当然俺とは別。
「だって……どうして? ……私は一緒じゃだめ?」
ンな顔すんな。
きっとお前なら言ってくれるだろうし、離れたら寂しがるだろうなと期待もした。
だが、恭介さんも帰ってくるし、何より……物理的に距離を取らないと、今日はいよいよヤバいと感じたからだ。
アレを仕込みはしたが、あくまでも様々な要因が奇跡的に重なった場合の話。
言うなれば、恭介さんが帰ってこなくて、美月さんと女将ががっつりへべれけになるほど酔いつぶれてくれて、どんだけ葉月が声を上げても平気な場所に部屋をもらえれば、ってこと。
……ま、無理な話。
だから、あくまで1%にも満たない希望への保険でしかなかった。
恭介さんが帰ってくるってわかった時点で、当然白紙。
ブツを見つかるわけにいかないから、とっとと回収しねぇとヤバいからな。
「今お前のそばにいたら、歯止め利かねぇからな」
「っ……」
「さっきのピアノのときも、だいぶヤバかった。無意識で引き寄せそうになって、我ながら末期だと思った」
反射的に身体が動きそうになるのが、自分でもマズいとは思っている。
だから、離れるほうを選んだ。
女将はあんだけ俺を煽ってくるし、ヘタしたら美月さんも葉月の背中を押しそうな気はするが、だからつって父親が帰ってくるとこで手ぇ出せるほど肝が据わっちゃいない。
もう何度も、寸止め状態で失敗してる。
これ以上こらえたら、間違いなく夜這いどころじゃ済まない気がした。
……さすがに頭おかしくなるって。マジで。
「っ……」
「今度、別ンとこ泊まり行こうぜ」
「え……?」
「ふたりだけで」
そンときは、当然同じ部屋だし同じベッドでな。
耳元で囁くと、葉月はわずかに身体を震わせて俺を見つめた。
はー……いい反応するな、まじで。
家でも無理。流浪葉でも厳しい気がするからこそ、なんのしがらみもない場所じゃねぇとできねー気はしてる。
そりゃここにきて別の部屋で寝るってことが惜しい気はしてるし、ひどく残念な思いは当然。
帰る予定だったのに泊まりに急遽変わったことは、デカいチャンスだと期待もした。
が、そう簡単にはいかねぇってな。
せめて感触だけでも……ってそれがアウトなものの、あまりにも寂しそうな顔をされ、つい頬へ触れていた。
「……あ……」
「おやすみ」
唇ではなく頬へ口づけ、頭を撫でる。
名残惜しそうに見られて苦笑が浮かんだが、葉月はやっぱり表情を変えなかった。
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