「純也! 純也はいないの!?」
 凛とした声が、今日も響き渡る廊下。
 ここは、冬瀬市内でも有数のお屋敷である、楠乃希家の一画。
 実際、そう呼ぶにはあまりにも大きすぎるとは思うが、今はさておき。
 そんな『超』が付くような、いわゆるセレブお嬢様こと絵里様は、今日も執事長である彼を呼びつけていた。
「……ここにおりますが」
「くぁー! 遅い! 遅いわよ純也!!」
 ひらり、と柱の影から姿を現したのは、間違いなく彼その人。
 元、成りあがり高校教師の、田代純也である。
 何の因果か、こんなお屋敷のお抱え家庭教師に抜擢されてからというもの、いつからか身の回りすべての世話を担うようになっていた。
 ……内心、かなりの度合いで自分を不幸だと思っている人間その1。
 ある意味、『不幸』を口にする人間の典型かもしれない。
「ちょっと! 今日の舞踏会で着るドレスを届けておいてって言ったじゃない! それなのに、未だに見せにも来ないなんて、いったいどういうことなの!?」
「ですから、その件につきましては今朝の朝食の際にきちんと――」
「えぇい、口答えなんて許さないわよ!!」
「ッうわ!?」
 ひらり、と彼女がスカートを翻したかに思えた瞬間、どこからか重たそうな何かが彼めがけて飛んで行った。
 途端、ガコンッという何やら不吉な音が響き、地響きのようなモノが屋敷を震わす。
 低い唸り声のようなものが止んだあとには、勝ち誇ったような顔をした彼女が、彼の前に腰へ手を当てて立っていた。
「いいこと? 『やる』と言ったことをやらないと……どうなるかわかるわよね?」
「……横暴……」
「何よ」
「いえ、何も」
 不自然なヒビの入った大理石の床に腰を着いていた彼が、ぼそりと眉を寄せたものの、窮鼠猫を噛むには至らず。
 恐ろしいくらいの睨みで見下ろしたお嬢様に、ただただ首を横に振るのが精一杯だった。

「……お嬢様。またこんなところに……」
「…………あ」
 まるで、バツが悪い子どものように。
 少し高い場所から声の主を見下ろしながら、三女の葉月は苦笑を浮かべた。
「……えっと……ふふ」
「笑いごとじゃないでしょう」
「でも……あの、少しだけ……」
「ダメです」
「もー。……厳しいのね、相変わらず」
「仕事ですから」
 高い棚の本を取ろうと、上っていたはしご。
 その1番上でのんびりお目当ての本を読んでいたのだが、5分と経たない内に、彼女の執事である孝之に見つかってしまった。
 ……それもそのはず。
 ここは、彼にとって箱庭以上の存在でもある、楠乃希家の図書室なのだから。
 高い書架が並ぶここは、ぱっと見るとどこに何があるのかもわからない上に、入り組んだ造りになっていることから、たまに迷う者も出るほど。
 だが、それは彼以外の者の話で。
 幼い頃からここの管理を一手に担ってきた彼にとってみれば、考えられないことだった。
「……まったく。先日の怪我もまだ治ってらっしゃらないというのに……」
「あれは……でもね? もうそんなに痛まないのよ?」
「『そんなに』ということは、多少傷むということでしょう。無理をされては困りますが?」
「……ごめんなさい」
 とはいえ、相変わらず彼女ははしご上のまま。
 くるくると表情を変えている彼女を平然と見てはいるものの、彼は当然気が気でない。
 先日の落下と、手首の怪我。
 あれは彼女のせいではなく、自分自身のせいであるからこそ――……やはり、そんな場所になどいてほしくなかった。
「声楽はもうよろしいので?」
 彼女を見上げ、気にかかっていたことを訊ねる。
 すると、途端に表情が曇るのが見えた。
「……練習はおしまい」
「もうですか?」
「そう言わないで。これでも……さっきまでは、がんばっていたのよ?」
 両手を太ももへ垂直に当てながら、背を伸ばす。
 ギシっと嫌な音が鳴って、内心当然穏やかではない。
 だが彼女は、彼のそんな気持ちなど微塵も感じていないかのように、身体の向きを少しだけ変えた。
「……みんなの前で歌うのは、苦手なのに……」
 ほんの少しだけ、声のトーンが落ちる。
 同時に、表情の明るさも。
「ピアノも、弾けないわけじゃないのよ?」
「ですが、無理なさって腕自体が動かなくなりでもしたら困ります」
「……それは……。でも、心配しすぎだわ」
 相変わらずね、と少しだけ笑った彼女が、掛けている腰のすぐ隣に両手を付いた。
 ほんの少し。
 また軋む音が聞こえて、つい手が動く。
「……お嬢様。そろそろ降りてらっしゃいませんか?」
 きっちりとはしごを片手で押さえながら、彼女に少しだけ強い口調で願う。
 ……どうか。
 小さく囁かれた言葉と眼差しに、彼女もようやくうなずいた。
「わかったわ。……だから……そんな顔しないで?」
 ごめんね、と聞こえたのは果たして何かの聞き間違いか。

 一方そのころ。
 同じ屋敷の別の部屋では、これまた別のお嬢様がピアノに向かっていた。
「……はぁ……」
 いったい何度目のため息か。
 肩より少し下まで伸びた髪を揺らしながら、次女の羽織は譜面に眉を寄せる。
「どうなさいました?」
「っ……」
 少し遠くからかかった声でそちらを見ると、優しそうな顔の男性がドアから入ってくるところだった。
 手には銀の小さなトレイを持っており、真っ白いティーカップが載っている。
「少し休憩なさってはいかがです?」
「……そうするわ」
 差し出されたティーカップとクッキーのお皿を見て、彼女が嬉しそうに微笑む。
 その表情を見ることができて、彼は内心ほっとしていた。
 彼女ならば、きっと喜んでくれる……と、そう思ってここへきたのだから。
 今、彼女は決して得意ではないモノに取り組んでいる最中。
 すべては、屋敷のため。家のため。
 ……楠乃希の名前のため。
 18の少女には重すぎるモノながらも、彼女は――……いや。
 彼女たち姉妹は、懸命に立ち向かっている。
 負けぬように。
 恥じぬように。
 ……そして、潰れてしまわぬように。
 つらいと口に出すことは決してなかったが、だからこそ健気すぎてつらく思う。
 今、目の前で苦笑を浮かべた彼女の瞳の下にも、うっすらとクマのようなモノができていた。
「……やっぱり、今夜のピアノは……私じゃなくて葉月がやったほうがいいんじゃ……」
「仕方ありません。葉月様は先日の怪我が完治しておりませんので」
「…………そうね。無理をさせるわけにはいかないわ」
 カップに口付けてからため息をついた彼女が、ほんの少しだけすがるように瞳を向ける。
 だが、微笑を浮かべたまま首を横に振る彼を見て、またしょんぼりと肩をすくめた。
 今夜は、楠乃希にとっても大切な取引先の重役らが集まる、披露パーティ。
 18になった彼女たち3姉妹を……いよいよ表に立たせるための。
 そんなことをすれば、真っ先に付け入ろうと動く輩が出てくるものなのだが、これも掟でありルール。
 彼女たちも子どもと呼べる歳ではないことから、両親や祖父母が決断を下した。
 社会に出るからには、厳しいこともつらいことも、徐々にとはいえ目の当たりにしていかなければならない。
 いくら、そばに彼らがついているとはいえ、やはりどうしても手を出すことはできない。
 そうなったときは、当然彼女らが自ら動かねばならず。
 ……これからは、汚いことも知らなければいけない。
 そのことこそが、彼ら執事が抱えている共通の悩みでもあった。
「……ごちそうさま」
「おかわりをお持ちしましょうか?」
「ううん、もういいわ。ありがとう。……とてもおいしかった」
 ふと考えごとをしていた間に、トレイにへ彼女がそっとカップを置いた。
 はっとして笑みを見せたものの、返って来たのは、予想以上に温かな笑み。
 ……このお嬢様も、知らなければいけないことがこれから出てくる。
 優しく、温かく、澄んだままの瞳と笑顔をまっすぐに見つめたままながらも、どうしても笑顔がぎこちなくなってしまったのは、仕方なかった。

1)絵里様の横暴っぷりが気になる。

2)葉月様がどうして怪我したか気になる。

3)羽織様はクッキーを食べないのかが気になる。

2007/4/1 初回公開
2007/4/13 二次公開



目次へ戻る