「それにしても、元気になったんだな。お前」
「え?」
「いつだったか……俺と駅で会ったときとは大違いな顔してる」
 足を組んでカップを傾けた彼は、さっきまでと違って悪戯っぽく笑った。
 うわ、すげぇ余裕ある男の顔じゃん。
 とてもじゃないが、俺にはまだできないヤツ。

「葉月、うまいだろ?」

「ごふっ!?」
「……大丈夫か?」
「いや、げほっ……ちょ、まっ……は? 何が!?」
 オーナーの店のコーヒーとは違い、やや渋めなローストだなとか思った瞬間のセリフで、またもやむせる。
 今日何回目だよ。勘弁してくれ。
 幸いなのは、白いシャツにシミが付かなかったことか。
「何がって……葉月を家に送ったのは夜らしいな。ということは、それまでに散々味わったんじゃないのか?」
「っ……恭介さ、それ……え、誰に聞いた?」
「葉月以外いないだろう」
 何を言ってるんだ、とからから笑った彼とは対照的に、思わずごくりと喉を鳴らす。
 まじか。
 つか、アイツもう喋ってたのかよ……!
 こんなことなら、もっとちゃんと確認しとけばよかった。
 てか、予想外すぎて逆にビビるぜ。
 まさか、俺がアイツへ手も口も出したってわかったうえで、こんなふうに笑って受けいれてくれるなんて想像もしなかった。
 いや……恭介さん、意外と意外だぜ。
 もしかして、相手が俺だから少しは安心してくれてる?
 だとしたら、そりゃ嬉しいけど。
「向こうでは、あいさつみたいなものだからな。誰とでもするし、それこそできて当たり前だ。わざわざお前のところへ行かせたのは、それがあったからだぞ? 感謝しろ」
「感謝って……いや、ちょ、待って。恭介さん、こうなることわかっててアイツこさせたわけ?」
「お前があまりにもヘコんでたからな。特別に貸してやったまでだ」
 具体的な行為を示されたわけじゃないが、どう考えても恭介さんの口ぶりはアレについてで。
 いや……存外すぎるぜ。
 まさか、俺とキスしたこと知った上でこんな柔和な顔つきしてくれるとはね。
 葉月に甘いのか、それともアイツがうまく言い含めてくれたのか。
 どちらにしろ、俺の命はどうやら助かったらしい。
「あの子は小さいころからずっと教わってきた」
「っ……」
「さすがに俺は教えてやれなかったからな。信頼できるほかの人間に、託してきたよ」
「……さすが外国」
「何言ってるんだ。どこの国でも必要なものだろう?」
「え、そうかな。あんま聞かねぇけど」
 ず、と音を立ててうっかりコーヒーを飲みそうになり、慌てて口を離す。
 どの国でも必要なのか……?
 いや、そりゃ、あいさつでいろんな人間とハグとセットでしてるのは見るけどさ。
 でも、あれって頬だろ?
 さすがに唇でしてるはずねぇんだけど。
 ……それとも俺が知らないだけか。
 親しい仲の連中とは、すんのか。
「…………」
 初めてであろうとはいえ、キスの反応は悪くなかった。
 拒否もされなかったし、それどころか……まあ確かに、“知って”るような反応ではあった。
 でも、恭介さんがそれを許すとは思えない……が、あいさつならそういうもんなのか。
 ある意味フクザツな気持ちではあるが、まぁ、文化の違いといえばそういうモンかもしれない。
 にしても、誰に教わってたんだよ。じゃあ。
 つか、教えるって実践的に?
 だとしたら、外国やべぇぞ。
 なんかこう……近親うんぬん以上のヤバさを感じる。
「小さいころから世話になってる、シェリーというシッターがいるんだ。彼女のおかげで、葉月はだいぶうまくなったよ」
「え。それって……」
「ほら、聞かないか? そういう年上の女性に教わるのが一般的だ、と」
 え、まじすか。
 それっていわゆる、男のアレと同じことってわけ?
 まさかそういう慣わしがあるとはな。
 てっきり廃れたと思ってたが、まだまだ外国はそうでもないらしい。
 てことは、アイツすでにそっちもたしなんでるってわけ?
 こんだけ、男がどうのって言ってる割に意外と恭介さん平気なタチ?
 それとも、それが当たり前だから?
 あー……なんか頭痛くなってきた。
 ワケわかんねぇ。
「もう10年来になる。もともと、幼稚園の先生をしていた人でな。同僚のお母さんなんだが、俺がひとり身で女の子を育ててると知って以来、ずっと世話になってきた」
「へぇ……」
「休みの日はもちろん、俺が仕事でどうしても夜出なければならなかったときなんかは、葉月が寝るまでそばにいてくれたよ」
 あっちでの暮らしぶりを、俺はよく知らない。
 恭介さんとまじまじ話すのも久しぶりだし、お袋から聞くのも断片的でしかなかった。
 が、そうか。
 葉月の周りには、恭介さんだけじゃない大人も結構いたんだな。
 当たり前だが見えなかった部分だけに、聞くことができて少しだけ嬉しい。
「あの子があそこまで育ったのは、彼女のおかげだ。本当に感謝してる」
「それ、伝えたら喜ぶんじゃね?」
「ちゃんと伝えてるさ。俺が教えられなかっただけにな」
 苦笑した彼がカップを置くと、小気味いい音が響いた。
 まさに見計らっていたかのように及川が歩み寄り、トレイへ乗せた車のキーを彼へ差し出す。
「俺に聞いた問いの答えも出たらしいじゃないか」
「……あー。まあね。おかげさまで」
「にしても意外だったよ。お前からあんな質問されるなんてな」
 小さく礼を言ってからキーを手にした恭介さんが、笑って立ち上がった。
 いや、まぁ……俺だって意外だとは思ったよ。我ながらな。
 まさかあんなふうに聞くなんて、自分でも思わなかったし。
 ただ、なんとなく。
 恭介さんなら俺が納得するような答えくれるんじゃないかと期待したのはホントだけど。
「葉月に感謝するんだな」
「それは、もちろん。……アイツのおかげだと思ってる」
「ほう。それなら俺にも感謝したらどうだ?」
「いやそりゃ……まあ。ありがとう」
「ございます、がないな」
「言うね」
 入店時と同じく数名のスタッフが見送ってくれながら、いくつも言葉をかけてきた。
 それこそ、方法は居酒屋と同じようなモンなのに、上品さがまるで違うのはなぜだ。
 やっぱこのブランド力なのか。はたまた雰囲気のせいなのか。
 ちょうど入り口前に付けられているSUV車は、それこそ展示されているのと同じもののはずなのに、まったく違って見えるほど格調高い雰囲気を漂わせていた。

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