「おやすみなさい」
いつもより少し遅い時間。
22時半を目前のところでたーくんの部屋を覗くと、椅子ごとこちらへ身体を向けた。
「お前、寝れんの?」
「んー……いつもより歩いたでしょう? だから、ちょっと眠いかな」
帰りの車で2時間と少し近く眠っていたし、普段お昼寝はしないからきっと眠れないだろうなと思ったの。
けれど、少しぬるめのお風呂に長くつかったことや、足のマッサージをしたことで身体が十分温まり、下で伯母さんたちにあいさつをする前から眠気は少しあった。
明日も、羽織はきっと部屋の片付けをするんだろうな。
たーくんや伯母さんたちはいつものようにお仕事だから、同じ時間に朝ごはんは作ろうと思う。
朝食を作ることは、私がここに居候するようになってから、伯母さんと交わした約束。
ここを出て、大学の指定寮でひとり暮らしをしようと考えたこともあった。
ひとりで暮らせば、光熱費はもちろん、家賃だって食費だってかかってくる。
だから、そんなことに使うんだったらここにいなさい、って伯母さんに言われたあの日から、家事を手伝うということで私なりの対価を払うようになっていた。
「ま、寝れなかったらいつでも来ていいぞ」
「え?」
「寝かしつけてやるから」
「っ……もう。たーくん」
本を読んだままいたずらっぽく笑われ、思わず唇を噛む。
あれからまだ、1日しか経っていない。
んー……正確には0時を越えていたし、経ってないのかもしれないけれど……ってそうじゃなくて。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
小さく漏れたあくびをしてから手を振ると、たーくんもあくびを噛み殺したように見えた。
明かりをつけず、ベッドへ向かう。
今日は月が出ているから、カーテンの隙間から白い光が床に伸びていた。
前よりもずっと寒さは穏やかになったけれど、入ってすぐのベッドは冷たい。
朝も冷え込みは緩んだけれど、やっぱり温かい場所から起きるのは少し難しいんだよね。
……特に、今朝みたいな特別な朝は。
冬は嫌いじゃないし、それぞれの季節にしかないものも多いから、どの季節でも楽しんできたと思っている。
四季がハッキリしているメルボルンでの生活は、遠く離れていても日本を思い出すことができて楽しかった。
きっと嫌なことも悲しかったこともいろんな場面であったはずなのに、今がとても満ち足りているからか、振り返れば浮かぶのはいいことばかり。
「……ふふ」
ベッドへ横になって目を閉じると、瞬間的に思い浮かぶ表情。
まなざし。仕草。
どれもこれもがあまりにも正確に描ける自分は、本当にたーくんのことを意識してるんだなと思う。
どんなことを声に出しても、許してもらえるかもしれない関係になれた今。
一生、それこそきっとおばあちゃんになってもなお、内に秘めたままで終わる想いなんだと思ってたのに、今の自分は、恵まれすぎていて満たされすぎていて。
しあわせ。
ぽつりと口に出すと、溶けて消えてしまいそうで怖い。
だから、言えない。
ずっとずっと、どうか長く続いてほしい。
できることならば、私がおばあちゃんになるまで……なんて願うのは、あまりにも大それたことなのかな。
今日4人でお出かけして、私の抱く“夫婦像”にふたりは十分刻まれた。
私にとって理想の夫婦はまさに伯父さんと伯母さんだったけれど、両親が追加されたことがとても嬉しくて。
お揃いのデザインの指輪をして、手は繋がなくとも肩を並べて歩いて。
笑顔で話す姿に、どうしたって数年後の自分を重ねたくなる。
……指輪を選んだり、今後について話したり……できるようになるといいな。
離れて暮らしていたときは、好きな気持ちこそあれど、明確な“付き合う”イメージを抱けなかった。
けれど今は違う。
経験を重ねるたび、思いはより強くなる。
鮮やかに具体的なイメージを描ける。
……ああ。なんてしあわせなんだろう。
少しずつベッドが温かくなってきたからか、気持ちも身体もさっきよりもずっと緩んでいるのがわかった。
「……ん」
夢を見ていたのは覚えている。
けれど、どんな夢だったのかは覚えていない。
たーくんと、羽織が出てきたような……それとも、お父さんたち?
うっすら目を開けるけれどまだあたりは暗く、とてもじゃないけれど朝には思えない。
今、何時だろう。
枕元に置いたスマフォへ手を伸ばすと、白い光が強すぎて目を閉じていた。
間もなく、2時。
我ながらありえない時間すぎて、ぼんやりしたまま寝返りを打つ。
……お昼寝したの、久しぶり。
もしかしたらそのせいでの影響を、十分受けたのかもしれない。
「……?」
ぎゅ、と無意識に両手を握ったとき、大きな違和感があった。
……指。
右手の指に、何かある。
「っ……!」
お布団から手を抜いてすぐ、視線が離れなくなっただけでなく、瞬間的に頭が冴える。
右手の薬指。
私にとっては、憧れで終わるかもしれないと思っていたものがそこにあった。
「うそ……」
何年も想い続けてきた、『大切』という言葉だけでは表しきれない特別な人からの指輪が。
見間違いじゃない。
夢でもない。
どくんと大きく心臓が跳ねて、今が本物なんだと実感する。
「ど……して……?」
なぜ。どうして、ここにあるの?
理由。原因。
大元の部分が気になって気になって、指輪を喜ぶよりも先に頭がそっちに動いた。
私に指輪をくれる人は、少なくとも期待したい意味ではひとりしかいない。
……ううん。きっと彼に違いない。
えっと……確かに、確認してないから違うかもしれないけれど。
でも、少なくとも眠る前にはなかった。
となると、私が寝てる間に付けられたものということで……そんなことができるのも、する人も、ひとりしか思い浮かばない。
自由に私の部屋へ入り、そして出て行ける人。
それはもちろん私の隣の部屋の主で……恐らく今の時間はまだしっかり毛布を抱いて眠っているであろう、たーくんその人だ。
「…………」
こくん、と小さく喉が鳴って、まばたきをしてからまじまじと手を顔に近づける。
お布団から出て冷たい空気に触れた、手。
それは間違いなく自分のものなのに、まるで違うもののようにも感じる。
……指輪。
間違いなく、指輪だ。
普通のリングじゃなくて、ティアラの形をした、ちょっと変わったデザインの物。
多くの人がそうするように、5本の指を伸ばしてみる。
あたりは暗いけれど、十分に輝きがわかる気がする。
きっと今が明るかったら、もっときれいに輝いているだろう。
昼間にたーくんと見た、お父さんの指輪とも遜色ないプラチナとおぼしき質感だけでなく、中央にあしらわれたスイングダイヤがわずかな光さえも取り込んでいるように見える。
……どうしよう。
とっても嬉しい。
かわいくて嬉しくて、眠るどころじゃない。
「…………」
でもこれ、高かったんじゃ……野暮だと言われたら、それまで。
けれどまず思ったのは、『こんな高価な物を』っていう戸惑いでもあった。
怒られちゃうと思う。
そんなこと考えるな、って。
そうじゃないだろ、って。
……そうなんだよね。
いくら自分に似つかわしくないとか、高価すぎるとか考えたところで、受け取れないなんて付き返すことは決してできないんだから。
「…………」
頬が緩み、顔が元に戻らない。
どうしようもなく笑みがこぼれて、抑えようとしても気持ちが昂ぶる。
いいのかな。
こんなにかわいくて……こんなに特別なものをもらってしまって。
手を開いたり握ったりしながらも、視線はそこからミリとも外れない。
繰り返し考えるのは、同じこと。
彼がいったい、どんな顔をしてこれを私に贈ってくれようと思ったのか。
そして、いったいどんな顔をして私にこれを付けてくれたのか。
……いっぱい、聞きたいことできちゃった。
いつもはそんなに感じないのに、今日ばかりは、たーくんが起きてくるまでの時間がたまらなく待ち遠しくて待ち遠しくて、ちょっとだけ苦笑が浮かんだ。
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