「なんか、恭介さんが当たり前に指輪してんのってちょっと不思議な感じだな」
 お会計を済ませて表に出ると、お父さんたちがちょうどあのお店で会計中だった。
 今、私たちがそうしていたように肩を並べて何か話している。
 たーくんに見せている顔とは明らかに違って、穏やかな表情のお父さんはお母さんの耳元で何か話すと小さく笑った。
「ふふ。お母さんの指輪にはダイヤが少し多めだけど、デザインは同じだから……すてきだよね」
 湯河原でプロポーズのときに贈ったものとは違い、結婚式ではお揃いの結婚指輪を交換した。
 見に行くときに私もと誘われたけれど、さすがにそれは丁重にお断り。
 だって、そこに私の意見が入るのはおかしいでしょう?
 ふたりでいろんなことを話しながら、ふたりだけのものを決めてほしかった。
 左手の薬指に輝く、プラチナのリング。
 いつか……私もそうなるといいな。
 願わくばどうか、もちろんだけど隣にいてくれる彼と同じものを。
「っ……え?」
「なんか考えてたろ」
「……もう。どうしてわかるの?」
「にやけてた」
「……ぅ」
 ちらりと見た瞬間ばっちり視線が合って、慌てたのは私。
 たーくんは、腕を組んだまま『わかりやすいんだよ』と笑う。
 なんだか、最近こんなことが増えた。
 つい思いを馳せる時間が増えて、きっと自分では気づかないうちにひとりで笑っているんだろう。
 ……気をつけないとね。
 からかってくれる人がいるときはいいけれど、ひとりきりのときにそれをしたら、少し怪しい人に見えてしまうだろうから。
「待たせたな。どうする? 昼、どこかオススメはあるか?」
「いや、さすがにこっちまで把握してねぇけど」
 そろって姿を見せたお父さんが、たーくんを見た。
 県をまたいでいるし、どうやらあまりこちらへは来ないらしい。
 たーくんは、『だいたいいつも中で済ませる』と言いながら、すぐそこにある案内図へ足を向けた。
 でも、実はそこまでお腹は空いてない。
 私はね。
 たーくんはきっと、しっかり食べられるだろうなぁ。
 さっき、靴屋さんを出たときもお昼の話してたもんね。
「どこか見たい店はあるか?」
「私は特にないけれど……お母さんは?」
「私も大丈夫」
 たーくんと一緒に案内図を見ていたお父さんは、私とお母さんそれぞれを見た。
 きっと、彼の欲しかったものは終わったんだろう。
 そういえば、もともと買い物に来るのが目的じゃなかったんだもんね。
 せっかく、納車されたばかりの新車。
 ひょっとしなくても、たーくんと同じく走らせたい気持ちのほうが強いんだろう。
「何が食べたい?」
「それも……」
「ふふ。おまかせで大丈夫ね」
 お母さんを見ると、同じようにくすくす笑った。
 彼女も、さほど量を食べる人じゃないから、私と同じなんじゃないかな。
 納車待ちをしていたとき、デザートのあとにお菓子まで出されて、正直驚いたほどだったんだから。
「それじゃ、出て走りながら考えるか」
「……嬉しそうね」
「ほんと」
 お母さんが先に気づいたらしく、私を見てささやく。
 本当に、お父さんってば嬉しそうな顔するんだから。
 どうやらたーくんも気づいたようで、私の横へ並びながら『俺にはしない顔だよな』と肩をすくめた。
「ま、気持ちはわかるけど」
「そうだよね。たーくんも、納車の日はきっととても嬉しかったでしょう?」
「まぁな。納車の日伝えられてから、毎日ある意味テンション高かった」
 学生時代に乗っていた車を手放したのは、社会人1年目の冬だと聞いた。
 だから……今の車は、ちょうど1年経つか経たないか。
 休みの日にはよく洗車しているし、ワックスもかけていることを知っている。
 お父さんが選んだ車と同じ、光沢のある黒。
 車体は低いけれど、だからこそ道と平行で走っているときは滑るように進むのが少し不思議な感覚を覚える。
「きれいな車だもんね」
「まぁな。走るの楽しい」
 ほら。やっぱり、同じ気持ちなんだろうな。
 今、お父さんが見せたのと同じように笑った横顔は、こちらまで笑顔になるいい表情。
 そう思っている彼の隣に乗せてもらえるのは、本当に特別な時間。
 嬉しい。
 ……ふふ。
 しあわせ、って言ったほうがきっといいだろうけれど。

「……うっかりした」
「え?」
 駐車場へ戻って車に乗ったとき、ミラー越しにお父さんは私を見てため息をついた。
 何か忘れものかな。
 それとも、見ようとしたお店があった?
 思わず隣に座るたーくんを見ると、エンジンをかけたあとこちらを直接振り返る。
「お前。どうして葉月の隣にいる」
「いや、何もしねぇって」
「当たり前だろう。何かしたら海ほたる放置だからな」
「……いや、シャレになんねぇからマジ勘弁して」
 目が笑ってねぇじゃん。
 ベルトをしながらたーくんは肩をすくめ、小さくささやいた。
 海ほたるは、来たときに少しだけ寄ったパーキングエリア。
 最上階のデッキからは、神奈川と千葉どちらの土地もよく見えてとてもいい眺めだった。
 そういえば、あのときたーくん何か食べてなかった?
 本当に、いろいろな食べ物が彼のどこへ消えていくのか不思議だ。
「せっかく千葉まできたから、少し走るか」
 来たときとは違い、お父さんはアクアラインではなく館山方面と書かれたルートに曲がった。
 館山って……千葉のどのあたりなんだろう。
 それこそ、神奈川でさえたまに『どこかな?』と思う地名が多い私には、正直ぴんとこない部分もある。
 きっと、窓の外を眺めているたーくんなら、どのあたりをどう走っているのかわかるんだろうな。
 晴れていることと、あたりが開けていることもあって、空がとても広く感じる。
 こんなふうに広々見えるのは、久しぶりでどこか懐かしい感じ。
 といっても、オーストラリアと違って田んぼの光景が広がるのは、日本らしくて知っている場所じゃないのにほっとするような気持ちになるのはなぜだろう。
「っ……」
 お父さんは、助手席のお母さんとずっと話している。
 だから……後ろを振り返ることは、まずないだろう。
 ……もう。どうして?
 後部座席は十分ゆったりしていて、たーくんが今しているように足を組むことは問題ない。
 並んで座っていると言っても、ぴったり肩を並べているわけじゃないから、たーくんとの距離は少しある。
「…………」
 視線だけを彼へ向けるも、窓枠へ頬杖をついて向こうを見ているからどんな顔をしているのかわからなかった。
 これじゃあ、一瞬身体を震わせた私だけが変に映るでしょう?
 太ももを撫でるようにして置かれた、大きな手のひら。
 もう。お父さんに見られたら、どうするの?
 さすがに本気で実行しないとは思うけれど、“万が一”だってある。
 きっと、どんな方法を使っても帰ってこれるだろうし、さすがにお母さんと一緒に説得するつもりではいるけれど……心配になるじゃない。
 口ではいろいろ言いながらも、ちゃんと認めてもらえているからこそ、今ここで離されてしまうとしたらどれほどツライ時間が待っているかわからないのに。
「……っ」
 するりと撫でるように動いた手が、シートベルトを辿り、私の背中へ回る。
 背中……というよりも、腰に近いところ。
 前方の信号は変わったばかりで、車が停まることはまずない。
 ふたりは楽しそうに話しているし、どうやらまだ気づかれてはないみたいだけど……もう、本当に困るのに。
 くすぐったさとは違う感触で、わずかに息が漏れた。
 たーくん、どうして?
 くすぐるつもりではなさそうな手の動き。
 それこそ、普段……ううん。
 いつもしない、のに。
 あの夜を彷彿とするような、何かを確かめるかのようにゆっくり動く手のひらが温かくて、思わず口元に手を当てる。
 ……声が、漏れちゃいそう。
 ゆるやかに往復した手が、カットソーの裾に回った。
 途端、背中ではなく脇から胸元へ伸ばされそうになり、さすがに腕をつか……もうとたーくんを見て、目が丸くなる。
「ッ……」
 笑ってるんだもん。
 いったいいつから見られていたんだろう。
 頬杖はついたままなのに、まるで私の反応を楽しんでいるかのように口角は上がっている。
 もう……っもう!
 普段ほとんど見せることのない、悪戯っぽい男の子みたいな顔を見て、思わず唇を噛んでいた。
「どうした? 暑いか?」
「えっ!? あ……え、と……」
 ミラー越しにお父さんが私へ声を掛けた瞬間、たーくんが手を離した。
 それこそ、さっきまでと同じ。
 視線を窓の向こうへ向け、私に触れていた手のひらはすでに彼の足の上へ戻っている。
「大丈夫」
 確かに車内は暖かいけれど、そういうことじゃないの。
 でも、気づかれなくて本当によかった。
 ……もう。どうしてあんなことするの?
 普段からは考えられない行動で、ひとり勝手にどきどきする。
 たーくんは、いつもそう。
 余裕があって、まったくぶれなくて。
 たまに、私がそうだと言われることはあるけれど、全然そんなことないのに。
 たーくんに触れられるとそれだけでどきどきするし、嬉しいし……いろんな感情がいっぺんに巡る。
 好きな人とともにあることが、こんなにも自分の感情や感覚が刺激されるんだと驚くほどに。
「…………」
 車は一路、館山自動車道へ。
 これまでの道も広々としていたけれど、車が加速するのがわかる。
 こういう道を走るのと、一般道を走るのと違いはあるのかな。
 向こうで運転したことはあるけれど、私はゆっくり走るほうが好きで、ハイウェイは少しだけ怖かった。
 普段もひとりで乗ることはしなかったけれど、お父さんは仕事でもプライベートでも好んで運転をしていたように思う。
 だからこそ、こっちでのいろいろな道を走れることは嬉しいんだろうな。
 風を切る音が明らかに変わって、窓の外を流れる景色も少しだけ速く見えた。
「たーくん。あれ、なぁに?」
「どれ?」
 少しだけ身を寄せ、窓の外を指さす。
 広がっているのは常緑樹のおかげか、緑の風景。
 山が近く、点々と白い建物のようなものが見える。
「……牧場かなんかか?」
「そうなの?」
「じゃねぇの? つか、アレか? それとも別……っ」
 ちらりと私を振り返ったときの顔は、いつもと同じだった。
 きっと、私が指したものが抽象的で伝わらなかったんだろう。
 ……でも、たーくんは悪くないの。
 ごめんね。
 身体を寄せたまま、彼の足の上に置かれたままの手をそっと握ると、明らかに反応は違った。
「…………」
「……ふふ」
 きっと、お父さんたちがいなかったらいろいろ言われたんじゃないかな。
 手のひらを重ね、指を絡めながら姿勢を戻す。
 たーくんは、眉を寄せて私を見はしたものの、舌打ちするだけだった。
 ……車を降りたら、叱られるかもしれない。
 でも、そのときはもちろん謝るつもり。
 だって……どうしても、違う顔も見てみたかったの。
「…………」
 たーくんは頬杖をついたままだけど、ため息をつくとそれ以上何も言わなかった。
 ミラーには映らない高さ。
 シートへ置いたままの手は繋がっていて、さっき背中に触れられたのと違ってまさに“いつも”と同じだけど、不思議だね。
 こうして手を重ねているほうが、さっきよりもずっとどきどきしていた。

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