部屋へ戻り、昨日借りてきた本を鞄から取り出すと、ほどなくして羽織が上がってきた。
できたとおぼしき瓶をいくつも持っており、どうやら“講座”は終了したらしい。
てことは、やっと葉月も風呂に入ったんだろう。
「…………」
本を読み始めて30分は経ってるが、もう20分経っても出てこなかったら、さすがに見に行くか。
うっかり寝てないとも言えないだろうし。
まぁ、アイツじゃンなことしねぇだろうけど。
「……あ」
そういや昨日、スマフォの充電が切れてモバイルバッテリー使ったな。
それ自体の充電も減っていて、結局80%までしか回復しなかった。
仕事のときはそれこそ昼休み以外触らないが、ないと不便。
万一に備えるわけじゃないが、あって無駄なわけじゃない。
本へしおりを挟み、鞄……を探すもそこにはなく。
……どこへ入れたっけな。
机にも置いてないから、どっかへ入れっ放しなんだろう。
てことは、スーツか?
「お」
クローゼットを開け、上着の内ポケットを探ると、案の定そこに入っていた。
ついでに週明けの月曜に向け、スーツをローテーションすべく端に追いやっていたものを手にして目が丸くなる。
……これか。
手にしたハンガーを見て、デジャヴがひとつ解決した。
どうりで見たことあると思ったぜ。
葉月があのとき試着したのは、月の始めまで俺が着ていたスーツの柄と同じ。
まぁ、買った店が同じだし同じ生地でレディース用があってもなんらおかしくはないが、もしかしたらアイツはこれを覚えていたのかもな。
そのうえでアレを選んだならば、意識してだろうよ。
……そういうトコ、な。
口には出さないし、俺が聞かなければ話題にもしないだろうが、当然選んだ本人にとっては『わかっている』こと。
なんなら、受け取ったあと聞いてやってもいい。
そのときどんな顔するか、なんとなく想像はつくけどな。
「たーくん、ちょっとだけ入ってもいい?」
「あ?」
ドライヤーの音がやんでしばらくしたあと、珍しく風呂上りの葉月が戸口へ姿を見せた。
いつものように、開けっ放しのドアを3回ノックしたあとで。
さっきまでとは違い髪をすべて下ろしているが、珍しくワンピースタイプのパジャマを着ており、それが“いつか”とダブって見えた。
「今日は、本当にありがとう」
「何が?」
「買い物に付き合ってくれたことも……さっきのことも。そうだなって思ったの。たーくんに言われるまで、少しだけ我慢してたのかなって思って」
クローゼットを閉めてベッドへ腰かけると、すぐここまで歩いてきた葉月は昼間そうしたように両手の指を絡めた。
我慢、ね。
実際はもう少し違う気持ちなんじゃないかとも思うが、そう取るのはある意味で言えばコイツらしさか。
「今日一日……つーか、昨日もな。俺には、人へ合わせすぎに見えた」
「昨日も?」
「薄着で散々自治会長とくっちゃべってたろ。風邪引くぞお前」
つか、もう忘れてんのか。
らしいというか、らしくねぇというか。
どっちにしてもおもしろくない点ではあったらしく、舌打ちする。
「まぁ極めつけは今日だな。昼間も言ったけど、なんで自分より祐恭優先した」
いまだにしつこいような気がしなくもないが、『俺と同じことをした』と言われても合致はしない以上、どうやら自分でも飲み込めちゃいないらしい。
つーか、なんでアイツなんだよ。
これが絵里ちゃんとか違う相手だったら、きっとここまで俺も引っかかってないんだろう。
もしかしたら、コイツの気持ちがアイツへ向いてると勘違いして以来、どっかで引っかかってんのかもな。
なんでアイツなんだよ、ってだいぶ思ってた時間があったせいで。
「そりゃ、ホワイトデーまで時間がねぇのはわかる。でも、だったらお前の用事が無事終わってからでもいいじゃん」
「そうなんだけど……クッキーだけなら、半日もかからないかなって思ったの。それに、瀬尋先生少し困ってるようだったから」
「大人なんだし、困らせときゃいいだろ」
「そんなふうに言わないであげて。たーくんの友達でしょう?」
「アイツが?」
「もう。よくないよ?」
当然の返答にもかかわらず、葉月はくすくす笑うと首を振った。
ンな顔すんな。腹立つ。
友達、ね。
友情とかそういうレベルじゃねぇんだけど。きっと。
それ言ったらじゃあ、壮士もそれに部類されんの?
……なんか違くね?
優人にいたっては『とっても仲いいじゃない』と言い出しかねない気がして、思わずベッドへもたれるとため息が漏れた。
「瀬尋先生も、鷹塚先生も……優人さんも。たーくんの大切な友達だから、私ができることならきちんと応対させてほしいなって思うの」
「なんで」
「だって……せっかく選んでもらえたのに、たーくんをよく知ってる人たちに『なんであの子なの』って言われたくないじゃない」
普段よりもずっと小さな言葉で聞こえたのは、それこそ“らしくない”セリフ。
自信がなさそうなものとも少し違い、意外さに目が丸くなった。
「たーくんと一緒にいるときじゃなくて、私がいないときに……たーくんにそう言われたら、嫌だなって思うの。私にとって、たーくんはなんでもできるし、いつだって……誰に対してもちゃんとしてるでしょう? だから、私のせいで悪く言われたくないっていうか……」
「少なくとも言われたことはねぇけどな」
「よかった」
普段とはまるで違い、葉月は心底ほっとしたかのように笑った。
が、それを見て感じるのはまた違ったもの。
……なんか違わねぇ?
そりゃ、俺の周りのヤツらに『なんであの子なの?』って言われないために動きたいってのも、まぁわからなくもない。
が、肝心なのは俺なんじゃねーの?
少なくとも、俺の周りのヤツらは当然“男”で。
媚びを売ってるわけじゃないのはもちろんわかるが、それでも……なんとなくおもしろくない。
「つか、周りのヤツらになんか言われたからって、お前に対する俺の評価はなんも変わんねぇぞ」
「それは……」
「だから、ほかの連中じゃなくて、どっちかっつったらきっちり俺のこと気遣えって」
うっかり本音が漏れたが、葉月は意外そうな顔をすると言いかけたらしい言葉を飲み込んだ。
……ほらみろ。どうすんだよ。
違う意味で言おうとしたセリフは消え、思ってたそのものが出たことは我ながら厄介だとは思ったが、出た以上仕方なくもあり、同時に今日の昼間せっせと祐恭へ対していたときの感情がうっかり蘇ったせいで、小さく舌打ちしていた。
「俺はお前のなんだ?」
「っ……」
グチグチ言うのは性に合わないし、これまでほとんどしたこともない。
たとえ相手が、普段ツルんでるヤツでもな。
相手が自分で気付くまでほっとく。
それが、俺のやり方だった。
……なのに、だ。
小さいとはいえ約束を反故にされたことがなんとなく気に食わない部分もあって……つーかま、午前中は単純に、葉月が俺じゃなく祐恭を優先したってとこが気に入らないといえば気に入らない。
なんで俺よりアイツなんだよ。
俺との約束って、そんな程度なのか? と、あのとき素直に思った。
「そりゃ、お前にとっては俺の周りのヤツらだから誠実に向き合いたい気持ちはあるだろうよ。けど、周りのヤツらにどう言われるかじゃなくて、俺がどう思うかだろ?」
「それは……うん。そう、なんだけど……」
「少し前、言ったよな。自分は俺のなんなんだ、って。じゃあ聞く。俺はお前のなんだ?」
ぴくりとも表情が動かず、それが我ながら意外だった。
目の前には、困ったような顔というよりは目を丸くした葉月がいるのに。
……コイツにはもっと甘いと思ってたんだけどな。
まさか追い詰めるように説教タレるなんて、想像だにしなかった。
「そりゃ、祐恭だからってのもあンだろうけど。だからって、そこまで他人を優先する必要ねぇじゃん」
言いたかったのは、そこ。
別に、祐恭を優先したからどうのってことじゃない。
そうじゃなくて、コイツはコイツなりにしなきゃいけないことがあったにもかかわらず、他人の頼みを優先させたのを『おかしいだろ』とツッコミたかった。
今日はあらかじめ買い物に付き合う予定が決まっていたにもかかわらず、それを先延ばしにしてまで葉月は自分じゃない相手を優先させた。
逆でもいいだろ?
まずは自分を大事にしてやることが、正しいんじゃねぇのか。
「……ンだよ」
「たーくんは……そのとき、どんな気持ちになったの?」
「は?」
「午前中。私が、瀬尋先生と新しい約束をしちゃったとき。……どんな気持ちだった?」
気持ち。
ンなモンを問われたことは、そういやここ最近どころか大きくなってからはすっかりご無沙汰。
昔々、それこそ小学生だったころはお袋に散々問われた気がしなくもないが、そう言われてもすんなり出てこない程度には口ごもる。
……どんな気持ちって……抽象的すぎね?
目の前に立ったまま、そっと肩へ触れながらいつものように首をかしげられ、振り返ってみる。
ああ、俺って結構真面目だな。
あながち、葉月のことばかり言えないかもしれない。
「まぁ……なんでアイツなんだってイラっとした」
「怒りってことだよね? じゃあ……その前は?」
「前?」
「怒りを感じる前に、必ず違う感情があったはずなの。えっと……たとえば寂しかったとか、悔しかったとかかな」
例に挙げられた今のふたつは、まぁ確かに違ってはいないようにも思う。
……が、しかし。
寂しかった、のか?
悔しかった……ああ、そっちは合ってるような気もするけどな。
「まぁ……いや、でもちょっと待て」
そのふたつを認めることは、少し難しい気がする。
つか、すげぇ子どもみてぇじゃん。
それこそ、構ってほしくて駄々をこねてる小さい子どもそのもの。
だが、葉月は柔らかく笑うと、すぐ隣へ腰掛けた。
「もしかして、卒業式のときもそう思ってくれた?」
「卒業式?」
「ん。あのときも、たーくんなんだか機嫌がよくなかったでしょう?」
記憶にはあるが、だいぶ昔のようにも感じる。
鮮明に残っているのは、葉月が着物だったこと。
……が、違う部分を言いたいんだろうな。
機嫌悪かったって……いつどこで。
式の最中はンなことなかったはずだし、終わったあとも…………あー、そっちかひょっとして。
優人と祐恭。
そういや、あそこでも声かけられたんだったな。
…………。
やっぱ、沸くのは怒りしかねぇんだけど。
それ以外の感情ってなんだよ。
すげぇ難しい。
「いや、だから。感情云々じゃなくて。俺が言いたいのは、周りの連中に好かれようとする必要なくねぇかってことなんだよ」
「でも、たーくんにとって大切な人たちでしょう? たーくんの選択が違ってなかったって思ってもらいたいっていうか……」
「別にいいじゃん。俺がお前を選んだことに変わりねぇんだから。イチイチ優人や祐恭を構うなっつの」
「どうして?」
「おもしろくねぇだろ? 本人ほったらかしとか」
「もう。そんなふうに言わなくてもいいでしょう?」
「ンでだよ」
「だってその言い方じゃまるで、たーくんが妬い……」
眉を寄せた葉月を見ていたせいか、引くに引けなかったというよりも、うっかりレベルで漏れたってのが正しい。
が、言いかけた途中でまじまじ見つめられ、小さく舌打ちする。
そういう顔すんな。
唇を結んですぐ、こらえきれないかのように柔らかく笑われ、やらかしたことにやっと気づいた。
「違うっつの。そーゆーンじゃねぇよ」
「でも……」
「別にそういうわけじゃ……ッ、だから」
葉月から視線を外すも、気づいたら首筋を撫でるように手を置いていたのがわかり慌てて手を振る。
違う。
そういうんじゃねぇし。
つか……あーもー優人のヤツ、余計なこと吹き込みやがって。
別にそういうんじゃねぇから。
本音を言ってる云々じゃなくて、これは単なる俺のクセ。
指摘されるまで意識してなかったのに、あんなふうに言われたら余計意識してぎこちなくなるっつの。
「そういう顔すんな」
「ふふ。だって……嬉しいんだもん」
「……っち」
「たーくんがそんなに想ってくれてるなんて……知らなかった」
舌打ちして視線を逸らすものの、葉月は嬉しそうにささやくとこちらへもたれた。
風呂上り特有ってのもあるだろうが、そっと腕を取られ、温もりが十分に伝わる。
ほのかに甘い香りがして、当然意識はそっちへ。
横顔をちらりと覗き見ると、思った以上に嬉しそうな顔をしていた。
『わかったから、妬くなって』
壮士にも言われたが、少なくともこれは嫉妬じゃねぇって。
妬くとか、そういうんじゃなくて……あー。
うまく言葉にできなくて、もやもやする。
が、これ以上口を開くと、さらにうっかり余計なことを滑りそうな気もする。
「…………」
こんなとき思い出さなくてもいいのに、金曜の朝見た“週末はイマイチの”の占いを思い出す。
こういうことか。
そういや、対する葉月は2位だつってたな。
……くそ。やらかした。
沈黙は金。まさにそれ。
ため息をつく程度にし、これ以上は静かにしとくのが確実に吉と思えた。
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