「まあ……気を遣ってくれなくていいのに」
「いや、せっかく気に入ってもらえたみたいだったんで。女将と飲んでください」
 天気が悪かったせいか、湯河原までの道は混んでいなかった。
 考えていた時間よりも前に本宅の玄関には辿り着き、着物ではなく私服姿の美月さんが迎えてくれる。
 葉月が渡した紙袋を見て、彼女は嬉しそうに笑った。
 ……が。
「ありがとう。この間のことなら、恭介君には内緒にしておくから大丈夫よ?」
「っ……美月さん、そんな人でした?」
「あら、どういう人?」
 ふふ、と上品そうに口元へ手を当てた彼女が、一瞬だけ悪戯っぽく笑った。
 ……あー、もしかして元祖かこの人。
 葉月がヨシをかわいがるのを見て“いけない姉キャラ”を想像したが、どうやら美月さんのほうが現行らしい。
 そういや恭介さんも年下だったな。
 つってもま、ふたり並んでるときは明らかに恭介さんが美月さんのことからかってそうだけど。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「よくもまぁこのクソ寒いのに来たね。早くお上がりよ。風邪ひく」
 冬瀬を出たときよりも、湯河原はもっと空が暗かった。
 箱根が近いからか気温も低く、まだ午前中なのにすっかり夕方みたいな雰囲気をかもしだしている。
 女将はいつもと同じように着物をきっちり着込んでいたが、ストールを肩に掛けていた。
「今日、坊やは忙しいんだろう?」
「まあ。忙しいっつーか、簗瀬さんと話す程度すけど」
「今朝から何度も簗瀬君には聞かれたよ。孝之君はいつ来るんですかねーって」
「……まじすか」
 何度と来てないはずなのにすっかり見慣れた廊下を進み、通されたのはいつもと同じあの和室。
 すでに茶菓子が用意されており、なんだかんだ言ってきっちりもてなしてくれるところは、相変わらずだなと頭が下がるばかり。
 だが、ンなこと言われてまったり茶を飲んでられないのは俺。
 ……顔出してこよ。
 今日湯河原へ足を向けたことを、葉月は俺に礼を言ったが本来は逆。
 そりゃ、葉月にとってはここが“実家”みてぇな場所だろうが、ふたりとまったり話す程度が用事だろ?
 でも、俺は違う。
 プライベートにもかかわらず、簗瀬さんにきっちり“仕事”の顔してこなきゃマズいんだから。
「あー、ちっと行ってきます」
「まぁお待ちよ。せめて茶の1杯くらい飲んでからにしな。せっかく大福も用意したんだから」
「いやそりゃ……まぁはい」
 襟首を掴まれたわけじゃないが、女将は腕を組むと顎で『座れ』と座布団を示した。
 あのときとは違い、豆大福ではなく……どうやらイチゴ大福らしい。
 最近よく見かけるようになった、ぱっくり切込みが入ったタイプの大福からは、大ぶりのイチゴが顔を覗かせている。
「孝之君もお茶でいい? コーヒーもあるけれど」
「お茶で十分す」
 うっかりコーヒーと口走った日には、女将はすかさず小言を言いそうな気はした。
 ってまぁ別に、自分で淹れても全然いいんだけど。
 前回来たときに冷蔵庫まで『勝手に開けて飲みな』と女将からは許されたので、怖いもんはない。
 つか、入ったことねぇ部屋は……へたしたら美月さんのとこくらいか?
 まぁもっとも、どこが部屋でどこが納戸かは見分けつかねぇけど。
「葉月もお茶でいい?」
「あ、私が淹れるよ?」
「そう? ありがとう」
 女将が座ったのを見てから座布団へ座ると、葉月と美月さんがそろってキッチンへ向かった。
 先週見たときよりも距離が近く、葉月は一層嬉しそうな顔で。
 たまにはああやって会ったほうがいいだろうな、絶対。
 俺に見せる笑顔とはやっぱりどこか違うのを感じ、思わず口元が緩んだ。
「で? 葉月に手ぇ出したのかい?」
「は?」
「…………」
「…………」
「おや。ひょっとしてまだツバつけてないのかい?」
「いや……ちょ、聞きたいことあんすけど」
「なんだい」
 腕を組んだまま、女将がなんかよくわかんねぇことを言い出した。
 一瞬眩暈とも違う感覚が訪れ、こめかみに手を当てる。
 ……今なんつった?
 つか、明らかにそっち方面を聞かれてる気がすんだけど、間違いじゃねぇよな。
「なんで、けしかけるような発言なんすか」
「そりゃそうだろうよ。両親の許可はもらったんだろう? だったら何も戸惑うもんはないだろうに」
「いや、それはそれっつーか……普通逆じゃないすか? てか、女将。自分の孫なのに男けしかけるとか、どうかと思いますけど」
「馬鹿言ってんじゃないよ。くっついてから、どんだけ一緒にいるんだい。ほどよく手をお出し」
「っ……」
 正論なのかそもそも間違ってるのか、話の内容がとっぴ過ぎてよくわかんねぇ。
 そういや、女将は前回もンな話振ってきたからな。
 肝っ玉ありすぎて……つーかなんかもう、どっちかってぇと跡取りの話をされてるような気分にもなる。
「女から言わせるもんじゃないよ。それはわかってるね?」
「いや……つーか、アイツはンなこと言わないっすよ」
「なんでそんなことわかる」
「わかるっていうか……疎いっつーか」
 24時間経ってない昨日その話したんで、とはさすがに言えない。
 アイツは、キスしてもらえたら嬉しいとは言った。そりゃな。
 だが、その先を求めるのは男の特権みてーに考えてる節もあるらしいし、シたいって思ってんのは俺だけかもしんねぇし。
「はー……」
「ため息が重たいよ。悩むならとっとと手を出しゃいいのに」
「だから。けしかけんのやめてもらえません?」
「うるさい父親がいないうちに、やることやらなきゃ損だよ」
「……それはまぁ」
 わかってますけど。
 うっかり口にしてしまったのが、マズかったらしい。
 きらりと女将の瞳が光り、『やっぱりうるさいと思ってるんだね』といらんツッコミを入れられるはめになった。

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